鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

上の道、下の道 6

2015年08月15日 | 東山道~鎌倉
2015-08-15
幻の東山道相模路(新野脇屋遺跡群より鎌倉に向けた赤ライン)
中の道
吾妻鏡に中路の記載がある。
「吾妻鏡」(鎌倉幕府の公式歴史書)に、1189年の奥州藤原氏追討の記述があります。 頼朝本隊については、7月19日に鎌倉を出発し、25日に宇都宮に達したのですが、 鎌倉からどの道筋で宇都宮に達したのか、

「吾妻鏡」の記述では、「二品(頼朝)は大手、中路より御下向有るべし」
とあり、 この「中路」から、後の鎌倉道主要ルートのひとつである「中道」とする説が主流です

1189年 (文治5年 己酉) 7月17日 乙亥
  奥州に御下向有るべき事、終日沙汰を経らる。この間三手に相分けらるべし。
てえれば、所謂
 ■東海道の大将軍は千葉の介常胤・八田右衛門の尉知家、各々一族等並びに常陸・下総両国の勇士等を相具し、宇多行方を経て岩城岩崎を廻り、逢隈河の湊を渡り参会すべきなり。
 ■北陸道の大将軍比企の籐四郎能員・宇佐美の平次實政は、下道を経て、上野の国高山・小林・大胡・佐貫等の住人を相催し、越後の国より出羽の国念種関に出て、合戦を遂ぐべし。
 ■二品は大手中路より御下向有るべし。先陣は畠山の次郎重忠たるべきの由これを召し仰す。

東海道、北陸道、大手の中路の区別をしているが、
上道の記載は無い。
北陸道は、高崎に向かう道と文面から伺える。
この解釈は、吾妻鏡を書いた時代と書かれた周囲のコミュニティの道路分別法です。

これは、古来の上の道は京へ上る道、下の道は常陸へ下る道 だけデハ無い別な考え方が時代ごとにあるようです。
単純な上の道、中の道、下の道の区分けは後世の創作で、名前は有るが道の実態と定説は無い為に諸説あり。 敢えて主張するならば、その背景(時期と鎌倉幕府、朝廷、江戸時代等の立場の詳細)の記載が必要と思います。
記載が無い時には、単なる無知の為に受け売りをしたのか? と勘繰られ文章全体の根拠が疑われる事に成ります。

鎌倉街道は、各氏族が一刻も早く鎌倉に向かう為に氏族の数だけ鎌倉に向かう道が在る!
特徴は馬が一頭疾走できる道幅と直線的な鎌倉への道が幾筋も在った。 例外は中道の3m幅の道という訳です。
鎌倉に隣接する藤沢市には数ある鎌倉街道の特徴を持った道が多数ある事から推測すると、この様に解釈する結果になったぼ輔です。
関東一円の氏族が鎌倉へ向かう道は、その氏族特有の鎌倉へ直行する近道が存在する、
「いざ鎌倉!」の時に、鎌倉へ一番乗りをすれば頼朝の信頼を得る。その競争に勝つ為の直線道路です。
その中でも特異な道が在り、東山道武蔵路の延長が鎌倉まで在ったと考えられ、経路は足利から武蔵国府を経由し鎌倉までの前の時代に作られた東山道の支道です。
鎌倉時代になり、東山道の支道の名は消え、代わりに武蔵国府から鎌倉までは武蔵大路、武蔵国府から足利、そして東山道の本道で白河の関までを奥州街道と言う名前に代えた!
広義では、これが中の道でしょうが、各部で寸断工作された経緯がある。武蔵の府中より鎌倉に向けた道は、途中で削り取られ使用不能にした痕跡がある。
この古代道に沿って鎌倉時代に3m幅の道が作られたのが、中の道と考えています。
武蔵の府中より北へは、3~6m幅の駅路跡が鎌倉街道と名を変えて在る様で鎌倉より遠い為に寸断工作をマヌガレタのでしょう、、 前の時代の駅路が名前を変えたモノと考えています。
もう一つ狭義の中の道として、鎌倉市中から見た場合、化粧坂ー葛原岡神社ー山之内配水池ー山崎台峰の道ー水堰橋へ降りる文献にもある道!言わば鎌倉の大手道です。
北関東の氏族が鎌倉へ向かう道はこの狭義の「中の道」を目指す訳であり、頼朝が鎌倉に凱旋する時に隊列を整えた水堰橋を考えれば、鎌倉の大手の道と言えるでしょう。
この道は、横浜の小菅ヶ谷から、日切り地蔵、戸塚カントリー倶楽部の中を通り、鶴ヶ峰へ抜ける。
この鶴ヶ峰へ抜ける道は畠山重忠が「いざ鎌倉!」の知らせで駆け付けて、幕府に裏切られ討ち死にした場所です。
化粧坂から台峰の道で検出された3mの道と同等の道幅をこの戸塚カントリー倶楽部で検出したと聞きました。
この道は初期の東山道武蔵路が目指した直線ラインの上にあり、大道は断念しても、馬が駆け抜けるには問題ない鎌倉街道の幹線道路として造られたと考えられるのです。


