鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

世界一大きな城は何処?5

2023年11月24日 | 巨城対モンゴル

一般的な城の例外は、権力者を守る天守閣を持つ城の他に、防塁の中に町があり 総構えと呼ばれる。
初期は小田原城3.6㎢ (東西2.7㎞南北2㎞)で、その当時は日本一で在ったと考えられる。
小田原城が、ドレだけ凄かったのか? 正面から戦うには強固過ぎ城壁で、秀吉は兵糧攻めの持久戦で開城させたのです。江戸城総構え 16.6㎢(南北4.7㎞ 東西5.6㎞)
京都御土居堀は21㎢ (南北8.2㎞  東西3.5㎞)
鎌倉城は、  91.9㎢(東西16km 南北10km)
大宰府羅城  96㎢ (南北14㎞  東西10㎞)
現時点では、鎌倉城よりも大きい。そのわけは、鎌倉北の横浜山手迄、
南は横須賀の浦賀迄を考慮に入れると、鎌倉城は更に大きく成ります。

城の概念を根底から覆した鎌倉城の記事を見て、出鱈目記事だ! ナンてね、、、
地方の争いの小さな城では無く、海外国と戦えば 広大な城が必要と幕府や大和朝廷は考えた訳です。
日本城郭大系の城と 考えが根本的に違う訳です!!
そんな羅城の前例が大宰府に有り、2015年に峰の土塁を発見した事で、初めて羅城を認識した。

海外に目を向ければ、、巨大な城は
フランスパリのティエールの城は、パリ全域約80㎢を取り囲む城壁がある。
1841年から1844年にかけて造られた。

現北京城は二環の内が旧城内で、以降拡大されて三環、四環、五環が造られ、五環を出れば城外となる。
旧北京城内の二環は62.5平㎢の面積で、三環の面積は159㎞、四環の面積は302㎞、五環の面積は667㎢です。
金時代    16㎢ 城壁16㎞ 
元時代北京  56㎢ 城壁30㎞
現在の北京城は667㎢  と言う時代と伴に広がった様ですが、、、
元寇の蒙古襲来時には、元時代北京は56㎢であり、より数段大きいのが鎌倉城であった訳です。

結果は、鎌倉時代の鎌倉城は、、、同じ元時代の北京よりも大きく 世界一大きい城とも考えられます。

モットも、万里の長城が城で在るとしたら、、、二番目ですがね、、

右の地図の紫色のラインは、蒙古襲来の時に船を安全に止めやすい東京湾から攻めてくると予想し、七里ガ浜や由比ヶ浜よりも 更に強固な防備をしたと考えられるし、その範囲は浦賀より横須賀港、六浦、横浜の山手までに、切岸に相当する崖が確認できる。

そうなれば、、、鎌倉時代には 世界一の城であったと成ります。  そんな「武士の都鎌倉」を世界遺産にしようとして失敗した話が有る。

何故 世界遺産の申請に失敗したのか??  ぞれが問題です。

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世界一大きな城は何処?4

2023年11月20日 | 巨城対モンゴル

「日本城郭大系」には、多数の天守閣(本丸)を持つ城が紹介されている。
当然天守閣の無い山城も載っているのだが、城の象徴的な天守閣に目が行くと思います。
しかし天守閣は城と言う防衛施設の付属物で、本質は別です。
漢字の「城」の意味は[壁]が主体です。
「城」は土偏に成(=戊)を組み合わせた会意文字です。
「戊」は「人」と「戈」との会意で、戈は「武器としてのホコ」又は戦争の意味で防衛活動を指す。
結果は「城」の意味は、土塁を作り人が武器を持って戦う状況を示します。

一般常識の「天守閣がある城!」 と言う概念は城の本質では無い訳です。そうでないと、大宰府羅城や鎌倉城は理解できないし、、「鎌倉には城が無い!」と言う説を鎌倉市の生涯教育講座での講演を非難できないですね!

