頼朝落馬の地、「八的ヶ原」 (野﨑幸夫) 様、
コメントを読ませて頂きました。断片的には知って居ましたが、頼朝落馬の地が在ったのは初めて知りました。
史跡・天然記念物「旧相模川橋脚」
https://www.city.chigasaki.kanagawa.jp/bunka_rekishi/shiteibunkazai/1006254.html
源頼朝落馬の地
https://www.yoritomo-japan.com/yoritomo-rakuba.htm
源頼朝は、1198年(建久9年)12月27日、武蔵国稲毛(川崎市)を領していた稲毛重成が、亡き妻の冥福を祈るために行った「相模川の橋供養」に参列した。
極楽寺坂の切り開かれた時代は、
深沢(現・鎌倉市西部)にあった寺院を1259年に、北条重時が当時地獄谷と呼ばれていた極楽寺に移した。其の後に忍性(入寺は1267年)が極楽寺切通を切り開いたとされ、頼朝死後の話しです。
頼朝生前の街道として、稲村路は鎌倉市営プール後ろの崖を横切る道で馬が通るには危険が有る道と考えられる。
頼朝が通った道と考えられるのは、
古代東海道が在り、化粧坂から梶原(又は大仏切通し)、深沢、手広、大道(藤沢)、辻堂四ツ谷、平塚古代東海道痕跡より足柄峠へほゞ一直線の古代東海道(紫色のライン)と考えられ、富士の巻狩りにも使用した道です。
海岸寄りの道の詳細は不明ですが、天然記念物「旧相模川橋脚」と言う鎌倉時代と考えられる遺構がある。
古代東海道の藤沢引地川の辺りから「旧相模川橋脚」へ向かう道(赤色ライン)が分かれたと考えます。
その中間地点と考えれば、、辻堂の頼朝落馬地点の表示も矛盾がないかな? そんな事を考えました。
頼朝落馬場所については、諸説あるようですね。コメントを読ませていただくと極楽寺切通しは、時間軸が頼朝の死後という事、という事は四ツ谷→大道→手広→深沢→大佛切り通し→梶原となると進路が異なる矛盾が出てきますね。
「八的ガ原」が辻堂2丁目辺りということが何処からか「八的ガ原」という事が手掛かりになりそうです。辻堂2丁目辺りと云われ始めたのは鎌倉往還が明らかになり始めた頃からにわかに云われ始めた事だからです。
それまでは古鎌倉街道、相模川橋脚跡→鶴嶺神社→円蔵大庭景義館→元円蔵寺→六本松→赤羽根→本宿→四谷のいずこかと言い伝えられていたところ稲村路と云われ始めた所以のようです。
極楽寺切通しが頼朝亡き後の街道であれば、矛盾が発生しているところです。とただの妄想ですが.......。(笑)
リンク先20190518 京、鎌倉往還(茅ヶ崎)
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京鎌倉往還鵠沼
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ウェブサイト「いざ鎌倉」 鎌倉往還(鎌倉街道)
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