鎌倉の郷土史刊行物に書かれた事は、古代東海道や武蔵大路について鎌倉の山中で細い道である!や初めから触れないスタンスです。
その上で、『新編鎌倉志』で書かれた文章と『吾妻鏡』に昔武蔵大路と呼ばれ場所が鎌倉市内にある事より、解釈が混乱している様子。古文書を批判の態度で扱ってみます。
テーマは、桐生六郎が武蔵大路の場所から深澤から腰越へ向かう道に大仏切通しを使ったと解釈する問題です。
『新編鎌倉志』より
大仏切通について 「大仏西の方なり。この切通を越えれば、常盤里へ出るなり。吾妻鏡に、治承五年九月十六日に、足利俊綱が郎党、桐生六郎、主の首を持参して、梶原景時が許に案内を申す。しかるに鎌倉の中に入れられず。直ちに武蔵大路より深沢を経て腰越に向うとあり。深沢をへて行く道、この道筋ならんか。」となっている。
『吾妻鏡』に書かれた事は、
桐生六郎は俊綱の首を持参し武蔵大路に来た。使者を梶原平三へ送り、案内をしてもらう。だが鎌倉中には入れず。深澤から腰越に行くように指示された。
原文では、、、
桐生六郎持參俊綱之首。先自武藏大路。立使者於梶原平三之許。申案内。而不被入鎌倉中。直經深澤。可向腰越之旨被仰之。 (原文は、鎌倉歴史散策加藤塾より引用)
上記の文章を比較すると、『新編鎌倉志』のオリジナルの部分は、「大仏切通 大仏西の方なり。この切通を越えれば、常盤里へ出るなり。深沢をへて行く道、この道筋ならんか。」です。
「大仏切通 大仏西の方なり。この切通を越えれば、常盤里へ出るなり。」この確信に満ちた言い回しと比較して、、
「深沢をへて行く道、この道筋ならんか。」の文章の曖昧な事に注目してください。
この文章は、、、『吾妻鏡』の知識が有るけど、この道を指しているのかな?? っと疑問符を付けた文章です。
その後の時代になりますと、
『鎌倉攬勝考』には、大仏切通 について「古へは深沢切通とも唱へけるといへり」と書かれる。
これは、私に伝言ゲームを想像させるのです。
『吾妻鏡』には、、、、、、先自武藏大路被入鎌倉中。直經深澤。可向腰越。
『新編鎌倉志』には、、、、「深沢をへて行く道、この道筋ならんか。」が加わり、
『鎌倉攬勝考』では、、、、「古へは深沢切通とも唱へけるといへり」
大仏切通しを「深澤切通ともも唱へける」と言う結末になった!
風評とか、伝言ゲームの面白い処は、不確かな情報のやりとりで話の中身が変化する事です。
鎌倉の歴史事情通の方がこの問題で揺れ動いている様ですが、、、
大仏切通より西は、常盤里があり、梶原があり、その次が深沢です。
深沢は吾妻鏡にも出てくる地名です。大仏切通しを深沢切通と呼ぶのは無理がある。
はじめから吾妻鏡には、大仏切通しの話は無い。
新編鎌倉志にてバリケードで通過できない廃道を「深沢をへて行く道、この道筋ならんか。」
を加え、誤解の種を作った。
鎌倉攬勝考は、地元民が無関心な使えない名無しの道に対して、新編鎌倉志ネタを転用したと私には読める。
吾妻鏡」最終記事1266年
この間419年
「新編鎌倉志」(1685年刊)
この間144年
「鎌倉攬勝考」(1829年刊)
考えられる事は、大仏切通しは現状でも戦跡のバリケードが残り非常に歩きにくい。江戸時代は、当然今より急激な勾配で、使えなかった!と想像すれば、、、使われない道は時間経過(4~500年)とともに名前も消えます。
となれば、名無しの切通しは、「昔は深沢に通じた切通し」となっても不思議は無い。
「深沢に行く切通し」を「深沢切通し」の名詞と解釈間違いし「新編鎌倉志」の知識がその間違えを補強したと、、想像するのですが、、、
古書と言えども、批判精神なく読まれるのは問題があると考える。
質が良い情報と、質の悪い情報を区別する考えが必要と思います。