■■ 広大な羅城 空から実感 大宰府政庁をぐるり防御 ■■ 筑紫野市の市民団体
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/553104/
(2019/10/22 )筑紫野市で3年前に発見された前畑遺跡は現在、ブルーシートが
掛けられるなどしており、上空からでもその場所がはっきりと分かった。 
同遺跡は7世紀後半に築かれた水城や大野城と同じ「版築」という工法で作られた土塁。
東側を蛇行する宝満川に沿うように作られたとみられ、未解明だった羅城の「空白地」
を埋める大きな手掛かりとなった。

■■ 未だ謎の古代大宰府「防衛ライン」■■ 
https://www.sankei.com/article/20200913-FMS7MZRD7VLVXBB6MWGMHNXZCM/
(前略)前畑遺跡での土塁発見から5年。外郭線はあったのか-。 (永尾和夫)
(中略)平成27年10月、筑紫野市筑紫・若江地区にある前畑遺跡の発掘作業を続けていた
同市教委文化財課の小鹿野亮係長らは、丘陵地の尾根に沿って伸びる土塁状遺構の出土に驚いた。
「想像もしていなかった」という。
(後略)
以上のニュースより、大宰府羅城を認識したのは2015年で有った訳です。

日本に羅城が有ったと認識したのは、、、8年前だったのですね!!

 

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世界一大きな城は何処? 3

2023年11月17日 | 巨城対モンゴル

九州には大宰府と言う場所があり、元寇で博多湾に元の船が押し寄せた。
一回目の元寇で中国軍船が博多湾に押し寄せた時ですが 妨塁は無く武士は中国軍に押され水城に逃げ込んだと有る。

大宰府には、、城が在るか?
その疑問に「日本城郭大系」にどの様に答えて居るでしょうか??
水城をはじめ、大野城、基肄(きい)城 等の紹介が有ります。
しかし、太宰府羅城の話は無いと思いますが、如何??

鎌倉城でも、、、それが羅城である! なんて言う発想は皆無で、、、
藤沢、鎌倉、横浜、逗子、横須賀等の広域に切岸が在るのに、、、
鎌倉市内ですら目立つ お猿畑を調べて名越切通を城だと紹介した。その無駄に切り立つ切岸に思えるのは、近世の鎌倉石を切り出した場所と判明。
挙句は、
日本城郭大系の「お猿畑の名越切通」が単なる石切り場と証明されたら、
反動で「鎌倉には城が無い!」説を唱え 鎌倉の生涯教育講座で拡散した! 浅慮な話です。
発掘しなければ判らなかった大宰府羅城の城壁とは違い、、、
鎌倉羅城の城壁は切岸であり、調べれば発掘などせずに、、素人でも見て解ります。
切岸は樹々で隠されて判別し難いが、直下で見上げれば十分確認できます。 
調べる事もせず城は無い!なんて、、研究解明の思考が 単なる思い付き程度の考えです。
反論を期待する処ですが、、

筑紫文化財研究所
https://blog.goo.ne.jp/yuukodou/e/2755ecf1e35b9c6035a228690581c4a3

下の図は、筑紫文化財研究所掲載の大宰府羅城です。


鎌倉時代以前にレッキトシタ城が存在した訳です。
「日本城郭大系」は誤解し大宰府羅城を認識できず、、水城、大野城、基肄(きい)城を別々な城と解釈した訳です。
更に、 鎌倉城の場合は、広大な羅城の存在は 常識には無かったと解釈できます。
対外国的な戦争の城では、この様に広大な城を必要と考えたのが当時の支配者の考えた事です。

発表されたのは、2017年に第9回西海道古代官衙研究会にて「大宰府羅城と通行施設としての古代土塁について」という演題で在ったそうです。

鎌倉に城が無い! っと主張た人は、白村江の戦いを考えず、大宰府の羅城を無視し、万葉集の防人の事を調べない失態の上で、、、切岸で防御した鎌倉の城を『戦の構造物は無く、単なる鎌倉幕府の住居である! なんて言う考え方を披露した訳です。判断を誤りと言うより、事前調査をしない研究者としての手抜きと、古文書を熟読しない歴史的な考察の欠如等、、要は現代の鎌倉研究本の良いトコ取りをした机上論です。

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世界一大きな城は何処?2

2023年06月02日 | 巨城対モンゴル

江戸城の話です。通常は下の図を江戸城と考えると思います。

天守閣がお城と考えるのは、筋が違います。天守は権力を誇示する為の建築で、そこ迄攻められたら中で自決する為の時間稼ぎの場所です。

外敵が襲ってきた時に防禦する堀や壁(土塁)に囲まれた範囲が古来よりの城です。その想定で江戸城を考えると、、、

上図を見ると、、、

江戸の下町迄堀が囲い巻貝を連想する構造です。

外堀の防御に対し、、一番攻めやすい場所が芝口見付けと考えられますが、その脇には「浜大手門」現在の浜離宮が有ります。品川、銀座と攻め入り、城の周囲を一周して虎ノ門、日比谷に行き着き江戸城の核心を攻撃できる訳です。