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東山道相模路 11

2012年12月21日 | 東山道~鎌倉
続、東山道相模路の巻 終り
「鎌倉軍は武蔵路を守る為天神山に陣を張った。」
「新田軍は化粧坂を攻める為に、州崎(天神山)を攻めた。」
これは、何を暗示しているのでしょう?

取りあえず、古代駅路の痕跡と考えられる場所を、図で示しました。
一、武蔵大路1のライン(赤)です
二、武蔵大路2のライン(暗赤)です。
三、東海道のライン(青)です。
これらのラインは、✖印の処で道の痕跡は消えるのです。

天神山を守る理由は、武蔵大路2の防衛の為と考えるのです。
それは、鎌倉時代に言われた武蔵大路はこの「武蔵大路2」である根拠です。

全体を見てみましょう。

■武蔵大路1は、初期の武蔵大路、、、と言うよりは東山道武蔵路(東山道相模路)と言い換えた道の痕跡であり、海蔵寺裏の大堀切(武蔵大路切通)へ抜けたと考えられます。
■武蔵大路2は、平安時代より鎌倉時代初期まで、使われた考えられる道で、奥州古道と名前を変え、町田の野津田を通り、座間の星谷寺から海老名國分寺より水道伝路と呼ばれる藤沢を通る道です。
初期は、藤沢の立石から鎌倉の天神山に向けた道が、後年白旗神社より石上の渡し竜口寺より七里ガ浜、稲村へ向けたと考えられる。
■そして、古代東海道も✖印の処でその痕跡は曖昧になる。

さて、、✖印の処で道は消えた???
そうでなくて、道を隠した形跡が在るでしょう??という事です。
どの様に隠したか?
それは 鎌倉幕府が、道を隠すパターンが有るのです。
一番明確なのは、海蔵寺裏の大堀切です。
この大堀切と呼ばれる切通しを閉鎖した土橋構造を参考に✖印の周辺を探せば、見つかる訳です。
この続きは「隠された大切通し 「謎の大堀切」の話へ飛びます。
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東山道相模路 10

2012年11月28日 | 東山道~鎌倉

飛鳥から奈良時代に作られたと考えられる「東山道武蔵路」は武蔵国衙が終着点と思われており、武蔵国衙の為に作られたので「東山道武蔵路」と命名されているが、「武蔵国衙の為に作られた」っという根拠は無い。

図の赤いラインは新田郡衙より、鎌倉へ向けた直線です。
直線上に、新野脇屋遺跡群や東の上遺跡があり、道路遺構が鎌倉に向けて道を作った説の根拠です。天台山は鎌倉で最高峰の山ですが、場合によっては、六国見山辺りでしょうか、、
これが、初期の東山道武蔵路造成計画であったと考えるのです。
鎌倉は、東山道と東海道を重複するさせる程の重要拠点であったと考えられる訳です。

赤いライン上に作られた道は東の上遺跡迄で、其処から先は急に角度を変え江ノ島へ向けた黄色いラインとなる。(急に角度を変えた理由は「古代 7」を参照)
道路幅とラインの方向(直進性)等が鎌倉迄同じで、武蔵路と同じ道と考えるのが合理的です。
 黄色いラインが実際に作られた駅路で、当初から鎌倉に向けて作ったと考えられますから、東山道相模路という訳です。

