鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

長窪砦モデルコース

2018年04月26日 | 大鎌倉城
鎌倉が不案内の方に、、
お気軽に鎌倉城を実感できる長窪砦のコースを考えてみました。
大半は、個人の住宅で砦は覆われて、その気で見ないと城とは思えないのが、、、
鎌倉城の特色です。
このコースは大きな砦跡ですが、、鎌倉城のホンの一部です。


北鎌倉駅を降りたら、円覚寺の池の間を通り、総門を越し拝観受付で「北鎌倉隧道」が通れないので迂回するのですが、「北鎌倉幼稚園」より「八雲神社」に抜けるにはどの様に行くのか?  を聞いてください。
桃色丸が駅で、そのまま桃色ラインを辿ってください。

横須賀線の脇から離れたら、目指すは熊野神社で、その裏が切通(大船の切通)です。
切通を登りきると大船高校で、畑との山際を下り高野の切通入り口(長窪の切通)に向かいます。
切通を上がると、長窪谷戸で住宅地を抜け、円覚寺の裏山を明月院に向け下ります。
明月院を通り越すと横須賀線で、右に行けば北鎌倉、左に行けば建長寺から八幡宮から鎌倉駅です。
観光地ではなく、地元の人間も不案内です。下調べを十分にして挑戦してください。
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下大槻から関本へ8

2018年04月24日 | 古代東海道
山を越えて関本に向かったと考えられる古代東海道ですが、、、
篠窪峠に「富士塚」と呼ばれる場所が在る。

その解説板には、、
この道の名は「矢倉沢往還」と呼ばれる。
更に、
源頼朝が富士の巻狩りにこの道を使ったと書かれている。
 これは、、
鎌倉代以前に道が在った事! 古代東海道を暗示する話と思います。
何故なら、此処から鎌倉に向け一直線に古代東海道が辿れる訳です。
他の脇道を通れば、、それは遠回りに成り古代東海道が存続していた根拠に成ります。
さて、
「矢倉沢往還」の常識的知識は「富士塚」「矢倉沢往還」で検索して頂けると調べることができます。
ご当地教育委員会提供の資料を基にした古道探索レポートが散見できます。
駅路の痕跡として、、、このレポートに納得できますか?
これ等に欠けた、駅路としての痕跡を探して欲しい訳です。
「富士塚」周囲の駅路探しです。
古代駅路の特徴ある、、廃路となった痕跡 又は一見細い現役の道の本来の姿を探すのが目的です。



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下大槻から関本へ7

2018年04月20日 | 古代東海道
矢倉沢街道は、谷筋を降りていく街道です。

江戸時代に使われた道と言う訳ですが、、、
古代駅路の風格が在りません!
>風格とは、
>道の広さ
>目先の地形を無視した 大局的に直線的な道路
>坂道の傾斜角度
>等が組み合わさり、風格が出る。

実際は東光寺の切通等を見ると、狭い道幅です。
狭い原因は色々考えられますが、、
1000年の雨でエグラレタ事も考えられるし、
戦略上、道を断ち切られた状態も在りますし、、
記述の無い歴史が在る訳です。
それらの歴史の変化を考慮した上で此処に道路の痕跡が在った可能性を考えるのです。
でも、この川に下る道は、、
地形に沿って無理なく作られた細い道で、、、
古代道路の風格は無い。
結果は、 谷筋では無く
山を越えて関本に向かったと考えられる訳です。
その場所は、、、何処でしょう??
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下大槻から関本へ6

2018年04月19日 | 古代東海道
写真は、秦野と大磯丘陵で、右の青丸は小田急電鉄脇の道路遺構で、その先の青丸が「大道」です。

桃色が江戸時代の矢倉沢街道と言われる道ですが、谷筋を関本に向かう道です。
江戸時代以前に谷筋に昔に古道が在った可能性は、、、否定できません。
問題は、古代東海道の名に値する遺構が在るか?の問題です。
その他に大磯丘陵に向けた青矢印の方向にその痕跡が在るのか??
なんと言っても、
関東大震災の断層が通っている場所が秦野です。
山が崩れて湖の「震生湖」が出来た場所でなので、道路遺構が山の中に存在するのか??
道路遺構の痕跡探しです。
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下大槻峯遺跡

2018年04月12日 | 古代東海道
メールにて、下記のご指摘がありました。
この様な情報は、とても嬉しいメールです。

・件名「下大槻で見つかった道路跡について」
・本文
>いつも楽しく拝読しております。
>一つ気になったのですが、確かこの道路跡は南北方向に走っていたと思います。
>一度、専門書に当たられることをお奨めします。