上掲載の古地図はWikipediaより引用。

 

上のgoogle地図より、
江戸城総構えの面積は 16.6㎢
外堀の距離は 16km
南北4.7㎞  東西5.6㎞
と言う規模の巨大な城です。Wikipediaの理屈で考えれば世界一ですが、、、

京都では、羅城門なんて言う話はありますが、外部から攻められた時にその羅城で戦った話は無く、常に京都市内の屋敷に踏み込まれた話となる。
実質は羅城が無いと考えていましたが、江戸時代前に、羅城が造られていた。
その京都の羅城の名は御土居堀で、
御土居堀の面積 21㎢
御土居堀の距離 21㎞
南北8.2㎞  東西3.5㎞
このデータは、江戸城より大きい訳です。

更に古い鎌倉城はモット大きい城で在る訳です。
しかし、これ等の城が城郭資料に無いのは何故???
単なる「天守閣が無いから!」程度の理屈でしょうね!


城の本質を理解しない城郭研究者の為せる技と考えています。
それだけではなく、余りの広さに調べきれない! 何て言うのもアリかな??
場合によっては、、
鎌倉時代には世界一若しくは二を争う巨大な城と考えられます。
日本には、、更に巨大な羅城が在ったが、、、城郭研究者は調べようとしなかった。

 

その名は??

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世界一大きな城は何処?

2023年05月12日 | 巨城対モンゴル

このタイトルの意味は、、、
鎌倉城が世界のベスト10に入る規模の大きな城と思えるからです。

Googleで「世界一の城」と探すと、
一位 マルボルク城(0.14㎢)ポーランド
二位 メヘラーガル城塞(0.081㎢)インド 
三位 プラハ城(0.066㎢)チェコ 
四位 ウィンザー城(0.054㎢)イギリス
    等と表示されますが、、
上記の順位は権力者が自身の身を守る為の城と考えられます。
守る主体は何か?の問題です。
守る種類は、権力者、一般の住人、街等の構造物、土地、生活空間等があります。

日本の城は、権力者の命と身分を守る城と考えられます。
自分の屋敷=天守閣=権力の誇示
結果は 城=立派な天守閣 っと言うイメージが有ると思います。
しかし、城を趣味にする人は天守閣に目が行くし、権威を示す見た目が重要と成る。
その様に設計されたのが日本の城です。
城の目的は『外敵から身を守る為のモノ!』が本筋考えとすれば、
天守閣は防禦の本質を外した添え物となります。天守を囲まれたら、それは負け戦で、城主が自決をする為の、時間稼ぎの建築物に過ぎない。

鎌倉城は、権力者の保身の城では無く、日本と言う国の人民とその生活を含めた存亡を賭けた城です。

地図中の赤い面積は91.9㎢の広さと示されこれが鎌倉城の規模で、 世界一大きいと称するマルボルク城(0.14㎢)等問題外です。

鎌倉城は東西16km 南北10kmの大きさです。

世界には鎌倉城に並ぶ規模の城は有り、日本では江戸城が肩を並べますが、、、その紹介は次回へ!

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鎌倉城と蒙古襲来 8

2019年01月17日 | 巨城対モンゴル
投稿日時:2017-07-01 09:15:57 修正2019-01-16
 国土地理院の全国傾斜量区分図を参照しましよう。
甘縄神明宮、日本文学館等の在る見越しの嶽を見た図です。
この峰の部分は緑色に塗ってあります。

急激な傾斜の部分は赤くなっています。
私が画像を操作する事も無く、国土地理院の資料を見れば即、、急激な傾斜で緑の峰上には登れな事が理解できると思います。
他の峰も同様です。鎌倉の全山も人工的に手を加えた訳で、決して「自然の要害」では無い上に、、
海上から由比ヶ浜に押し寄せた敵に対応する砦構造が鎌倉市街側に存在します。
ですから、、、
三方を山に囲まれて「鎌倉は要害の地!」そんな発想は消えて、蒙古せん滅の為ならば、、「都を捨ててでも日本を守る!」
   その様な幕府の考えと私は理解します。