平安時代には、更なる平坦な道を求めたのか?座間や海老名に重要な施設が有り迂回したのか?進路を変えて神奈川県の海老名国分寺を通る道となり、野津田の道路遺構(鎌倉街道伝説に詳細あり)鎌倉時代の初期は「唐糸草紙」にその道筋の記載があり、奥州往還とも言われ桃色ライン上に奥州で討ち取られた源義経の首を運び首実検をした白旗神社は在る。
武蔵大路とも、中の道、上の道とも、、、確たる道筋不明のまま幾つも鎌倉街道が存在し、名は有るが、道筋を特定するには根拠が弱く諸説ある。
これらの鎌倉街道の根底には前の時代に在った武蔵国衙より鎌倉へ向けた東山道相模路の存在が色濃く影響していると考えられ、神奈川県では大道消去の脇に細い鎌倉街道が在る事例が多い。
大道の調査や文献は無い様子で、鎌倉市内に武蔵大路の地名は有るが、経路の記述は無い。
大道の痕跡は、巨大で簡単には消せないので、調べれば判るのでしょうが、、、 研究対象に無い様で痕跡の話は無い。
鎌倉時代の初期に御伽噺「唐糸草紙」の主人公が通った道は、桃色ラインの道です。
唐糸は藤沢の立石近くから江ノ島に向かいますが、それ以前の時代は、立石より直接鎌倉に向かったと考える道が今回書き加えた「赤色破線」です。
その経路は、立石より、東俣野、関谷、玉縄城南脇、天神山脇、倉久保の谷、化粧坂と遺構から考えています。
ここで「化粧坂」という名前が太平記に書かれており、座間からの東山道相模路の関連が浮かび上がります。武蔵大路を守る大将の赤橋の意図が表れる!攻める新田郡は、武蔵大路に陣を張る赤橋を倒さないと、武蔵大路から化粧坂へ兵を進める事が出来なかった訳です。(梅松論より :武蔵路は相摸守守時(=赤橋氏)、すさき千代塚において合戦を致しけるが、是もうち負けて一足も退かず自害す。)

 

 

 

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表紙を飾った道路遺構は、消えた!!

2012年06月20日 | 東山道~鎌倉
写真上は2006年の写真。
写真中は2010年の工事が始まり、下草を刈り取った写真。
写真中は2011年の工事が終わり、道路が作られた。

ご覧の通り、、
千年の歴史を伝える、、道路遺構は消失し、思い浮かべる痕跡は跡形も無く消えた。
一応、市当局に伝えましたが、、
その後の調査の連絡がない事から「遺構としての扱い」はされなかったという訳です。
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東山道相模路 9 これまでのマトメ

2011年11月05日 | 東山道~鎌倉
初期の話が飛鳥から奈良時代の「東山道相模路」
平安時代には、海老名の国分寺を通る道の話から、
鎌倉時代の初期は「唐糸草紙」そして、奥州往還とも言われた座間と武蔵府中への道。
武蔵大路とも、中の道、上の道とも、、、
確たる証拠の無いまま、曖昧に道路の名は使われている。
そして、
この「鎌倉街道を探そう!」でも混乱に追い打ちをかける話となる。

赤いラインは、東山道武蔵路は新田郡衙より、鎌倉の天台山へ向け作ろうと考えた。
それが、新野脇屋遺跡群から東の上遺跡へ向かう赤いラインであり、道路遺構がその説の根拠です。その先は鎌倉です。
これが、初期の計画であったと考えるのです。
東山道と東海道を重複するさせる程の重要拠点が鎌倉であった訳です。

当初の計画は、東の上遺跡までで、其処から、江ノ島へ向けてラインを変更し、したのが、、、
黄色いラインで、これは、東京府中の元国鉄学園道路遺構、中の宮北遺跡、笠間中央公園道路遺構へ続き、海蔵寺裏の大堀切へと向かい、鎌倉市内では武蔵大路と名前を変えて作られた訳です。
道路幅と、ラインの方向(直進性)等が同じ目的と構想で作られた道と考えるのです。
この黄色いラインが、実際に作られた東山道相模路という考え方です。


そして、鎌倉の初期に「唐糸草紙」と呼ばれる御伽噺で主人公の唐糸が通った道が、、、
桃色ラインの道です。奥州街道とも称された様です。
御伽噺と言えども、本当に実在した話の様で信州上田には、その詳細が残る。
鎌倉に唐糸ヤグラ等がありますが、、、根拠が弱い観光用でしょうね!
(お話の部分は誇張されたり奇麗事に修正されたりでしょうが、それを根拠に絵空事にするのは、見方が偏り過ぎると考えます。)

当初は、仮想伝路水道道路の残骸と見られる目次に掲示した写真の場所が発端で
この様な処まで思惑と憶測を広げたのですが、、、

これを踏まえて、駅路でなく、鎌倉時代の鎌倉街道を考えて見ましょう。
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上の道、下の道 5