写真は、手広切通しを逆(腰越方面から手広に向けた)から写したモノです。
その上で、『新編鎌倉志』で書かれた文章と『吾妻鏡』に昔武蔵大路と呼ばれ場所が鎌倉市内にある事より、解釈が混乱している様子。古文書を批判の態度で扱ってみます。
テーマは、桐生六郎が武蔵大路の場所から深澤から腰越へ向かう道に大仏切通しを使ったと解釈する問題です。
『新編鎌倉志』より
大仏切通について 「大仏西の方なり。この切通を越えれば、常盤里へ出るなり。吾妻鏡に、治承五年九月十六日に、足利俊綱が郎党、桐生六郎、主の首を持参して、梶原景時が許に案内を申す。しかるに鎌倉の中に入れられず。直ちに武蔵大路より深沢を経て腰越に向うとあり。深沢をへて行く道、この道筋ならんか。」となっている。
『吾妻鏡』に書かれた事は、
桐生六郎は俊綱の首を持参し武蔵大路に来た。使者を梶原平三へ送り、案内をしてもらう。だが鎌倉中には入れず。深澤から腰越に行くように指示された。
原文では、、、
桐生六郎持參俊綱之首。先自武藏大路。立使者於梶原平三之許。申案内。而不被入鎌倉中。直經深澤。可向腰越之旨被仰之。 (原文は、鎌倉歴史散策加藤塾より引用)
上記の文章を比較すると、『新編鎌倉志』のオリジナルの部分は、「大仏切通 大仏西の方なり。この切通を越えれば、常盤里へ出るなり。深沢をへて行く道、この道筋ならんか。」です。
「大仏切通 大仏西の方なり。この切通を越えれば、常盤里へ出るなり。」この確信に満ちた言い回しと比較して、、
「深沢をへて行く道、この道筋ならんか。」の文章の曖昧な事に注目してください。
この文章は、、、『吾妻鏡』の知識が有るけど、この道を指しているのかな?? っと疑問符を付けた文章です。
その後の時代になりますと、
『鎌倉攬勝考』には、大仏切通 について「古へは深沢切通とも唱へけるといへり」と書かれる。
これは、私に伝言ゲームを想像させるのです。
『吾妻鏡』には、、、、、、先自武藏大路被入鎌倉中。直經深澤。可向腰越。
『新編鎌倉志』には、、、、「深沢をへて行く道、この道筋ならんか。」が加わり、
『鎌倉攬勝考』では、、、、「古へは深沢切通とも唱へけるといへり」
大仏切通しを「深澤切通ともも唱へける」と言う結末になった!
風評とか、伝言ゲームの面白い処は、不確かな情報のやりとりで話の中身が変化する事です。
鎌倉の歴史事情通の方がこの問題で揺れ動いている様ですが、、、
大仏切通より西は、常盤里があり、梶原があり、その次が深沢です。
深沢は吾妻鏡にも出てくる地名です。大仏切通しを深沢切通と呼ぶのは無理がある。
はじめから吾妻鏡には、大仏切通しの話は無い。
新編鎌倉志にてバリケードで通過できない廃道を「深沢をへて行く道、この道筋ならんか。」
を加え、誤解の種を作った。
鎌倉攬勝考は、地元民が無関心な使えない名無しの道に対して、新編鎌倉志ネタを転用したと私には読める。
吾妻鏡」最終記事1266年
この間419年
「新編鎌倉志」(1685年刊)
この間144年
「鎌倉攬勝考」(1829年刊)
考えられる事は、大仏切通しは現状でも戦跡のバリケードが残り非常に歩きにくい。江戸時代は、当然今より急激な勾配で、使えなかった!と想像すれば、、、使われない道は時間経過(4~500年)とともに名前も消えます。
となれば、名無しの切通しは、「昔は深沢に通じた切通し」となっても不思議は無い。
「深沢に行く切通し」を「深沢切通し」の名詞と解釈間違いし「新編鎌倉志」の知識がその間違えを補強したと、、想像するのですが、、、
古書と言えども、批判精神なく読まれるのは問題があると考える。
質が良い情報と、質の悪い情報を区別する考えが必要と思います。
写真は、手広切通しを逆(腰越方面から手広に向けた)から写したモノです。