鎌倉幕府は、博多湾に20㎞に及ぶ「元寇防提」を作らせた!関西の武士にそれを押し付け、関東の武士がそれを手助けした記録が無い!
関東の武士がその時期に何をシテイタかの記録も無い。
記録が無いから、何もしなかった??
古文献を探し、書いてなければ何も触れないのが机上論の研究者だが、
このブログでは、古文献が無ければ遺構に語らせる!のが趣旨です。
巨大な鎌倉城の遺構を根拠に「その時期に関東武士は、巨大な鎌倉城を作っていた!」っと結論をします。
恐らく、
関東の武士の記録は、新田義貞鎌倉攻めで灰となり、九州の記録は残った。
その様に私は考える。



各自興味を持った場所を調べて頂ければ幸いです。
組織で調べても、巨大過ぎる遺構です。
個人で調べれば、貴方がその場所に一番詳しい人に成ります。
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鎌倉城と蒙古襲来9

2018年09月11日 | 巨城対モンゴル
投稿日時:2017年06月22日
元寇は、鎌倉幕府に遠く離れた地方の出来事ではなく、、
鎌倉に外国の軍隊が攻め込んで来る! そんな緊急で危機感の有る話なのです。
鎌倉に元の軍隊が押し寄せる!、、、幕府は如何に対処したのか!!
その様な「当たり前の想定」に対して、歴史書は何も答えが無い。
1276年、鎌倉幕府は博多湾に石塁を築くよう命じた
元の勅使を斬首して半年後です。
石塁を築いたのは、関西の武士で作り上げた。関東の武士の話は無い。
関東の武士は、この非常時に何をやっていたのか?歴史書も古文献にも答えは無い。
鎌倉現地を観察すれば、巨大な元寇対策と思える要塞が存在する。
  外国からの脅威は鎌倉以前にもあり、
663年に白村江の敗戦後、唐の侵攻対策に大宰府を守る水城を作った。
博多湾の対中国防衛のため全国から兵を集めて常駐させたのを防人と言う。
防人に関しては「万葉集」に痕跡を認め900年頃まで存続した様である。
667年、防衛上の為、飛鳥の宮都から近江大津宮に遷都をしたそうである。
博多湾や大宰府だけの問題ではなく、大和朝廷を揺るがす問題でした。
言葉を変えると、
博多湾や大宰府だけの問題ではなく、鎌倉幕府を揺るがす問題です。
実際に中国から大群が押し寄せたのです。


1度目の蒙古襲来文である文永の役の翌年に
元の使節5人は山口県下関市に上陸。一行は捕えられ大宰府から鎌倉へ護送された。
1275年9月27日、執権北条時宗は元使一行を竜ノ口(龍口寺)にて斬首。
遺体は、龍口寺の裏の常立寺へ葬られ、元使塚が作られている。

 常立寺 元使塚、 現在も白鳳、朝青龍らモンゴル力士が毎年参拝に来る。
杜世忠らの供養搭。五輪塔には、モンゴルで「英雄」を意味する青い布が巻かれている。

1280年 合浦から出撃した東路軍4万と、明州から出撃した江南軍10万が、壱岐で合流して日本に侵攻するという作戦が決定となる。

九条兼実の「玉葉」において鎌倉城という表現があるが、
『兼実が現地鎌倉の様子を知るはずもなく、玉葉をよく読んでみると都城という意味で使用している』。そんな解釈をした方が居ます。
根拠として確実ではなく「私はそう思う。」と言う曖昧な考えです。
そんな曖昧な根拠で「鎌倉には城が無い!」っと成った訳です。
精神的な安らぎを得る為に城を作ったと主張されているが、、、大間違いでしょ??
文献に頼った研究発表が通用する事態でなく、現に中国から船団が押し寄せ武士を水城まで追い詰める武力を示した!
それに対し、中国に白旗を振るか?徹底抗戦にするのか??
その選択を迫られたのが鎌倉幕府です。