2011年06月25日 | 東山道~鎌倉

  上の道,下の道 の巻 終り

上の道、下の道 の種明かしは,既に書きましたが、、
視点を変えれば、、、

太平記は、作者は不詳であるが、反鎌倉幕府の立場の記述と考えられる。
     講談的な話の誇張があり、戦後の又聞きの文章と考えられる。
吾妻鏡は、幕府中枢で書かれた鎌倉幕府公式見解的な本の様です。
     リアルタイムで書かれた当事者の文章。
梅松論は、鎌倉寄りの文人が、滅亡後に書かれた様で戦いの傍観者の様です。

武蔵大路を「上の道」と書く太平記の根拠です。
鎌倉幕府側から、この路を「上の道」と呼ぶのは無理で、、
タテマエはドウでも、鎌倉にとって、平塚箱根の西方向が奈良や京の都で上ですから、、
鎌倉幕府から見れば、武蔵に向けた路は、山間僻地へ向かい奥州征伐に使用した様に未開の場所に行く感覚です
頼朝の鎌倉では、
鎌倉幕府は政治や経済の中心で、京都を従えて政治を行う都です。
鎌倉から出た道は総て下る道で鎌倉幕府に「上の道」は無い。
吾妻鏡で書かれた下の道は、太平記で書かれた「上の道」という訳です。

武蔵大路を前時代の東山道武蔵路の延長と考えれば、、オノズトその答えは出る。
東山道武蔵路は都に行く道=上の道となるのが朝廷の立場です。
鎌倉幕府では上を無視し下の道としても、反鎌倉幕府派には「上の道」となる。
ですから、、
平城京の「大和三道」とは成り立ちが違い、上下の意味も中身も違うし、立場で解釈が違う。
太平記、吾妻鏡、梅松論の記述は、幕府側か反幕府側かの視点で呼称が変わる。
更に、武蔵大路を防衛上の都合で破壊の後、本来の鎌倉街道が大路の脇を「いざ!鎌倉」の先陣争いの道が各氏の数だけ、、、、複数作られた。
 武蔵大路は消えて、結果は細い鎌倉街道が同じ方向に何本も在るのが現状です。
その様な訳で、鎌倉幕府が作った上の道、下の道の実態は無い。在るのは、「いざ!鎌倉」の先陣争いで使う直線道路で、6m幅や、9m幅の道路遺構は、古代の官路であろう!
  これが呼称の混乱についての考察です。
以前の研究者がソレゾレの説を主張しているのを承知で、ぼ輔流の説をデッチ上げました。
反論して頂けると嬉しいのですが、、、、

今の様な宅地化が無い戦前に、柳田国男(民俗学者)が著書「武蔵野の昔」で書かれた事は
 「この辺りの村々で老人などのよくいふ鎌倉路という古道である。此名が残って居れば必ず昔の奥州街道の宿場であったやうに決定してしまふが、第一それでは奥州街道が何本あっても足らぬ上に、単に鎌倉路といふだけでは、何処からのといふことが分からぬ筈である。」

古道探しが現在より数段楽な時代でも、この様であった。、
武蔵大路なんていう立派な道は土に埋もれ、細い鎌倉街道と呼ばれる路が多数存在する、しかし伝承は地元の生活道路であり鎌倉方面に行く道、鎌倉街道の痕跡の保障は無い訳です。
放射状に成るべき鎌倉街道が、伝承を元に地図に書き込むと網の目の状態になる理由は生活道で 江戸時代の伝承が大半の為に起きた現象と考えるのです。
上、中、下の道も根拠が曖昧のまま憶測で語られ風評と成り、その脇に在る幾多の鎌倉道の特徴を持った直線的な路が話題にされる事も無く、宅地化で消えていく。


 写真は、北鎌倉女子学園グラウンドの脇の土橋路の状況です。
「上の道、下の道4」とは逆方向の化粧坂から大船に向けた方向で写した写真です。
下の平地は北鎌女子グランドで、土橋の壁と異質な岩壁を撮ったものですが、植物に覆われて 岩壁は隠れてしまいました。要は、この岩壁は、海蔵寺裏の大堀切と同じパターンではないか?と考えるのです。
そして、土橋の柵が曲がったところが、前回の写真の矢印です。
岩壁と土橋の道の造りが関連するのです。
ぼ輔は、何を考えているのか??
海蔵寺裏堀切が武蔵大路痕跡の切通しとすれば、鎌倉最大の切通しですが
この場所が切通しであれば、海蔵寺以上の切通しとなります。

