鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

台峰の砦4

2020年09月26日 | 大鎌倉城
城門を「こぐち」と言い、城を攻める敵を少数入れて殺し、守備力の範囲を越さない様にした為です。
広い曲輪に入り込んだ敵を三方から攻撃する構造(桝形)を造り、小口で人数制限をした訳です。

「小口」の字を変えれば「虎口」となる訳です。
例えば、
江戸城の田安門ですが、武道館の出入りに使う門に成り、枡形虎口になっています。
グーグルの地図より引用した田安門の写真で、図下に日本武道館の一部が見えます。


攻撃の侵入者は堀を越えて真正面の門から曲輪に入る。


正面の門から曲輪を見ると二方は石垣で、もう一方は田安門となり、三方は塞がれている。
石垣や門から鉄砲や弓を射られる事に成る。
守備が殺すのが早いか? 攻撃する侵入者が多いか??
そんな攻防となる。
その様な砦構造は、既に鎌倉城考えられ、遺構として現存する訳です。

倉久保谷戸や台峰を単なる緑化公園として整備するのは、、
武士の都「鎌倉」を企画し挫折した不手際と、、 
根本的に鎌倉の歴史を調査しない情報不足と考えています。
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台峰の砦3

2020年09月26日 | 大鎌倉城
真中の縦が倉久保谷戸で右の細い緑のラインが堰水橋から化粧坂に行く大手道。
写真の上は、西北西です。
 
 
北鎌倉女子グラウンドの本来の砦遺構です。
 よじ登った攻め手は広い曲輪に出ます。攻め手が寄り集まった処で 三方から弓矢で狙い撃ち出来る 馬蹄形の守りです。
 
更にその東に在る砦遺構は雛壇上状態です。
 
 
更に東の水道局と隣接した場所です。馬蹄形の守りをしています。
三方山で守りやすい土地と言う考えの逆で、
一方向から土塁をよじ登り曲輪に入ると、、、、三方の高見から囲まれる形で攻められる訳です。
土塁を登る事で人数制限をし、守る方は有利です。
何故広場に成っているのか?
攻める方は、仲間が無ければ攻め込みたくないでしょう!
沢山集まれば勝機も在るかもしれない!  っと言う「トラップです。」
城の虎口 特に「枡形虎口 」等の広場を設けて、侵入する敵を三方から攻撃する!
その原型は、この鎌倉城にて考えられた訳です。
言い出したのは私でも、
地形を見れば、誰でも想像が付く砦構造です。
「鎌倉城なぞ無い!」と講義されても、誰も反論をせず納得した事に問題が有る。
 
この遺構は鎌倉城のあらゆる処に在ったはずですが、、
長窪の切通に在る隠れた場所に対し、、現大船高校の場所に此れを攻めろとばかりに目立った砦を作ったのも、
この馬蹄型の砦と言う訳です。江戸時代の石垣の城にこの考えは引き継がれ、、、
枡形の虎口がこの考えで作られた訳です。
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台峰の砦2

2020年09月24日 | 大鎌倉城
倉久保谷戸に入り、北側を見れば、その場所は台峰の砦です。
ですから、台峰を観察しましょう! っとは成らない。
樹木が繁茂し、台峰のオリジナルな砦は緑のベールに隠されている。
悲しいかな、、
行政が緑地指定をしてる鎌倉の山中は、樹木が育ちすぎて根に依る岩の破壊が始まりだした。
50年前、源氏山に登ると海が見えたのです。今の眺望は緑のベールで隠された。
セッカク登った源氏山の本来あるべき  山に囲まれた鎌倉市街と開けた海の眺望が見えない
山に登る人間の期待するのは、、、その眺望です。
特に観光客の期待は裏切られ地元民もそんなモノは期待は無い。
 
鎌倉の基本は、里山であり、古代より樹木は薪として使われ1000年の間山の地肌が隠れる様な事は無かった。
自然保護を謳っているが繁茂した樹木で、昔から在った景観は消滅し、樹木の根は切岸を含めた岩壁は亀裂が進行し、北鎌倉駅脇のトンネルの例では、無残な状態で鎌倉駅のホームから見える。
大仏切通は倒木と伴に破壊、2019の台風で朝比奈切通は倒木に埋まり、当然倒木と伴に根が岩を破壊する。海臧寺裏の堀切も倒木が破壊。
鎌倉山中は至る処で倒木の為の通行止めとなった。
自然保護の名の樹木放置は、里山の人手で樹木を管理する事とは真逆な自然破壊です。
宅地造成は過剰な破壊をしますが、、
管理しない樹木の景観破壊、岩壁破壊を引き起こす。
 
話は 倉久保谷戸と台峰の砦の話です。
緑のラインは、鎌倉の大手道と考えられる道ですが、、
堰水橋より登って化粧坂へ通じる鎌倉城へ入ると言われている道です。
ある時は武蔵大路では?
在る時は古代東海道では? 何を言おうとも文献が希少ですから、、 反論のしようがない。
現物を調査して考えるべきですが、、 調査もせずに発表すればそれは、憶測で研究を汚した話となる。
そんな訳で新田義貞がこの峰を攻める事は「化粧坂を攻める!」と同じ事となります。
赤丸で囲った場所が、攻める敵を迎え撃つ砦遺構と成ります。
鎌倉には城が無い! っと公演した方々は、この砦遺構は知らず、鎌倉の城構造を解析した方も無い様です。
当然この話も、遺構だけが頼りの作り話で、、、私の創作話です。 
   次回は立体視に成ります。
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鎌倉城の範囲 10

2020年09月18日 | 大鎌倉城
 「世界最大の城」のキーワードでgoogleの検索をすると、
1.マルボルク城 (ポーランド) 143591㎡ 【長さ1.5㎞程度】
2.メヘラーンガル城塞 (インド) 81227㎡
3.プラハ城 (チェコ) 66761㎡
4.ウィンザー城 (イギリス) 54835㎡

  これは、ヨーロッパの城ばかりですね! 情報に偏りが有り過ぎ!
ネットの情報を単純に信用する訳にはいかない。

上記の話なら、、日本の城の方が大きい。
姫路城は、東西1.5㎞南北1.9㎞ です。
更に大きいのは、
江戸城は、水道橋から隅田川まで5.5km 水道橋より浜松町迄5.5km
その江戸城を上回るのが鎌倉城と言う訳です。

中国で言えば、桁違いでして
南京城は内城の面積は55㎢、外郭は248㎢です。(1368年元王朝が滅び、明王朝が建国した )
北京城は60㎢で、南京城の1/4となる。 約山手線の内側と同じなのが、北京城です。

鎌倉時代(鎌倉終焉1333)時点の話をすれば、、当時の鎌倉城の大きさは世界一と考える訳です。

城の立て籠もる建築の大きさに限定するのか? 防衛ラインの城壁を考えて城なのか?
戦う為の要塞としての城なのか?
その様な区分けが単純に出来る訳でも無いのですが、、
中国的に言えば、城主が住む場所=城で、市民が住む場所と城を囲む壁を郭と言う。
結果は、城郭と言うのですが、、
鎌倉城でも切岸だけが城では無く、山の谷あいに平地を作り、武人の屋敷にした様子ですが、
これは、峰を守る兵士の兵糧や、日常生活のケアをする基地にもなっていたと考えるのです。
その詳細は、以後の課題でしょうが、、、
私としては、手出しする気の無い話です。
そんな事より、
城の戦う為のトリップとして、大手門の構造の原型がこの台峰に残る訳ですがその解説が課題です。
  台峰の砦2 を考え中です。 


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