日蓮が、鎌倉幕府に対し『法華経を帰依せず、邪宗を信仰すれば、国難が生じて国が滅ぶ!』と精神論を展開した。
  結果は、
南宋より招いた道隆から元の情報を得て元寇対策を行った。
日蓮の「国難が生じて国が滅ぶ」と言う主張は崩れ去り、神風が吹いて元寇の軍団は海に飲まれ消滅した。
神風が吹いたとは言え、精神論では元寇には立ち迎うのは困難と言う訳です。
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鎌倉城と蒙古襲来 7

2017年03月19日 | 巨城対モンゴル



 この二枚は、由比ガ浜より見越しの嶽を見た図です。
 甘縄神明宮、日本文学館等の在る山です。
 上の地表だけのバーチャル3D地図と、樹木と家に遮られた山の比較をしました。
 人工的に削られた山肌は、樹木に隠されて判らない。
 これが、鎌倉城を理解する時の困難と障害です。
 既存の山城の解説書に書かれた知識で鎌倉城を見ないでください。
 山城の原点が鎌倉城ですから!


私の鎌倉に関してのデーターは、、、
鎌倉について、小学生の頃より自転車で鎌倉、玉縄を走り回り、十代は金沢八景、朝比奈、大仏、化粧坂等の切通を走り、20代は鎌倉の海で遊び、60年間鎌倉に関わった情報の集積ですが、、、
マトメルに当たり、色々な本を読んで納得したり、異論が有るのを承知で私の見聞きした根拠を優先して書かれたモノです。
本を書かれた著者よりも私の情報の方が深く知っていたり、他との関連から私の情報が矛盾しない事が多いので、衆知された常識は無視してこのブログを書いています。
そんな訳で、反論が有っても当然と思っています。
情報は有っても、それをマトメて結論を出すには、一段深い詳細が必要になる。
 決定的に調査不足で、結論を出せる一部の情報を概略で書いているにすぎません。
更に、、詳細な資料をお持ちの方は、このブログに書かれた間違えを指摘できるものと思います。
ご遠慮なく、反論のコメントを下さい。
意見の交換が困難な方も居られますが、矛盾に満ちたり 文章を理解できない人のコメントは、非公開にさせていただきます。
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鎌倉城と蒙古襲来 6

2017年03月18日 | 巨城対モンゴル

  上は、地表の凹凸をリアルに表した見越し嶽の3D地図です。

  上の地表だけのバーチャル3D地図と、樹木と家に遮られた山のBing概観図です。
  樹木に覆われ、建築に塞がれて砦遺構の観察は出来ない。
  更に、別次元に巨大な城は 城郭専門家には、本丸も曲輪も堀も土塁も無い山
  にしか見えない!

鎌倉幕府滅亡の後、鎌倉で数度の戦いが有りました。
当然、一氏族の人数で守るのは無理な巨大な鎌倉城です。
鎌倉市内の武家屋敷は、三方を山に囲まれ、他の一方は、段として土塁が築かれた地形をしている。
武家屋敷自体が攻撃を受ける想定で造られている砦です。
古文献を読めば、その攻防は武家屋敷での攻防で有り、鎌倉城の攻防では無い
 これを間違えて、鎌倉城での攻防と判断した研究者が居る。文献を知らないのか?文献の読解能力に問題があるのか? 誤解をしているわけですが、、、
「新田義貞鎌倉攻め」の七口を結ぶ城郭とは別の市内の武家屋敷で起きた戦いです。
資料が無く、文献の解釈等の問題を抱え憶測で出した結論と考えています。
詳細は、
当ブログ「■日本城郭大系1」
http://blog.goo.ne.jp/mementosmori/e/ea7114b3d3fa9c738378c6683dfe5e67
を参照ください。

[日本城郭大系1]に書かれた鎌倉城は、後年に名越の大切岸は石切り場痕跡と判明する失態でした。
発刊後 この記事が尾を引いて、数十年後には「鎌倉に城は無い!」話しにまで発展した。
鎌倉の歴史を、大きく歪曲させた記事の原点が[日本城郭大系]の鎌倉城の記事でした。
現在、鎌倉城について書かれた研究書の大半は、同様な問題点を抱えている。
結局『調査範囲が広くて資料を集められない! よって結論を出せない。』
日本城郭大系を 批判した著書の結論も「結論を出す資料が不足し憶測が入り込む!」
現地を調べず資料も無く、机上の考えで結論を出したら、、、[日本城郭大系]の二の舞の過ちを犯す訳です。
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鎌倉城と蒙古襲来5