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東山道相模路8

2011年06月04日 | 東山道~鎌倉

鎌倉を基準に考えれば、、、どの様になるでしょう??
鎌倉の都を上とすれば、鎌倉から地方へ行く道は総て下りです。
地方から鎌倉へ行く道は総て上りです。上りの道とは言わずに、鎌倉道と地方では言われた。
鎌倉から地方へ行く道をあえて「下り」と言わないのですが、
古来東海道の常陸に向かう道を下の道として呼ばれたと考えられる。
その他、特別に下の道と言われた道があります。それが太平記で「上の道」と書かれた道であったのです。
同じ道を、太平記では上の道! 吾妻鏡では下の道! これは矛盾です。
挙句が、奥州街道や武蔵大路等と呼ばれ、、、それだけでなくその実体が無い!
有るのは、武蔵府中に向かう道である事です。

それは、、、何故!!
さて、、、「鎌倉の古代1~7」を読んで頂ければ、、、
古代の鎌倉から武蔵国府への道は、東山道武蔵路の上の道に当たります。
鎌倉時代になり、鎌倉の都を考えれば、、京へ下る「下の道」となる訳です。
京を蔑む心を隠せば、下を使わず「奥州街道」や「武蔵大路等」と呼ぶでしょう。
大路は鎌倉を守るには、不都合な道となり、、、この写真の道が作られたと考えるのです。
この様な考えをすると、鎌倉の上、中、下の道の区別は中身の無い話に成ります。
実際に、鎌倉の上、中、下の道の話は、確信を持って実体を示せる人は皆無です。
 鎌倉前と天下を取った幕府では上記の理由で道の呼称は変わったと思われる、、「年代の違いで呼称が変わる問題。」
幕府内の人と、倒幕派の人でも呼び方は変わる人の「モノの見方、考え方の違い。」
幕府成立で防衛上に問題のある大路は消滅し、代わりに鎌倉街道と呼ばれる馬一頭が疾走できる道が多数作られた。
鎌倉周辺の鎌倉街道は狭く、旧大路脇を通れば下の道、上の道と呼ばれ「道の成り立ちの違い。」
これらが絡み合い、上の道、中の道、下の道は、定義が曖昧となる。
その道筋を正確に示したなら、、、それは強引過ぎるか、説明不足の話です。 
 地方の鎌倉街道は防衛に無関係でしょうから、、、、
奈良平安時代の幅が広い道も多数残って、これも鎌倉街道!

写真は、、
水堰橋から、化粧坂に向かう途中の北鎌倉女子学院グラウンドです。
 下の道は時代によって、東京府中市、町田市、座間の星谷寺、海老名国分寺、横須賀水道と重なり、
鎌倉へ向かう道も在り、古代の武蔵国衙と鎌倉郡衙の道(品格の有る、直線的で幅の有る道で、俗に言われる鎌倉街道とは区別する。)は、一つではなく複数考えられると「ぼ輔」の資料から想定している。
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上の道、下の道 4

2010年10月31日 | 東山道~鎌倉

化粧坂と水堰橋の間にある北鎌倉女子学園グラウンドの脇の土橋ですが、これが吾妻鏡に言われる中の道です。
城でいう大手の正面玄関に相当する道です。道としては貧弱ですが、土橋としてみれば、立派なモノです。
城ですから、当然攻め入る敵に対処した構造をしている訳です。
海蔵寺裏の大堀切の土橋のとは、攻め入る敵に対処する考え方が違います。

 写真は、北鎌倉女子学園グラウンドの脇の土橋路を渡り終え、鎌倉に向け振り返ると、、、、
やはり道路に境が有るのです。
自転車の通った跡を御覧ください!
境から急に自転車の轍(ワダチ)が付いて、古い路面デナイ事を確認できます。
土橋としてみれば、先の境から、今回の境迄の幅と、ポール4本とコンクリートの幅が同じ程度の長さです。
右の柵はグラウンドの柵で、左の緑の壁に土手は無く、そのまま下の住宅地迄垂直な崖です。
なんせ、土橋ですから、、、

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上の道、下の道 3

2010年10月29日 | 東山道~鎌倉

東海道ならば、鎌倉から奈良へ向かえば上り、常陸へ向かえば下りです。
東山道武蔵路の延長の古道の名は武蔵大路、奥州街道、下の道と呼ばれ、太平記では「上の道」と称され、同じ道を、片や「下の道」と呼ばれる矛盾ですが、、、

