鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

鎌倉の古代 8

2010年12月17日 | 鎌倉の古代
古代鎌倉は染谷太郎大夫が住み、由比の長者と呼ばれた。
邸阯の碑に
「染屋太郎大夫時忠は 藤原鎌足の玄孫(やしゃご)に当り 南都東大寺良弁僧正の父にして 文武天皇の御宇(697‐707)より 聖武天皇の神亀年中(724‐728)に至る間 鎌倉に居住し東八箇国の総追捕使となり 東夷を鎮め 一に由比長者の称ありと伝へられるも 其事蹟詳ならず 此處の南方に長者久保の遺名あるは 彼の邸址と唱へらる 尚甘縄神明宮の別当甘縄院は時忠の開基なりしと云ふ」とあります。

・・・東八箇国の総追捕使となり 東夷を鎮め 一に由比長者の称あり・・・
っと言う文面ですが、関東及び以北を守る司令を鎌倉から出していた!
鎌倉は、その様な・東八箇国政治の中枢でも有った様子がこの碑文よりウカガエル。

経済の基盤産業として、その盛況を裏付けるのは、、東海道と、東山道相模路(武蔵大路)の存在です。
一見不要に思える東山道のルートですが、、それなりの必要性から生まれた事と思われます。
お宝の運搬路として、東山道の方が確実で有ったのか?
それとも、東八箇国の総追捕使として、以北の監視に必要な道であったのか?
限られた資料から推測できるのは、この程度です。
これ以上の考えは、根拠の無い憶測の域に入ります。

現実に有り、誰でも調べれば判るモノは、
中ノ宮北遺跡、笠間中央公園遺構、海蔵寺裏の大堀切の道路遺構が有る事。
鎌倉城の外堀に当たるイタチ川の古代遺構の発掘より大規模の鉄の精錬跡が発掘された事です。

図は、東の上道路遺構から仮想鎌倉方面赤ラインと、江ノ島方面の道の違いです。
カシバード3Dのバーチャル画像ですが、、
周囲の高みから観察するとこの図の状態の違いを実感する[ぼ輔」です。
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