鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

忘れ去られた鎌倉 手広切通し編 7

2009年09月29日 | 忘れ去られた鎌倉
緑のトンネルを抜けると、そこは日溜まりの農村!!
これでも、一応鎌倉の紹介です。
女坂とは名ばかりの急で長い坂です。
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忘れ去られた鎌倉 手広切通し編 6

2009年09月26日 | 忘れ去られた鎌倉
写真は、女坂中程(写真左)から峠(同右)までの状況です。
特異なのは大半の切通しが 峠の最高部を切通しにしていますが、、
この女坂は、麓である下部が切通しで峠は普通の山道的で手を加えてない。
麓の通過しにくい場所を切通したと考えられる。

 女坂の手広側を陰とすれば、次回は峠を越えると陽の感覚を味わえる腰越側です。
鎌倉の谷戸が面白い! 
次回の場所の様に時代から隔離された別天地であったり、個人の趣向が色濃く反映された以前は武家屋敷跡と考えられる著名人の住む谷戸とか、、
通常の都会の整備され区画された街とは異質な 画一的ではない世界が見られる魅力です。
観光客の目に触れない生活を守れる構造が谷戸にある。
さて、
谷戸の話のついでに、、、谷戸の奥に決まってあるのが崖です。
其処に家を建てた住民が作った崖でしょうか?
そんな事もありますが、、、大半は昔から有った崖!!
何の為の崖でしょうか??
鎌倉市外に向けては、鎌倉城としての、城壁に相当する崖と考えるのです。
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忘れ去られた鎌倉 手広切通し編 5

2009年09月18日 | 忘れ去られた鎌倉
写真は、女坂のその先です。
荷車の類は、無理な坂で、人馬が限界です。
オートバイで、、山坂階段を走るトライアル車なら登れますが、町乗りバイクは登れません!

手広の青蓮寺脇は比較的人目に付く切通しですが、女坂は探す気にならないと見つからない場所です。
でも、地元の人は使うようで良く手入れがされ、道が荒れた様子は無いのです。
のどかな田舎を満喫したい方に最適な1時間程度のハイキングコースです!
帰りは、、大仏や七里ガ浜を回る余裕があります。
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忘れ去られた鎌倉 手広切通し編 4

2009年09月12日 | 忘れ去られた鎌倉
手広の切通 別ルートを現地で「女坂」と呼ばれている様ですが、坂の勾配はキビシイ坂です。

特徴は「女坂」は上り口が切通しになっており、峰はナダラカで曲りが多い坂です。
青蓮寺脇の切通の方が直線的で短く勾配も楽です。
要は、「女坂は不便だから新しい坂を作った」という考えが合理的という事です。
写真は女坂登り口

鎌倉は、三方を山に囲まれ、この山を城壁に見立てた!
そう言われています。
その先を考察して欲しいのです。
城壁は何処でしょう?
敵が押し寄せる方向に兵を移動する必要があります。
その道は何処??
守る鎌倉幕府の城の概念を知った上で、攻める新田義貞の鎌倉城攻略法が理解できると考えるのです。
おそらく石垣を作らない山城としては、日本一大きな城でしょう。
けっして、三方を山に囲まれた自然の要塞、、、何ていうものではなく、、
自然なままなら、この様な低い山は簡単に攻め落とされる。

実際に起きた事は、
鎌倉軍より数倍の勢力がある新田軍が攻め寄せても落とせない城であったのです。
人工的に防御陣地として如何に工作したか!!
凄まじい防御施設を作ったのですが、、、
その辺りの概要を書いたものは少ない。
かろうじて鎌倉城は、稲村路から攻め込む事ができた。
それも、神のご加護が有ったからと、汐が引いた事を例えられている。
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忘れ去られた鎌倉 手広切通し編 3

2009年09月05日 | 忘れ去られた鎌倉
手広の切通しは、とても写真で見た目には立派な切通しです。
迫力は、写真で見る限りは凄いでしょ!
その規模は、手広は荷車一台を通す規模!
朝比奈は、大型トラックでも通れそうな規模の違いです。
この手広切通しは、、
実は、もう一つ別ルートが有ります。
このルートは、より古い道と考えられます。
その理由は、
より遠回りである。
峰の高い位置を通る。
この2点からそう考えます。

写真はその上り口です。

武蔵大路にしろ、古代東海道にしろ、、太平記や梅松論を見ると、浮かび上がるものがある。文章を見ても限界がありますが、、
文章の裏にあるものを見るのです。
前回の航空写真もその布石です。

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忘れ去られた鎌倉  番外編

2009年09月01日 | 忘れ去られた鎌倉
前回は古文書を批判の態度で扱いましたが、、
今回は古文書を肯定した形で扱って見ましょう

『鎌倉攬勝考』では、、、、「古へは深沢切通とも唱へけるといへり」。
これを肯定すると、吾妻鏡の大仏は深沢に作られたと書かれた処ですが、
現在の常盤や梶原も深沢と考える事が出来ます。
さて、
海蔵寺裏の大堀切(武蔵大路の痕跡)の西側が瓜が谷!JR北鎌倉駅の南に当たる瓜が谷ですが、
鎌倉内外を分ける境界線の場所です。
この瓜が谷に桐生六郎は居たと想定すると、、、
そこで、山之内配水池脇を乗り越えれば、そこは深沢であったと考えられます。
山之内配水池脇は、化粧坂ー葛が原岡神社ー山之内配水池ー山崎台峰の道ー天神山と続く峰通しの道!言わば鎌倉街道の幹線道路で私の記憶が間違いなければ3m幅の道路遺構を検出しています。
峰通しの道としては、鎌倉山中では破格の広い道幅が根拠で幹線と考えます。

では、「やはり桐生六郎は山の峰を乗り越えた!」っとなると峰通しの道を横切る事に成る。
そこまで、単純に考える事はしないのが、ぼ輔の考えです。
谷から峰に上がるには、切岸が邪魔をして峰には上がれない構造が鎌倉城です。
その幹線道路は重要なだけに、、瓜が谷より簡単に上ったら、即鎌倉市内に侵入される事に成る。
依って、峰通しの道を横切様な道は無いはずです。今は自動車で簡単に登れますが!
基は城壁としての機能を持つ山ですから、簡単に乗り越えられてもね、、

海蔵寺裏の大堀切の構造と、武蔵大路の痕跡と考えた時に、この3mの峰通しの道は細過ぎて武蔵大路と考えるのは無理があります。
武蔵大路が峰より低い位置を武蔵大路は通った根拠に切通しがあると考えます。

武蔵大路は、大堀切の先天神山に向け何処を通るのか?
順当に考えれば、北鎌倉女子学園の下のJR北鎌倉駅前に行くのですが、、、
その辺りの考えが情報不足状態です。
ここから先は、今は胸の内に入れたまま、、考えが纏まった時点で、、、

写真は「国土画像情報(カラー空中写真) 国土交通省を使用。
天神山ー深沢ー手広ー腰越は、江戸時代の江ノ島道。
大仏切通しとは、異質な位置関係。

薄緑のラインは、古代東海道や、鎌倉内の武蔵大路と呼ばれた場所、六浦道(古代東海道)っと思われる場所と鎌倉郡ガ跡。
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