初めから上下左右は相対的で立場に依り、その関係は変わる??
それを固有名詞にした人がいたのですが、、、
奈良の都に三本の道があり、上ツ道、中ツ道、下ツ道と呼ばれる「大和三道」が在った。
奈良盆地に藤原京から平城京へ上ツ道、中ツ道、下ツ道が平行に一直線に作られた。
鎌倉にも、これと同様に在ったであろう、、、そんな「推測」を根拠に、
鎌倉の上中下の道を固有名詞として定着させた方が居た。
しかし、、
鎌倉には、奈良盆地のような上中下道を綺麗に区分けする地形は無い。
有るのは、
鎌倉の都以前の時代から存在する古代東海道の上下の区分けが在る訳です。
奈良の計画的な都市造りの上中下とは、根本が違う事に注意が必要と「ぼ輔」は考えるのです。

立場(場所としても変わりますが、書き手の地位と言う意味)が違うと、、、

武蔵の国府(国分寺)へ向かう道を、、、、
「上の道」と書いたのは太平記です。
「下の道」と書いたのは吾妻鏡です。
「武蔵路」と書いたのは梅松論です。
同じ道の呼び名が書き手によって、この様に変わるのです。

太平記は、作者は不詳であるが、反鎌倉幕府の立場の記述と考えられる。
吾妻鏡は、幕府中枢で書かれた鎌倉幕府公式見解的な本の様です。
梅松論は、、鎌倉内部に詳しい人物が、鎌倉崩壊後に、人の批判を受けない書き方をしている。

大きな問題は、武蔵路を「上の道」と書く太平記の根拠です。
何故、「上の道」と呼んだのでしょうか?
奈良の路造りに真似たので無いとしたら、、、、???


 写真は、北鎌倉女子学園グラウンドそのものです。土橋状道からの映像です。
ポールが4本と、右手がコンクリートの崖ですが、その間から下の倉久保の谷戸へ向かう場所が
問題ですが、グラウンドを作った為に、その遺構は失われた。
それは、戦う為の砦としての遺構でひな壇的になっていたと「ぼ輔」は解釈しているのです。

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上の道、下の道 2

2010年10月24日 | 東山道~鎌倉

その古道の名は武蔵大路、奥州街道、上の道、下の道と呼ばれています。
憶測はあっても、、誰もその痕跡を確定出来ない! この場所だと言う人は居ますが、根拠のない話で、更にその脇に幾つも同じ方向の直線的な古道が有り、更に書かれた著者により、別な道筋が示されて、、どれが本物??と言う話になる。

古代道に沿って細い鎌倉道が出来上がったのを、上の道下の道と称した、、かも知れない! 話です。

都を基準に考えれば、都に向かう道は上の道。地方に向かう道は下の道。
鎌倉時代は?
鎌倉を基準に考えれば、、、どの様になるでしょう??
これは、当時の鎌倉の背景を考える必要を感じています。
その背景とは、
源平合戦で京の都は荒れ、政治は貴族より武士の手に渡り、武士の掌握するところと成ったのです。
それが鎌倉幕府の力で、朝廷に頭を下げる必要は無くなった。
朝廷と幕府は敵対する状態です。
鎌倉は、心の奥で幕府は京の都より上を目指していたと考えれば、、、
京と鎌倉は対等か、鎌倉の方が上と思っていたのではないでしょうか?
その様な状態で鎌倉幕府が京への道を上の道と言うでしょうか?
吾妻鏡では、京へ向かう道を上の道との記載は無い様ですね。
吾妻鏡では「下の道と」書かれてた理由は、鎌倉幕府よりの著者でありその立場で書かれたとも考えられる。

太平記では「上の道」と称される理由は、、、何故でしょう?

 写真は、北鎌倉女子学園グラウンドの脇の土橋状態の映像です。
反対側は、住宅地になり、とても人工的な断崖です。
要は、道の両脇が断崖で、、土橋という訳です。

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上の道、下の道 1

2010年10月23日 | 東山道~鎌倉
鎌倉街道には、「上の道」「下の道」「中の道」があるそうです。
ぼ輔は、、、疑問視する話です。

疑問の中身は、
上下左右の言葉は、相対的な考え方です。
上下の基準は何処でしょうか?
鎌倉街道を語る時に「上の道」や「下の道」を特定な固有名詞として語られる。
相対的な考えが、固有名詞として語られる処に疑問を感じるのです。
特定な道を語られる時には、特定な場所の指定が欲しいものですが、実体が不明で呼称も一様でない。それでは、マルデ幽霊みたいなモノです。

鎌倉から武蔵国府に向けて古道が存在した。
その古道の名は、、後の世で上の道、下の道、武蔵大路とも呼ばれた古代官路です。
奈良時代の中路規格の道幅は、側溝中心間で12m程有る直線道路です。
栃木県足利より、神奈川県藤沢市の江ノ島へ向けて直線道路が走り、途中横浜市戸塚区辺り迄有った様です。(注1)

鎌倉幕府は、この道は大き過ぎ防衛上の問題で存在が邪魔であった。
その結果大道を消滅する工作をした。その結果、その古道に沿って細い鎌倉道が出来上がったのを、上の道下の道と称した、、かも知れない!

