鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

篠窪から関本へ5

2019年12月26日 | 古代東海道
篠窪の富士見塚を矢倉岳に向かい降りていく場所ですが、、、

この四角く青で囲った場所の話です。
この地図は明治15年の作図で、江戸時代から引き継いだ矢倉沢裏街道と考えられます。


国土地理院の空中写真と傾斜地図の合成です。
赤丸の場所が富士見塚で薄く紫色の点線で示したのが裏街道です。


おなじ画面の傾斜を黒く強調し示してあります。


これが傾斜地図で富士見塚と、裏街道を示してあります。


更に、古代東海道の痕跡と思われる幅広の帯状の平坦地を青と緑の点線で示しました。
考えられる道が二筋有る訳です

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篠窪から関本へ4

2019年12月19日 | 古代東海道
近代的な信頼のできる 明治15年に作成された迅速図です。
ほぼ江戸時代の状態を示した地図と考えられます。
未だ 小田急線や246号道路も無い時代です。
問題は、
紫色に示した矢倉沢街道です。江戸時代はこのルートと考えられます。
赤色に示した道は栃窪の古老に聴くと大住郡の郡道で在ったと説明されました。

地図の中央は渋沢村で、矢倉沢街道は四十八瀬川に降りていきます。
この周辺の街道の道幅は、当時は一間程と伝え聞いています。
渋沢村から四十八瀬川に降りる道は、途中に車止めがありその後は本来の道幅と考えられる一間幅の道と成ります。

この川沿いの道の現状は小田急の路線上でったり、藪の中となる。

更に四十八瀬川に降りると、痕跡も消える廃道となります。
地図の方位は、上が北です。

次の図は、鎌倉方面から矢倉岳方面の西を向けた図面と成ります。


詳細を解説すると、

この様な概念図と成ります。
次回は、富士見塚脇の古代東海道の痕跡です。
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篠窪から関本へ3

2019年12月06日 | 古代東海道
篠窪には、丘陵乗り越えの直線道造りには無理な地形ですが、
どの様に対処したのか??
その様な山間部に於ける駅路のケースです。
人里離れた富士の裾野等は比較的平坦地で直線道路を作り易いのですが、篠窪は凹凸があり困難な地形です。
取り敢えずは、
Z路の遺構が在りました。
その次は、峰通しの緩いカーブが在ります!
広めの道幅が確保できる峰ですが本当にこの経路であろうか?
◎道幅を確保できる峰通しの有力な場所である。
◎他に代わる谷へ降りるルートが造れない。
と言う根拠でこの場所となる。

右の黄色いZ字道路遺構の場所から、薄い赤点を通り左の端迄峰を通り、その端から、峰を降りる。
その後三島神社の前を通り、富士見塚までが考えられる。
っと言う事は、
この古代東海道の道路遺構は、鎌倉時代にも使われていたと考えられる。
何故なら、
曽我の五郎十郎の話にもある 源頼朝主導の富士の巻狩りの通り道であり、
鎌倉より 富士の裾野に向かう最短距離の直線道路で他の道路より古代東海道痕跡の方が整備された通り易い道で有たと考えられる。
その様な訳で、私とは別な視点の富士見塚の解説です。

矢倉沢往還の痕跡と成っているが、その前の時代の奈良、平安、鎌倉の時代の古代東海道の走路痕跡である事は、書かれていない。
初めから、この場所は古代東海道の痕跡である! 何て言う文献は無いので、仕方が無いのですが、、、
では、この道路は古代東海道の痕跡である根拠は有るのでしょうか?
それが、有るのですよ!!
古代駅路の痕跡は路面幅9m程在ります。それを提示すれば良い訳です。
峰通しの道もその幅は確保できる尾根道ですし、この冨士見塚の周囲にもある。


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