鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

旧東海道の道幅 コメントより5

2018年08月31日 | 古代東海道
問題点1
右の黄色の図において、
 A~C間 画面下で直角に曲がる旧道ですが、C点以降は道が細い!
 A~C間は旧道の拡張工事を終えC点で工事が止まっている。
問題点2
 A~B間では旧道とは別に更に道幅の広い新道が造られている!!
 何故C点で旧道の拡張工事は止まったのか?
問題点3
 考えられる事は、
このC点より先は坂の傾斜が強すぎて車両の昇り降りが困難であった。
道路工事の監督は、ココで初めて気が付いたと、、、言う訳でしょうね!
傾斜を弱くする為に切通にする事を考えた。
結果は、A点より道路を掘り下げ道路の傾斜を緩くした。
よって、
例えA~C間に旧道が残っていても、すでに拡張済みの道路と言う訳です。
其れ以上に権太坂同様に道を売却した様で地図から消滅!

道路を拡張した結果は、、
地図のC~Dの状態で
C点では両脇に在った茶店は左の白い地図上から消え切通の崖の印が書き加えられている。
更に道路の拡張は藤沢宿の際で止まっている。
立ち退き保証の問題が生じますから、手が出ないのでしょう。


江戸東海道は、明治の時代に道路が拡張されオリジナルでは無くなった!
私の知っている60年前の東海道の遊行寺坂も江戸時代の痕跡は無く、、、
明治の政府が作り替えた坂と、並木も明治に植え替え、江戸のオリジナルでは無かったのです。
遊行寺坂を見上げると結構な崖です。
大半の江戸東海道は、明治の一級国道として車両を通す為に作り替えられた。
よって、江戸東海道が残存するとすれば、
河川や山間の旧道を改造するより新しい道を作った方が良い場所とか、
街の家屋を取り壊しが絡む宿場で地権が大きくバイパスを作った方が安上がり!
 その様な特殊な場所と考えられる。
藤沢宿は古い商家が建ち土蔵などの痕跡は古色蒼然として点在します。
明治、大正時代にこの地は大火と関東大震災に破壊され、現代的な道幅となった。
戦後に私は70年前の藤沢宿を見て、江戸の東海道は立派な道と考えて居たわけです。
イヤハヤ、、、コメントが無ければこの様な裏事情は知らないママでした。
古代東海道の話が、 江戸東海道になってますが、、、
更に、、続くのです
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旧東海道の道幅 コメントより4

2018年08月27日 | 古代東海道
【相模国風土記稿】に藤沢宿の記載が有り、
〉東海道往還、宿内に係る事屈曲して30余町に及べり、
〉往還中、民戸連佳する所12町17間、
道幅3間或は5間に至る。

早い話が、藤沢宿の道幅は5.4m(3間)から 9m(5間)である!
当時としては、破格の道幅です。
9mの無駄に太い道があったんですね、、、


これは、東海道としての道幅ではなくて、、
防火帯としての、火災の延焼を防ぐための空間で有った訳です。
その空間を広小路と称する訳です。
日本の三大広小路と言うのが有ったそうで、、、
三大広小路
 上野広小路、
 名古屋の広小路
 藤沢広小路

更に、この藤沢広小路は、クランク的に曲がっており、
東海道でも特異な場所で在ったそうな、、
この広小路を称して「三曲がり」と言う名所で有ったそうです。
その様な訳で浮世絵にもなって残っているのが、上図の浮世絵と藤沢広小路の解説です。


問題は、この明治時代の地図なんですが、、、
左は明治の後期で、 右は明治の初期と思われます。
注目点は、
緑字のA. B. C. なんですが、、、
東海道を、明治政府が改造している途中が見れるわけです。
本来は細い東海道を 太くて車両を通せる道路に改造しようとしている痕跡です。
如何でしょうか??
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旧東海道の道幅 コメントより3

2018年08月25日 | 古代東海道
旧東海道の道幅は、、とても広かった!
それが、今回のテーマです。
当然今までの記述とは矛盾します。
証拠1

家の大きさや、人物に比較して、道幅はご覧の通りです。

私の生まれた当時から現代までは、証拠として写真が有ります、、、
証拠2

ご覧の通り昭和時代の巨大な道幅です。
私の知る時代は戦後間もない昭和26年で、道幅はこの写真と同じです。
江戸の浮世絵と合致する道幅です。
ですから、
「此れが真実です。」と断定するのは、、、歴史を知らないダケノ事です。
事実(うにゅー)さんに言われ、調べる数か月以前は判らず、調べる気も無かった話です。
 「自分の目で知る東海道は街中は広くて、、
  町を外れると二車線の道路と大きな松が植わっていて、、」
っと言うのが70年程前を知る本人の記憶です。
それは、多少古い事を知っているだけで、歴史を知っている事とは無縁でした。