その、、「かも知れない}」道の上下の問題です。
相対的な考えで上下を語れば、
道の上下は何を基準にするのか?を決める必要が有る。
都を基準に考えれば、都に向かう道は上の道。地方に向かう道は下の道。
古代東海道を考えれば、鎌倉を基準に下は常陸向けで、上は奈良の都に向けた方向です。
道の上下の問題をもう一段深く考えてみましょう。

(注1)時代によっては、東京調布市、町田市、座間の星谷寺、海老名国分寺、横須賀水道と重なり、鎌倉へ向かう道(鎌倉街道「上の道」と東山道相模路、2006-09-11ブログに記載)も在ったようです

 写真は、化粧坂から、水堰橋途中にある台峰の道で、これから北鎌倉女子学園のグラウンドの脇を通る処です。
この赤い矢印の場所から路面の変化があります。
手前は、鎌倉にありがちな砂岩含みの道ですが、矢印から先は補修の跡か?
昔からか? 要はこの場所が土橋状態になっているのです。
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東山道相模路7

2010年10月05日 | 東山道~鎌倉

現代より数段古道探しが安易な大正時代の話。
柳田国男氏(民俗学)が鎌倉道の話を集めて地図に書き込むと、 鎌倉中心とした放射状にならず、日本中が鎌倉道で網状になったそうです。
奥州街道を探す為、武蔵野周辺の鎌倉道を探索したが、古老の話す伝承の鎌倉道の断片が数多く散見するも目的の道(上の道、奥州街道、別名下の道)を特定出来なかった。これより考えられる事は、江戸時代以前の道が大正時代に数多く残って伝わっていたが、立派な道は何一つ無かった。
さて、その理由は、、
初め(鎌倉幕府消滅の時点)から立派な道は無かったと言う事と「ぼ輔」は考えるのです。
残るのは、武蔵大路を壊した崖や埋めた跡!そして、その周囲に作られた細い鎌倉道を「上の道(奥州街道)下の道」と言い換えた!ぼ輔の妄想です。

ぼ輔の知る、、鎌倉時代の立派な道は、朝比奈の4mの峠道ともう一つは
化粧坂、台峰、笠間十字路、戸塚の日限り地蔵、万騎が原へ抜ける見掛け3m幅の道です。
見掛け3mは、掘り返せば、もう少し道幅があるかもしれません。
鎌倉周囲が小規模の道で、、、地方で広い道を発掘すると鎌倉道跡と解釈されるのは、、、
古代の官路や駅路と 鎌倉街道の違いを把握していない!とぼ輔は想えるのです。

写真の路は、化粧坂から葛原が岡神社脇より台峰を通り、水堰橋、笠間十字路に抜ける道の台峰の場所。
鎌倉城の大手と言われた路と考えます。3,3m程の路が発掘されたそうですが、、うろ覚えです。間違っていたら、その時点で訂正します。
これが、鎌倉城のメイン道路なんて、、
朝比奈以外の他の路はもっと酷い訳です。

コメント (6)
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東山道相模路6

2010年09月24日 | 東山道~鎌倉
一般的な考えとして、鎌倉幕府が、上、中、下の道と言う立派な街道を運用していた様に思われている節があります。
しかし、、ぼ輔の見た鎌倉周辺の鎌倉街道は、1~2間幅の狭い直線的な、ヤゲン掘り状態(V字状の掘割)の道です。
例外は、朝比奈の切通しと相武トンネルから円海山へ抜ける白山道ノミです。