当方の記事、「相模の古代東海道 10下大槻峰」2016年02月20日
に下大槻道路遺構発掘の写真が在ります。
この写真の方向は、西向きに撮影がされた居ます。
写真左には東名高速道路が在り、その脇を地方道路が沿ってあり、
更に右手の道路遺構がほゞ西方向を(東西方向)向いて敷設されている。

別情報では、
http://www.scn-net.ne.jp/~kareno/hiratuta-kodou.html
< 下大槻峯遺跡 >
 総延長160mで南にゆるく湾曲しながら東西方向に伸びている。
検出された硬化面の最大幅は9mだが、単独で存在するのではなく少なくとも7回にわたって重複・シフトを繰り返している。各硬化面の幅は2~3m程度である。舗装など普請や、波板状凹凸面は見られない。側溝は検出されない。道路跡を挟んで両側に竪穴住居や掘立柱建物からなる居住域が広がっている。
(「下大槻峯遺跡III」かながわ考古学財団調査報告53)

下大槻峯遺跡の道路遺構は「東西方向」と言うのが結論です。
この様な疑問を投げかけて頂き、それに答えを返す事で 記事の信頼性が高まると思います。
「南にゆるく湾曲しながら」と言う項目は、全く意識に無かったのです。
単に直線だと、金目川に降りるときに断崖になりますがこの辺りに意味が在るのかもしれません。
別件でも何か在りましたらよろしくお願いします。
ありがとうございました。
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下大槻から関本へ5

2018年04月11日 | 古代東海道
下大槻道路遺構を都に向け降り、川を越えると田んぼが広がる。
秦野市内に入る道です。



右手には小田急の架線があり、左手には大磯丘陵の立ち上がりの丘です。
この丘の何処を登っていくのか?
樹木に邪魔されて判らない!



地図には、小田急と丘陵の間に帯状の平地が在るのですが、
その平場がこの様な平場なです。



古代道にしては、狭いのですが、、、
1000年の歴史の中で、色々な事象が在り細い道に成ったと解釈します。
しかし、それを解き明かす事は困難で 推測や、憶測の話になります。
あえて、、詮索はしません。



その延長線上に秦野の大道が在りますが、、、
それは、バス停の名前で在ったり、商店会の名前で在ったり、、、
道路の名称で在ったり、、、
地名としては検索されません。
調べれば、故事来歴が在るのでしょうが、、、
それこそ、埋没資料で、、掘り出すのは無理で素人の範疇を越えます。
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下大槻から関本へ4

2018年04月09日 | 古代東海道
前回「下大槻から関本へ3」の図で示した右から4番目の矢印の先ですが、
矢印の先には、道路遺構に相当する帯状の平場が在る

堀切を期待して図を調べましたが、出てきたのは、、、
小田急電鉄に沿った帯状の平場でした。
どうせ、、素人の戯言(タワゴト)ですから、証拠なんてありません。
でも、
裁判でいう状況証拠と言う根拠はあります。
一、下大槻道路遺構の川を越えた延長線に存在する。
二、道路状の平場である。
三、道路として、方向が適している。
っと言う訳です。

直線性を無視し、時代考証を無視した大磯経由の古代道路説よりも、
この古代東海道説のほうが、説得力を感じませんか??
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下大槻から関本へ3

2018年04月05日 | 古代東海道

右の矢印の先は、東海大の堀切が在ります。
右から2番目の矢印の先は、東光寺より、切通が在る。
右から3番目の矢印の先は、高速道路を越えた西側に道路遺構が検出された。
右から4番目の矢印の先は秦野市内に入る訳です。
何故秦野市内に入るのか?
それなりの根拠を書いてみましょう、、
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下大槻から関本へ2

2018年04月03日 | 古代東海道

さて、、
平塚の道路遺構(青丸)から東海大学脇の東側切通(赤丸)と西側切通(赤丸)を通り、下大槻道路遺構(青丸)へ向かうと考えるわけです。
足柄峠を越えるにしても、、、取り合えずは、関本(赤丸)と考えます。
関本への経路は???
大磯丘陵の中を通るのか?  川音川脇を国道246号や小田急の様に通るのか??
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下大槻から関本へ

2018年04月02日 | 古代東海道
下大槻には、道幅から推測すると古代東海道に相当する道路遺構が在る。
足柄峠の脇に矢倉岳が在り、直線道路を作る目標になる訳ですが。
その目的地の六浦の港までのラインが青で書かれています。

これに対して、実際の確認できる遺構は、丸で示した場所です。
赤丸に黒い棒の印は、「大道」と呼ばれる場所です。

下大槻道路遺構から秦野に入った古代東海道は、、、大磯丘陵の中を通るのか?
ハタマタ、国道246の在る川音川の谷を通るのか?
貴方なら、、、何処に道を作ります??
文献には在りません!
推測と、、それに相当する痕跡が見つかるのか?
過去に在った歴史的な証拠を貴方も検証してみませんか?
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