江戸東海道は、
地方の謀反に対して、幕府が行ったことは、
参勤交代や「出女入り鉄砲」の関所を作り交通を制限したり、
川に橋脚を造らない、道を狭くする等の軍事目的が在った訳です。
結果として
家康の遺訓『家康公御遺言百箇条』の 大海道 6間(約10.8m)等は、
お家の安泰が優先され、 完全に無視された訳です。
品川宿では、3間程となり、藤沢宿では道幅3間或は5間(広小路)と【相模国風土記稿】に書かれており、宿場は3間の幅が確認できる。
結果は この宿場の道幅3間幅は幕府指定の小海道の道幅と思われる。
宿場を離れたら、馬道2間(約3.6m)と言うのも有りそうです。
少なくとも、東海道五十三次の浮世絵は、2間幅に書かれています。
東京や神奈川県内は、江戸の痕跡は総て明治の時代に拡張済と考えられる。
拡張されなくても、権太坂では、一部は民間に払い下げたそうで、
藤沢遊行寺坂の道は江戸東海道は売られて痕跡すら無い!
よって、証明は困難と思えるのですが、、、、
明治元年(1868年)から起算して満150年
江戸東海道は、明治になり道路拡張と整備が行われた。
どの様に変化をしたのか? その経過は、、
神奈川県大磯町に 化粧坂と称する場所が有る。
現在は国道一号となっております。
同様に明治の時代です。
右画面端に高麗山が写っています。
ほぼ同じ場所を想定しています。
同じ明治時期の大磯町化粧坂の写真ですが、、、
同じ道ですが、道の傍がキレイなラインに成っており、整備された状態がご理解いただけますか??
これは、国道一号から外れて、取り残された化粧坂の現代です。ほぼ上の写真の道幅と同様に思います。
更に古いと考えられる写真が有ります。
この様で、上の写真と下の写真を比べて如何でしょうか??
人の背丈とから推定し2間程の道幅と、道の傍がクッキリしてない事から江戸東海道を拡張する前の道幅と考えます。
私には下の写真(2間幅の道)に近い道幅と思えます。(誘導の文ですね!)
この様に
150年の間に道は変化した訳です。
最後に、
道幅は2間です! と言う宿場町が有ります。
これは、関宿の画像ですが、、、
静岡の白須賀宿他、、色々な場所で、狭い東海道が存在します。
その様な訳で、江戸東海道は一貫性が無い事と、
明治政府が国策として拡張した事で、根拠を出しにくい為、、
結論を出す気は無いのです。
東海道の道幅に疑問の方は、これ等を参考に調査をしてください。
これ等は、議論の余地は無く 根拠を如何に多く出して納得させるか!
っと言う事項です。
議論している間は、根拠も曖昧で資料も少なく憶測が入る余地が有る!
キリが無いのでこの辺りで一区切りです。
謝辞
コメントに力を借りて、、ココまで書きました!
地方の謀反に対して、幕府が行ったことは、
参勤交代や「出女入り鉄砲」の関所を作り交通を制限したり、
川に橋脚を造らない、道を狭くする等の軍事目的が在った訳です。
結果として
家康の遺訓『家康公御遺言百箇条』の 大海道 6間(約10.8m)等は、
お家の安泰が優先され、 完全に無視された訳です。
品川宿では、3間程となり、藤沢宿では道幅3間或は5間(広小路)と【相模国風土記稿】に書かれており、宿場は3間の幅が確認できる。
結果は この宿場の道幅3間幅は幕府指定の小海道の道幅と思われる。
宿場を離れたら、馬道2間(約3.6m)と言うのも有りそうです。
少なくとも、東海道五十三次の浮世絵は、2間幅に書かれています。
東京や神奈川県内は、江戸の痕跡は総て明治の時代に拡張済と考えられる。
拡張されなくても、権太坂では、一部は民間に払い下げたそうで、
藤沢遊行寺坂の道は江戸東海道は売られて痕跡すら無い!
よって、証明は困難と思えるのですが、、、、
明治元年(1868年)から起算して満150年
江戸東海道は、明治になり道路拡張と整備が行われた。
どの様に変化をしたのか? その経過は、、
神奈川県大磯町に 化粧坂と称する場所が有る。
現在は国道一号となっております。
同様に明治の時代です。
右画面端に高麗山が写っています。
ほぼ同じ場所を想定しています。
同じ明治時期の大磯町化粧坂の写真ですが、、、
同じ道ですが、道の傍がキレイなラインに成っており、整備された状態がご理解いただけますか??
これは、国道一号から外れて、取り残された化粧坂の現代です。ほぼ上の写真の道幅と同様に思います。
更に古いと考えられる写真が有ります。
この様で、上の写真と下の写真を比べて如何でしょうか??
人の背丈とから推定し2間程の道幅と、道の傍がクッキリしてない事から江戸東海道を拡張する前の道幅と考えます。
私には下の写真(2間幅の道)に近い道幅と思えます。(誘導の文ですね!)
この様に
150年の間に道は変化した訳です。
最後に、
道幅は2間です! と言う宿場町が有ります。
これは、関宿の画像ですが、、、
静岡の白須賀宿他、、色々な場所で、狭い東海道が存在します。
その様な訳で、江戸東海道は一貫性が無い事と、
明治政府が国策として拡張した事で、根拠を出しにくい為、、
結論を出す気は無いのです。
東海道の道幅に疑問の方は、これ等を参考に調査をしてください。
これ等は、議論の余地は無く 根拠を如何に多く出して納得させるか!
っと言う事項です。
議論している間は、根拠も曖昧で資料も少なく憶測が入る余地が有る!
キリが無いのでこの辺りで一区切りです。
謝辞
コメントに力を借りて、、ココまで書きました!
古代東海道ですと 朝廷に対抗する勢力は無く、朝廷の威光を示す為に道幅9mで側溝を含めて12mの規格の道を山中迄作ったのが東海道で有り、東山道でしたが、、、江戸時代は、防衛の為に道幅を狭くし、宿場ではクランク状にして先を見えない様に細工をしたり、、
特に箱根では、一間幅と思える道幅の道も有ります。モットも、関東大震災で箱根の石畳は埋もれてしまい、新しく作り直した様態が有り、その脇に旧石畳の遺構が隠れていたりします。