古代東海道が鎌倉を通過したのですが、古代道路遺構と想定できる場所で「ぼ輔」が見た物は、各所で工作され使用不能にされた遺構です。それは、東山道相模路も同様です。
変形され、ある時は断ち切られた断崖であり、はたまた塞がれた切通しの遺構です、、
それらの事例を根拠に、古代官道は防衛のために幕府が壊し使えなくしたと「ぼ輔」は結論付けるのです。
 立派な道路遺構を発掘すると「鎌倉街道の上の道か?中の道か?」と考えるのが一般的ですが、年代を特定できない為の浅慮が鎌倉街道と憶測した結果です。
冷静に考えれば、広い道幅は鎌倉街道ではなく、古代の駅路や官路の特徴です。
その例として中ノ宮北遺跡を考えると、これが鎌倉幕府が作った物ならば、、、、
その周囲に数多在る細い鎌倉街道など作る理由は無い!
 鎌倉時代に大道が機能すれば防衛に支障がある。必要の無いハズの、、、細い鎌倉道が周囲に複数存在するのが現実です。

写真は武蔵国衙の南、多摩川際の山より江ノ島を見たバーチャル画像(カシミール使用)。
そう、、多摩川際の山より江ノ島は見透視が利くのです。
ちなみに、江ノ島の灯台は加筆していません。
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東山道相模路5

2010年09月06日 | 東山道~鎌倉

笠間中央公園遺構
この情報は、財団法人横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センターの記事です。
その詳細を未だ確認をしていません。
コメント笠間中央公園 (三品)、、、、に発掘状況の写真がありますね!
地図からも道路状態が想定できます。
先ずは、道路の方向ですが、
北北西より南南東に向いています。早い話は南北で水堰橋方面に向いている。

今回の画像は現在の地図と、鉄道も未だ敷設していない明治の地図です。
問題は、
これだけの大道が、、ご覧の様に前後が断ち切られて使えない。
誰がやったのか??
少なくとも、明治にはすでに切り崩されていた。
江戸や戦国時代にこの様な大工事をする財力のある人物が居た話は知りません。
心当たりは鎌倉時代の幕府であれば、財力があり防衛の為という動機があります。
ぼ輔は鎌倉幕府の工作と推測するのです。

鎌倉幕府は、古代東海道においても同様に使えないようにした。

その証拠は??
推測や憶測として、化粧坂、朝比奈切通し、海蔵寺裏の大堀切、等をこのブログにぼ輔が書きました。
笠間中央公園の道路遺構の注目すべき事は、、
憶測ではなく古代の道路遺構が崖状に切り取られて破壊された状況で発掘されたのです。
直線道路を歩いていると、巨大な壁でマサカ此処に道路が在ったとは思わない程の断崖です。
幕府の道路破壊パターンですが、、海蔵寺裏の堀切や土橋も同様に巨大すぎて、、
マサカ此処が道路であったとは、思わない程巨大です。

話は、、それだけではなく、
この笠間中央公園遺跡からなんと、精錬炉が出たそうです。
その上、、いたち川周辺は中世ではなく、古代の精錬炉が出土しているそうです。
その遺構は、数十在るそうです。
三品さんのレスに有った上郷周辺は、深田製鉄遺跡が出土しているそうです。

地図は国土地理院1/10000大船 明治13~17年迅速測図陸軍

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東山道相模路4

2010年08月27日 | 東山道~鎌倉
さて
東山道相模路の緑のライン!
東山道の延長であると証明された時、、、
何が考えられるでしょうか??
 
古代の官道,駅路は、、目的地に向かい真っ直ぐな道を作る。と規定した場合、、、
最初から東山道武蔵路は、鎌倉を目指した!っと考える可能性がある。
その途中の駅に国衙として武蔵野国衙を作った!そう解釈もできる。
文献は極く少なく、歴史を総合的に語るには、不足です。
実際の遺構から文献に無い事を考察すべきと「ぼ輔」は考えます。
 
東山道武蔵路は、鎌倉を目指した道か?
はたまた、、武蔵野国衙を作るためなのか?
従来の「武蔵路は武蔵野国衙の為に作った」説の根拠が何処に有るのでしょうか?
 
中ノ宮北遺跡と鎌倉の海蔵寺裏大堀切の間に位置する大船駅の笠間中央公園で、道幅約10mの道路遺構が見つかっていると聞きました。
「鎌倉の海蔵寺裏の大堀切は,武蔵大路の切通しであった」というぼ輔説を裏付ける話です。
現在は、ぼ輔の妄想とか憶測では、、、頼朝以後、海蔵寺裏の大切通しは土橋で塞がれた東山道相模路の痕跡と考えるのです。
一般常識では、単なる用途不明の海蔵寺裏の「大堀切」と呼ばれています。
 
でも、これだけの根拠が出てくると、、、妄想も真実味が湧くでしょ?
取り合えず、痕跡の経路で 地図は出所不明の大正時代の地図。
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