鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

東富士演習場の立ち入り 14

2014年07月22日 | 古東海道 足柄、箱根、富士
大化の改新(西暦646年)から、延暦廿一年(802)迄約150年間に、十里木の経路も変遷が有ったでしょうし「火山灰や溶岩流が足柄路を塞ぐ」は文献以外にも起きていたと考えると、この道路痕跡が唯一の物とは思えない。
 道路遺構の様な直線的痕跡は、この東富士演習場の中にはマダ有ります。
 大半は火山灰に埋もれ、素人に手出し不可の不明瞭な遺構で書き様が無いのです。
とりあえず、、、誰でもgoogle地図で確認が出来る「富士山に人手を加えた古代の巨大遺構を紹介しました。」
考古学の特異な分野ですが、、一般人でも検証できる遺構です。

足柄路を延喜式駅路の根拠で、蒲原→沼津(長倉駅)→横走で語られます。
しかし、延喜式駅路以前の駅路は文献も無く語られる事も無い。
古代官路のコンセプトから、十里木経由の方が直線的で元来の古代東海道と考えられる。
足柄路が焼砕石で塞がった状況を、従来の延喜式駅路では噴火口や溶岩流から遠い為に説明できず、矛盾があるが、十里木峠の道路遺構は、焼砕石で塞がった状況を説明できる官路です。

以上がダイジェストです。

この場の再度の探索は、、予定していません。
行かれる方が居られたら、、、
留意点は、
1、東富士演習場は地元の地権者が立ち入る権利があります。
2、夏はすすき野状態と思われ、観察は困難と思います。
3、秋に野焼きを行います。
4、野焼きの後は、地表から10cmほど焼き残りの茎が飛び出した状態の原野となり、山靴で無いと、焼き残りの茎が踝を突く状態になります。
5、基地内は、ダートで道によっては荒れがヒドイ場所もあり2駆では立ち往生も考えられます。慎重に見極めて下さい。

現地に行かなくても古代道探しは、、、google(地図)や国土地理院(地図・空中写真閲覧サービス)で楽しめます! ご検索ください。
航空写真は、年度、太陽の方向、植生の状態、画質の解像度等で、在るべき痕跡が消えたり浮かび上がったりとても微妙な状態で出来るだけ、数を見る事をお勧めですが、今のgoogleマップは解像度に優れて優秀です。(10年前は解像度が劣り使えなかった。)

写真は
愛鷹山、越前岳の一連の山塊ですが、、、
その下の十里木峠から足柄に行く東富士演習場内の原野です。
この原野の中から道路遺構を探そうとしても、位置情報や場所を確信できないと、写真の様な原野が広がっているばかりです。
写真は、5月の連休で、ススキは無い状態です。写真の解像度が高いので、クリックすると大写しになります。
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東富士演習場の立ち入り 13

2014年07月12日 | 古東海道 足柄、箱根、富士
出典:『日本後紀』朝日新聞本  http://www.j-texts.com/chuko/koukiall.html
●卷九逸文(『日本紀略』)
延暦十九年(八〇〇)六月癸酉【六】》○癸酉。
駿河國言。
自去三月十四日、迄四月十八日、富士山巓自燒。
昼則烟氣暗瞑、夜則火光照天。
其聲若雷、灰下如雨
山下川水、皆紅色也。
●卷十逸文(『日本紀略』)
延暦二十一年(八〇二)正月乙丑【八】》○乙丑。
加征夷軍監已下軍士已上勳、各有等級也。是日。勅。駿河・相摸國言。
駿河國富士山、P6058昼夜恒燎、砂礫如霰者。
求之卜筮、占曰。干疫。宜令兩國加鎮謝、及讀經、以壤災殃。
●卷十逸文(『日本紀略』)
延暦二十一年(八〇二)五月甲戌【十九】》○甲戌。
廃相摸國足柄路、開筥荷途、以富士焼碎石塞道也。

以上の文面の青字の部分を注目すると、
空中に「如雨」「如霰」舞う灰や砂礫の記述があり、 それとは別に足柄路を塞いだのは焼碎石と書かれています。
降り注ぐ火山灰が道を塞いだのではなく、焼碎石(焼けて砕けた石=溶岩流)が道を塞いだと文献に述べられている。
『焼碎石を火山灰』と置き換えたら、誤解というより故意に歪曲した文章と成ります。

古代駅路には「全体を貫く基本的な方針」=ポリシーがあります。
○目的地に最短距離で、
○道幅は中路(9m)で、
○路面は、三和土(たたき)技法で舗装する。
○側溝を作る。
一箇所発掘されたら「目的地に最短距離で」道路遺構の延長を想像できる理屈です、現地を確認する程度の興味は湧くと思いますが、、、
文献に無い道路遺構ですが、、、
「廃相模国足柄路」のエピソードから十里木峠経由足柄路なら起こり得る話しとなり、この官路の存在を証明する文でもあります。

延喜式の編纂は927年(延長5年)に完成した。
延暦廿一年(802)足柄路を焼砕石が塞いだ、、、その100年後の官路が延喜式駅路であり、大化の東海道の不都合を修正した道と考える。
何が不都合か?それは、延暦の前に東海道を塞いだ溶岩流が781年に在る!  それだけでなく、毎年十里木峠は、冬の間雪で白く成っているのが通常で、最短の道より、自然災害の少ない道路を目指し経路を延喜式駅路に変更したと「ぼ輔」の憶測するのです。

問題は、
 802年足柄路を焼砕石が塞いだ文献を、100年後の延喜式で作られた駅路で起きたと解説した為に、言葉を歪曲し 無理な解釈で矛盾を生じたと考えるのです。時系列の混乱した研究者が深く考えずに論文を発表したのでしょう。
結果は、
初期の古代東海は 道溶岩流が道を埋めて通れなくなる場所であった!
 それが、文献には無い十里木峠を抜ける足柄路と呼ばれた古代東海道の存在と、
足柄路と呼ばれた古代東海道を痕跡を示して証明をしました。
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東富士演習場の立ち入り 12

2014年07月05日 | 古東海道 足柄、箱根、富士
2014-07-05 09:14:19

青いラインは道幅9mの道が在り、火山灰に埋もれた過去を持つと考えられる。推測すれば、埋もれた道の上に3m幅の道(橙色ライン)を作り、、その後に再度火山灰に3m幅の道も埋もれ放置された。
文献には無い東富士裾野に古代東海道の特色をもった道路遺構が在る。
延暦以前の経路を書かれた文献は無い。
依って、
この道路遺構が古代駅路で有る可能性について、
その規模、直線性、蒲郡から足柄峠に向けた最短地形などから肯定できる。
逆に否定する根拠は見当たらないのです。
この道路遺構は時期不明の火山活動で通行不能になり、原因は溶岩流や、火砕流道路遺構、その他に十里木周囲に火山灰が積もったかも、、、時代が下がり、その道路痕跡の上に3m幅の道路が作られた。
3m幅の道路も、その後の火山灰(宝永大噴火?)で埋没。

火山灰が柔らかく降り注ぎ、その後雨を含んだ火山灰は自重で陥没し、点線状になり現在に至る???
  っと勝手な憶測をしました。
「東富士演習場の立ち入り」の収穫は以上の結果です。

次回は、この道路遺構を元に 従来説『火山灰で足柄路が通行不可』の文献を見直しです。

記2018/6{俗に言われる「ソイルマーク」で、地下の土壌の状態が植生に影響します。よって、
季節により見え方は当然変わるのです。
何時もこの様な状態を見れるわけではない。
この記事は7月に書かれましたが、現地取材は5月頃と思います。}
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