証拠3

私の知っている昭和より前の 大正時代です。
昭和の街並みに比較し、大正は家に比して道幅が狭いのが理解してもらえると思います。
この写真の後に関東大震災が有り、これ等の家屋は総て倒壊したのです。
それを契機に東海道の道幅は大きく広げられ、昭和の写真に成り現在に至ります。
此れが歴史ですが、、、
写真は無いが明治時代の歴史も有るのです。
江戸から大正迄の間の歴史の変遷ですが、、、、、
その道幅は、、、
地図で証明してみよう!!
っていう訳です。
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旧東海道の道幅 コメントより2

2018年08月07日 | 古代東海道
さて、、明治期迅速測図が左右に有りますが、
左は明治末期で 右は明治中頃です。
左は鉄道東海道線が敷設され、緑色で示した国道一号線が作られています。



右の図は、本来の江戸時代からの東海道と推測できます。
左の図は、、、如何でしょうか?
赤の字で示した処は、破線で書かれています。
この違いは、、以前は国が法律で管理した道路であるが、破線の道路は「里道」に成った事を示します。
里道とは公道だが管理は国から離れる事です。
道路が狭くなるか否かは不明です。
うにゅ〜 さんのコメントに有った「道を販売した」ことも考えられ、結果は一間幅の道路写真と思われます。
後に、道路脇の人が道を広げるのに土地を提供した話も在るようです。
更に新道は、
道幅を太く描かれている事に注目してください。

改造しにくい旧東海道はバイパスを通して太い道を作る。
バイパスが困難なら、旧東海道を作り直して太くて車も登れる坂に作り変える。

他の場所では、、、そんな痕跡も見れるし、
松並木は如何したのか?  なんて言うのも観察できます。
大きな松並木が在れば、、江戸時代からの松であろう!! なんて思う訳です。

車が登るのが困難な坂に藤沢の遊行寺坂が有ります。
次のテーマは、、、坂をどの様に改造したのか? です。
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旧東海道の道幅 コメントより1

2018年08月04日 | 古代東海道
家康の遺訓『家康公御遺言百箇条』の 大海道 6間(約10.8m)は、品川宿では、3間程となり、家康の威光は無視された訳です。
唯一、家康を祭った日光へ行く日光街道は、、東海道よ立派で有った訳です。
東海道の宿場町の道幅は3間程度と「推測」するわけです。
箱根の石畳は一間程ですから、、街道は1~3間と考えるのです。

〉うにゅ〜 さん
〉右側の写真は「戦前」のものということですから、
〉この道幅が江戸期、もしくは明治初期の道幅である
〉とは断定できないでしょう。
 その様な訳で、詳細がわかる迄不問と言う考えです。

〉うにゅ〜 さん〉箱根ほど急峻ではない、
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=445216&id=8800873
〉朝日新聞の古い記事でした。
〉その新聞は確か昭和四十年くらいのものだったと記憶していますが、
〉それによると、その辺りは昭和三十年代の終わりから、四十年代の前半
〉まで、大規模な宅地造成が行われたそうです。
〉 その際に、整地をした時に「投げ込み塚」は発見されたそうです。
〉信じられない程の大量の白骨が出土されたそうで、人間、馬、牛、鶏等、
〉合計すると三百体以上の白骨がザクザク出て来てしまったんだそうです。
  多量の骨は、権太坂が激急坂の為で、坂上に「投げ込み塚」が有った。
  今では車が通れる程の傾斜の道に改造されたと言う想像です。
 
道幅は、箱根の急坂や、水田脇の盛り土の道、自然条件で一様で無いと思います。
 狭い根拠は其れなりに有り、広い根拠も其れなりに有ると考えます。
古代東海道中路規格の様な一貫性は  道幅に関し江戸東海道には無いと考えます。

これ等は、議論以前の根拠を探し出し、その根拠の真偽を検証する問題だと思います。
でないと「高天原は何処だ!」論争の不毛の話になる。
ナドと書いている最中に古い地図に東海道改造の痕跡が出てきた!!

マサカ、、、ココまで描かれていたとは、、
注目は、道路の記号(凡例)の破線で有ったり、描かれた道路の太さなのですが、、、、
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