鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

東山道相模路4

2010年08月27日 | 東山道~鎌倉
さて
東山道相模路の緑のライン!
東山道の延長であると証明された時、、、
何が考えられるでしょうか??
 
古代の官道,駅路は、、目的地に向かい真っ直ぐな道を作る。と規定した場合、、、
最初から東山道武蔵路は、鎌倉を目指した!っと考える可能性がある。
その途中の駅に国衙として武蔵野国衙を作った!そう解釈もできる。
文献は極く少なく、歴史を総合的に語るには、不足です。
実際の遺構から文献に無い事を考察すべきと「ぼ輔」は考えます。
 
東山道武蔵路は、鎌倉を目指した道か?
はたまた、、武蔵野国衙を作るためなのか?
従来の「武蔵路は武蔵野国衙の為に作った」説の根拠が何処に有るのでしょうか?
 
中ノ宮北遺跡と鎌倉の海蔵寺裏大堀切の間に位置する大船駅の笠間中央公園で、道幅約10mの道路遺構が見つかっていると聞きました。
「鎌倉の海蔵寺裏の大堀切は,武蔵大路の切通しであった」というぼ輔説を裏付ける話です。
現在は、ぼ輔の妄想とか憶測では、、、頼朝以後、海蔵寺裏の大切通しは土橋で塞がれた東山道相模路の痕跡と考えるのです。
一般常識では、単なる用途不明の海蔵寺裏の「大堀切」と呼ばれています。
 
でも、これだけの根拠が出てくると、、、妄想も真実味が湧くでしょ?
取り合えず、痕跡の経路で 地図は出所不明の大正時代の地図。
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東山道相模路3

2010年08月21日 | 東山道~鎌倉
さて、
東山道相模路の緑のライン!
このラインの下を発掘したら、古代道路遺構が必ず出るか?
平野部ならば、ソウトウナ確率で出土するでしょうが、、
六郷の河から南は長津田、町田まで山間部でこの山間部をどの様に通過するのか?
切り通して真っ直ぐに路が付いていれば,切通しを目当てに苦労も無く見つかりますが、、、
見つかって無いことから山の中は単純な直線ではないと考えられます。
宅地化の大規模造成で地形は変化した為、調べ様が無い。

写真は、前回の地図の緑ラインの切れる下飯田の場所で、この場所で10m幅の道路遺構が出たそうです。(中ノ宮北遺跡1999.3ぼ輔は資料を未確認。)
面白い事に、、武蔵国府より、江ノ島へ向けたラインです。(実際は500mずれ片瀬山辺りを目指す。)
多摩川脇の山に登ると、江ノ島まで見通せると、、、資料から推測できます。
芳賀善次郎氏:旧鎌倉街道探索の旅(上道)に記された道が脇を通り、細く赤いラインで記入しています。
直線道路脇を相鉄いずみ野線が通る事、この直線道は横浜市主要地方道18号環状4号線として道幅を広げる際に見つかったと思われる。
国土交通省、空中写真を使用。
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東山道相模路2

2010年08月11日 | 東山道~鎌倉

東の上遺跡から旧国鉄中央鉄道学園跡遺構を緑の直線ラインの延長です。
赤く囲った道が海軍道路で、3kmの直線道路です。

この周辺の鎌倉街道は、西から
①想定伝路、
②滝川街道、
③安部正道氏の鎌倉街道、
④旧ドリームランドから北上する道
⑤。鎌倉道(阿久和ー鎌倉線)、
⑥古代東海道の陸の道、更級日記に書かれた後の江戸東海道、
この様に、チョット目立つ街道でも、これだけある。
その中で、
古代の東山道と考えられる路は、どれか?
マスコミに登場しない道ですが、、、、
直線ラインを描けば、この海軍道路である事が一目瞭然です。
何故、注目されないか??
東山道の支道は「武蔵国府」へ行く為に作られ「東山道は、武蔵国府までです。」と考えた間違えです。

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東山道相模路1

2010年08月09日 | 東山道~鎌倉
東山道相模路、、この名はこのブログ限定の名称です。
公的には存在を無視された、東山道武蔵路の武蔵国府より鎌倉までの東山道です。
鎌倉時代の古文書には「武蔵大路」の名で登場する路です。
しかし、「武蔵大路」の名は在っても 場所が不明瞭な為に存在を無視された中路幅の駅路です。
中路規格の路面9mは十分に大路と呼ばれても問題の無い幅です
鎌倉時代に作られた道幅は鎌倉周辺で3.3m程度で、それ以上の道幅は不要で、軍事的にも攻め込まれる危険等あり、鎌倉時代には広い道幅は作られなかった。
その様な広い道幅があるとすれば、平安時代かそれ以前の時代に作られた道と考えられます。
 東山道でも古代東海道でも、官路は何度かルートを変える事が実証されています。
ですから、この路が正規な駅路や官路とか、を考えるのは当たらない。
いつの時期に使われたかを問われるべきと思います。
言える事は、
古代初期の官路,駅路は道幅が広く直線的であった。
 
さて、、
この事を踏まえて、ぼ輔に衝撃的な情報が判明した。
それは、無視されている鎌倉街道の存在です。
太平洋戦争に遡る話ですが、
神奈川県横浜市瀬谷区に日本海軍が作った「海軍道路」と言うのが在ります。
直線が3kmある道路です。
東の上遺跡(※1)から、旧国鉄中央鉄道学園跡遺構(※2)に直線を引き、その延長を伸ばすと、、
この「海軍道路」の直線道路にノルのです。
それ以前の明治時代に横須賀港に水道を引こうと水道管を敷設した場所も、敷設した関係者に話を聞くと、以前に道路として使われた痕跡があると言う話が在り、実体を調べることも無く想定伝路の名前になった。
偶然の一致でしょうか?
 土地の接収のし易さ、土地の境であったり、青地と呼ばれた場所で地主とのトラブルの少ない場所を選定した結果ではなかったのか?
 
地図は、国土地理院 1/20万 東京 昭和59年発行
地図は長すぎて、前半と後半に分けます。
地図は、東の上遺跡から旧国鉄中央鉄道学園跡遺構を緑の直線ラインを引きました。
その延長は、画面の容量が表示目一杯で後半を次回に「海軍道路」まで表示します。
(※1)埼玉県所沢市久米
(※2)東京都国分寺市泉町2丁目
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