さて
東山道相模路の緑のライン!
東山道の延長であると証明された時、、、
何が考えられるでしょうか??
古代の官道,駅路は、、目的地に向かい真っ直ぐな道を作る。と規定した場合、、、
最初から東山道武蔵路は、鎌倉を目指した!っと考える可能性がある。
その途中の駅に国衙として武蔵野国衙を作った!そう解釈もできる。
文献は極く少なく、歴史を総合的に語るには、不足です。
実際の遺構から文献に無い事を考察すべきと「ぼ輔」は考えます。
東山道武蔵路は、鎌倉を目指した道か?
はたまた、、武蔵野国衙を作るためなのか?
従来の「武蔵路は武蔵野国衙の為に作った」説の根拠が何処に有るのでしょうか?
中ノ宮北遺跡と鎌倉の海蔵寺裏大堀切の間に位置する大船駅の笠間中央公園で、道幅約10mの道路遺構が見つかっていると聞きました。
「鎌倉の海蔵寺裏の大堀切は,武蔵大路の切通しであった」というぼ輔説を裏付ける話です。
現在は、ぼ輔の妄想とか憶測では、、、頼朝以後、海蔵寺裏の大切通しは土橋で塞がれた東山道相模路の痕跡と考えるのです。
一般常識では、単なる用途不明の海蔵寺裏の「大堀切」と呼ばれています。
でも、これだけの根拠が出てくると、、、妄想も真実味が湧くでしょ?
取り合えず、痕跡の経路で 地図は出所不明の大正時代の地図。