鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

続 東山道相模路 序章

2006年10月07日 | 切通し
 鎌倉幕府の仕組んだ水道道路(武蔵大路)消滅工作で、痕跡はズタズタ!
鎌倉の北西の玉縄城周囲から大路が入り込んでいる状態を模索中に古道ファンより「もしかしたら、鎌倉の西に大きな入り口が、在った可能性が在るのでは?」っと言うメールが入った。
私が「それは武蔵大路の痕跡です。」と答えた処、明快な反論は無く現在に至っています。
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玉縄城

2006年10月06日 | Weblog
1960年の頃、玉縄城を興味を持って見た人も少ないと思います。
前記の玉縄城の写真はそんな開発以前です。
中学生の時未開発の城を探し出し、その後高校の文化祭の考古学クラブで、玉縄城の詳細な紹介をされているのを見て、自分の見たモノが何かを確認しました。
城の出入り口は一つで、七曲と称する道を通り城に入る。
七曲の一段上の道から侵入者に矢を射掛ける構造も残っていた。
今有る本を散見しても、高校生の研究発表以上に書いてある成書は見た事がありません。
そんな高校生の研究成果など、見向きもされずに処分されたと思います。
 田中内閣の列島改造頃より、、、開発は始まり、
史跡玉縄城は地図を調べると総て開発されています。
この時期の写真は、他に数点が鎌倉市の玉縄図書館にあります。

鎌倉を世界遺産に登録しよう!
そんな話の中でも、朝比奈切通しは、四輪駆動車の轍の餌食です。
化粧坂も観光破壊が進みワズカ40年で、バイクも登れない荒れようです。
本気で史跡を守る市政の姿勢は???
ドチラニしても、、反対運動を起こす気持ちも無い私としては、、、
心がある人に面白がって探す楽しさを判って頂きたい。
何かの権威にスガッタリ、信用したりせず、自分の目で判断し、自分の考えで探す楽しさです。

そんな、自由な考え方で遊びませんか?
専門家も十分な資料がなく、考え方もアマチュアとプロの境がアイマイナ時期。
貴方の住む周囲でスペシャリストになれると思いませんか?
それが、、、古道探しです。
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立石 4

2006年10月04日 | 東山道~鎌倉
鎌倉を守るに邪魔な武蔵大路!出来るなら消滅させたい。
当然この道路遺構にも手を付けたであろう。
立石対岸の痕跡は、川から上り口に、、先ず道を切り崩し段を作った。
4~5mの段になっています。段の下は家が一軒建つ広さで家が在ります。
鎌倉幕府がやったであろう!っという根拠は、坂道の土砂を取り除き平地にしてある。
その規模が一個人の財力ではやれない規模である。っと言う理由です。
そこから200m程遺構が残り、その先は土砂で埋まり、痕跡は不明です。
その延長の300m先は江戸東海道(現第一国道)で、その間に妙な土地があります。
何が妙かといえば、持ち主無しの土地(俗に青地と呼ばれる)が細長く有るのです。
更に鎌倉に向け1K先には、「関谷」という地名があります。
関谷についての由来に伝承は無いようで、、、
本を見ると「玉縄城に出入りする人を監視する関では無いか?」と書かれている。
馬鹿を言っては困る! その様な場所の名前は「城の門」と言います。
その関谷は玉縄城に接しており、城の周囲は城廻と呼ばれる道が有る。その南西側は、鎌倉に向けた古道跡とも考えられる幅が有る。
これも、鎌倉側で断ち切られた状態に成っている。

写真は玉縄城で、通常の城の概念とは異質です。
石垣の無い山城と呼ばれるが、これが曲者で難攻不落を誇った名城!
1500年代に北条早雲が作ったとされ、上杉謙信が攻めたが落とせず!
武田信玄が脇を通ったが前例を知って、攻める事はしなかった。
その後、城を攻められ開け渡した事があるが、武力ではなく政治力に負けた為です。
最大の特徴が、臼鉢型の真ん中が窪んだ城です。
その周囲に道路が有るのを確認できるでしょうか?城廻と言われる道路です。
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立石 3 

2006年10月03日 | 東山道~鎌倉
同じ地点より反対側の鎌倉向きに(東)撮った写真です。
両側の土塁(土壁)の状態が前の写真より判り易いと思いますが、、、
平らな処に畑を作り、、土塁の場所は、そのままにしてあります。
両土塁間12~15mは家を建てたり、畑を作るに適当な幅でもあります。
土塁は、200mにワタリ直線的に存在する。

段々、、鎌倉に近づいていますが、、、
鎌倉の山を越え市内に入る為の、巨大な道を作る事が出来たのか?
そんな、、、謎解きです。

道幅9mが、何故巨大か?
今の車社会しか知らない人には理解出来ないでしょうが、、、
戦後間もない、自動車が自家用車として使われなかった時代、、、
大半の道は荷車を通せれば、立派な道だったのです。
荷車は大八車が一般的ですが、畳一枚程度を運ぶ幅と長さです。
昔の軽4トラックも畳を運べる規格でした。車幅1200ミリ程度です。
そんな時代に、バスが一台通れば、他の地域をツナグ街道です。
それでは、バスとバスがすれ違えない!
チャンとすれ違う道幅を確保したポイントを作って有ったのです。
遙か彼方に小さく見える対向するバスを延々そのポイントで待っていたのです。

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立石 2

2006年10月03日 | 東山道~鎌倉
「水道道路(明治の地図)その3」の境川を挟んだ立石対岸に赤いラインで示した場所!
「鎌倉街道?これは、東山道武蔵路では?」と「クランク状態を無視して直進した場所」に共通の道幅、坂の傾斜、土手の在る場所です。

写真は道路遺構の真ん中より西(境川)に向けた写真。
右側の人一人通れる幅の道は、土手上を通る直線的な現行の道。
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立石 1

2006年10月02日 | 東山道~鎌倉
立石には、立石神社があります。
当然学者が調査した筈ですが、、、
この伝承については、一言も言及していない。
よって、、、伝承は無かったと外野のアマチュアは思うのです。
何故?  伝承が無いか???

東山道相模路が在っては困る人が居たのです。
出来る限り判らない! 使えない! そんな道を消す工作をした。 ダロウナと思う。
当然目立つ立石は、鎌倉時代に引き倒されて、、、埋められた!  ダロウナと思う。
それが、立石。
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