鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

忘れ去られた鎌倉 手広切通し編 2

2009年08月24日 | 忘れ去られた鎌倉
鎌倉の郷土史刊行物に書かれた事は、古代東海道や武蔵大路について鎌倉の山中で細い道である!や初めから触れないスタンスです。
その上で、『新編鎌倉志』で書かれた文章と『吾妻鏡』に昔武蔵大路と呼ばれ場所が鎌倉市内にある事より、解釈が混乱している様子。古文書を批判の態度で扱ってみます。

テーマは、桐生六郎が武蔵大路の場所から深澤から腰越へ向かう道に大仏切通しを使ったと解釈する問題です。

『新編鎌倉志』より
大仏切通について 「大仏西の方なり。この切通を越えれば、常盤里へ出るなり。吾妻鏡に、治承五年九月十六日に、足利俊綱が郎党、桐生六郎、主の首を持参して、梶原景時が許に案内を申す。しかるに鎌倉の中に入れられず。直ちに武蔵大路より深沢を経て腰越に向うとあり。深沢をへて行く道、この道筋ならんか。」となっている。

『吾妻鏡』に書かれた事は、
桐生六郎は俊綱の首を持参し武蔵大路に来た。使者を梶原平三へ送り、案内をしてもらう。だが鎌倉中には入れず。深澤から腰越に行くように指示された。
原文では、、、
桐生六郎持參俊綱之首。先自武藏大路。立使者於梶原平三之許。申案内。而不被入鎌倉中。直經深澤。可向腰越之旨被仰之。 (原文は、鎌倉歴史散策加藤塾より引用)

上記の文章を比較すると、『新編鎌倉志』のオリジナルの部分は、「大仏切通 大仏西の方なり。この切通を越えれば、常盤里へ出るなり。深沢をへて行く道、この道筋ならんか。」です。
「大仏切通 大仏西の方なり。この切通を越えれば、常盤里へ出るなり。」この確信に満ちた言い回しと比較して、、
「深沢をへて行く道、この道筋ならんか。」の文章の曖昧な事に注目してください。
この文章は、、、『吾妻鏡』の知識が有るけど、この道を指しているのかな?? っと疑問符を付けた文章です。

その後の時代になりますと、
『鎌倉攬勝考』には、大仏切通 について「古へは深沢切通とも唱へけるといへり」と書かれる。
これは、私に伝言ゲームを想像させるのです。

『吾妻鏡』には、、、、、、先自武藏大路被入鎌倉中。直經深澤。可向腰越。
『新編鎌倉志』には、、、、「深沢をへて行く道、この道筋ならんか。」が加わり、
『鎌倉攬勝考』では、、、、「古へは深沢切通とも唱へけるといへり」
大仏切通しを「深澤切通ともも唱へける」と言う結末になった!
風評とか、伝言ゲームの面白い処は、不確かな情報のやりとりで話の中身が変化する事です。
鎌倉の歴史事情通の方がこの問題で揺れ動いている様ですが、、、
大仏切通より西は、常盤里があり、梶原があり、その次が深沢です。
深沢は吾妻鏡にも出てくる地名です。大仏切通しを深沢切通と呼ぶのは無理がある。

はじめから吾妻鏡には、大仏切通しの話は無い。
新編鎌倉志にてバリケードで通過できない廃道を「深沢をへて行く道、この道筋ならんか。」
を加え、誤解の種を作った。
鎌倉攬勝考は、地元民が無関心な使えない名無しの道に対して、新編鎌倉志ネタを転用したと私には読める。

吾妻鏡」最終記事1266年
  この間419年
「新編鎌倉志」(1685年刊)
  この間144年
「鎌倉攬勝考」(1829年刊)

考えられる事は、大仏切通しは現状でも戦跡のバリケードが残り非常に歩きにくい。江戸時代は、当然今より急激な勾配で、使えなかった!と想像すれば、、、使われない道は時間経過(4~500年)とともに名前も消えます。
となれば、名無しの切通しは、「昔は深沢に通じた切通し」となっても不思議は無い。
「深沢に行く切通し」を「深沢切通し」の名詞と解釈間違いし「新編鎌倉志」の知識がその間違えを補強したと、、想像するのですが、、、
古書と言えども、批判精神なく読まれるのは問題があると考える。
質が良い情報と、質の悪い情報を区別する考えが必要と思います。

写真は、手広切通しを逆(腰越方面から手広に向けた)から写したモノです。
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忘れ去られた鎌倉 手広切通し編 1

2009年08月18日 | 忘れ去られた鎌倉
『新編鎌倉志』より
「大仏切通 :大仏西の方なり。この切通を越えれば、常盤里へ出るなり。吾妻鏡に、治承五年九月十六日に、足利俊綱が郎党、桐生六郎、主の首を持参して、梶原景時が許に案内を申す。しかるに鎌倉の中に入れられず。直ちに武蔵大路より深沢を経て腰越に向うとあり。深沢をへて行く道、この道筋ならんか。」となっている。
さて、、
今回のテーマは、武蔵大路より「深沢を経て腰越に向う」道である。

桐生六郎は、主の首を持ち武蔵大路を鎌倉に向かった訳です。
武蔵国分寺脇から町田海老名国分寺脇を通り、大船玉縄城脇から大船天神山の麓まで武蔵大路をたどり着いたのですが、この辺り(天神山の麓、山之内)から先の鎌倉内に入れず立ち往生となった。
新田義貞の鎌倉攻めでも、洲崎の戦いで勝利して山内に向かう時、この天神山を乗り越える必要が有る、、乗り越えた場所が吾妻鏡に書かれた鎌倉の外にある武蔵大路と考えるのです。

大船天神山より深沢を抜け腰越へは古来より道が在ったと吾妻鏡の記述から考えられる。現在確認できるのは、このルートに江戸時代の「江ノ島道」と呼ばれる道があり、古代からの使いまわされた道と考えるのです。
特に深沢より腰越間は山が連なり、この山越えのポイントは手広と呼ばれる場所に限られる。

この手広の青蓮寺脇には切通しが有ります。
その様な訳で、この場所を桐生六郎所が通ったとすれば、「吾妻鏡」にも載った歴史ある道です。
写真は、手広の青蓮寺脇切通しで、通行禁止の立て札から上の状況です。
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忘れ去られた鎌倉

2009年08月14日 | 忘れ去られた鎌倉
鎌倉は、とても有名な観光地です。
でも、、、所詮観光地とは、商業主義と結びついた現代の顔です。
その裏には、歴史を刻み続ける忘れ去られた顔もあるのです。
お金儲けの対象にならない場所にある鎌倉らしい場所の話です。
観光客は寄り付かない、観光客用のハイキングコースでもない。
でも、鎌倉の本来は「こんな風景!」っという場所です。

さて、写真の場所は、このブログ「武蔵大路が鎌倉に有る!」2006-09-10
に書かれた「桐生六郎」に絡む場所です。
ですが、御覧の様に不細工な看板を御覧いただけると思います。
見せたいものは、この先です。
次回にご期待を!
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