国土地理院蔵の1946年USA空中写真を使用したステレオ写真です。
赤丸の間を7㎝以下にして閲覧してください。
詳細は国土地理院 「地図を立体視する 」をご覧ください。
https://teikokushoin.co.jp/journals/geography/pdf/200604/geography200604-01-04.pdf
この場所は1960年代の宅地造成で地形が変わりました。
更に 2020年に倉久保谷戸は、台峰を含み大手宅地造成の手が入り始めた。
消失するのは、時間の問題でしょうね、、、
「住民は鎌倉に城は無い!」と講習会で吹き込まれ、この様な場所は価値の無い場所と考えられているのでしょうね、、、
広町緑地の様には成って欲しいが、無理でしょう。
この、逆三角の堤防様な構造物は、土塁に相当するモノと考えて居ます。
軍事的には、巨大道路は守備に不利となる為、道路を塞ぐ土塁です。
突破したい敵を迎え撃つために、侵入を拒絶するのでななく「勢いで攻め込めるかな?」っと敵に思わせる場所!
その場所で有利に侵入者を殺す! そんな構造の戦う場所造りがしてある。
結果は、目前の守備兵を排除して攻め込んだ先は、断崖絶壁で鎌倉に入り込めない。
この特徴は、他の場所と共通点があります。
一、海蔵寺裏の大堀切!
二、北鎌倉女子グラウンド!
三、今回の梶原遺構!
これ等は同じパターンで巨大道路を土砂で塞いだと考えられる外見です。
これ等の塞いだ場所は、土橋となり通行していた様です。
倉久保谷戸は武蔵の府中、野津田、座間の星谷寺、藤沢日大を通る武蔵大路を想定する経路です。
今の谷戸に入ると、出口が無い!その代わりに、、、
土砂で塞いだ痕跡が、この逆三角の土塁と考える訳です。
この土塁は、梶原団地の造成された何処の場所なのか?
現在の場所を 特定しようと考えると、、、
二、北鎌倉女子グラウンド!
三、今回の梶原遺構!
これ等は同じパターンで巨大道路を土砂で塞いだと考えられる外見です。
これ等の塞いだ場所は、土橋となり通行していた様です。
倉久保谷戸は武蔵の府中、野津田、座間の星谷寺、藤沢日大を通る武蔵大路を想定する経路です。
今の谷戸に入ると、出口が無い!その代わりに、、、
土砂で塞いだ痕跡が、この逆三角の土塁と考える訳です。
この土塁は、梶原団地の造成された何処の場所なのか?
現在の場所を 特定しようと考えると、、、
意外なモノが!!
洲崎、倉久保谷戸、武蔵路の関係。
洲崎、倉久保谷戸、武蔵路の関係。
> 梅松論 第16
> 武蔵路は相摸守守時(=赤橋氏)、すさき千代塚において合戦を致しける
この当時の洲崎の範囲は、柏尾川、古代東海道と青いライン、台峰の内側とすれば、矛盾は無い。
新田軍主力部隊が化粧坂を攻める事と、洲崎で戦った事は、全く同じ事を意味する訳です。
更に、相摸守守時が幕府に指示された「武蔵路の守備」を命じられた事と 倉久保谷戸へ新田軍を入らせない為に、相摸守守時(=赤橋氏)が洲崎に向かい戦った事は、同じ事である。
相摸守を打ち負かした新田軍の次の行動は「山内に入った」と書かれている。
幕府軍が負けて、武蔵路(倉久保谷戸)を明け渡し、新田軍は台峰(化粧坂より続く鎌倉城の大手道)を北と南で挟み撃ちを出来る状態に成った。
台峰の南は、倉久保谷戸(武蔵路)であり、北は山内で鎌倉城大手道の水堰橋より、北鎌倉の瓜ヶ谷に入る場所です。
台峰(化粧坂より続く鎌倉城の大手道)を攻撃する下準備ができたと文献から読み取れます。
挟み撃ちにしても、化粧坂に続く台峰を落とす事が出来なかった!
その理由は、戦う砦として完璧であったのがその理由です。
その構造を今なら確認できます。
下記リンク先の「山崎・台峯緑地」の全体設計図で、「源流の森と里山の保全ゾーン」と書かれた所の下あたりです。
https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/koen/documents/dai-kihonsekkei03sekkei_04zentai.pdf
〉逆三角の地形は日当公園付近一帯と思われます。
どうやら、、、その様ですね!
日当公園の南側崖は、逆三角の地形の一部ではないかと思えます。
検証方法が有れば良いのですが、、、