2017年03月13日 | 巨城対モンゴル

   鎌倉市内に向けた切岸の例
   (中央にある峰は、見越しヶ嶽と言われる鎌倉文学館の在る峰)
鎌倉城は、国内の勢力争いに使う目的では、大きすぎる。
国中の兵士が終結し、砦に配置されて機能する城です。
この様に巨大な城郭が有りながら、調査も無く資料も無い。
地方の氏族が勢力争いで造ったローカルで小規模の城跡が総て(日本城郭大系で書かれたモノについて、)ですから、
専門的に調べる研究者程、この鎌倉の巨大な城郭は想像外で有った訳です。
最大の城は、江戸城と考えています。
江戸城でも、国内の勢力を抑える城で、外国へ向けた城では無い。
良く解釈して、七口を結んだラインが城と解釈されている。

元寇と呼ばれる世界最大の国が日本を攻めて来た。
当然それに対抗するのは、世界的巨大な城が必要となる。
鎌倉城がそれ程大きい城とは誰も考えなかった。

『吾妻鏡』で千葉介常胤は、
『当時の御居所はさしたる、要害な地にあらず、また、御嚢跡(先祖由縁の地)にもあらず。速やかに、相模国鎌倉に出てしめ給う可し』と勧めたと言います。
この言葉の暗示は現代まで生続け常識となっている。
現実の遺構を見ないで、文献に頼った机上論が現代まで続いている訳です
更に、
白村江で敗戦し、唐・新羅軍の脅威から水城を造り、国を挙げて防衛を考えた。
万葉集に防人の歌が有り、鎌倉からも防人に九州まで出向いた訳です。
この様に鎌倉以前に大宰府に前例が在ります。

九条兼実が日記『玉葉』の中で源頼朝の本拠地を「鎌倉城」と記している件でを研究され
 城=戦闘用ではなく、住居であると解釈する話がある。
平安の時代以前から在る大宰府を守る水城は無視して結論は出された。
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鎌倉城と蒙古襲来 4

2017年03月06日 | 巨城対モンゴル

鎌倉城の範囲をピンク色のラインで囲みました。
「コメントより 3」に投稿されたコメントですが、、、
> (英)さん 
> (個人的には、初期の記事から貫かれていた、
> 頼朝による大規模な地形改変の話との整合性は気になりますが。)

頼朝時代にも要害遺構が有ったと考えますが、、、
対国内向けには、東海道や東山道の出入り口を塞ぎ、七口を囲む程度の城郭で事が足りたと思います。
新田義貞を迎え撃つ体制の時は、洲崎で戦ったとの話ですが、守勢に入った途端七口の防衛ラインに後退した。
「イザ!鎌倉。」の言葉の様に、七口の防衛ラインだけでも、巨大な城であり関東一円の武士が集まらないと守れない大きさです。(この時点で鎌倉城は元寇対策という考えは、ぼ輔に全く無かった訳です。)
現在の遺構は更に上回る土木工作をされた元寇対策の城遺構であり、頼朝時代の遺構はこの時点で大幅に改造され、頼朝時代の城郭痕跡は消えたと考えています。
 頼朝時代にも要害遺構が有る と考えれば堰水橋から化粧坂に向かう途中の北鎌倉女子高のグランド上の土橋や、海蔵寺裏の大堀切の土橋等が考えられる。

不思議に思うのは、鎌倉の要害遺構の学術的調査をされていながら、、これ等の要害遺構の資料を無視して、、
何故? 「鎌倉には城が無い!」説がマカリ通ったのでしょうか??
更に、知っている者が何故反論をしないのでしょうか?
恐らく、、学者達に既知の戦国時代から江戸時代迄の城のイメージが有り、鎌倉の部分的な要害遺構が鎌倉の街を守り、「一貫した考えの巨大な城郭」とは考えていない結果だと想像します。
更に
鎌倉を守るのが七口の防衛ラインですが、元寇対策を考えた時、
三方の山と一方の海で守られているハズの海が、元寇が押し寄せる通り道となった訳ですから、、、
由比ガ浜に作った防衛遺構(鎌倉石で造られた石築地)が破れた時の対策で、
「鎌倉の街は守りを放棄して、」
それでも、元寇を打破するのが戦いという訳で鎌倉の街に向けた切岸は、この時点で造られたと考えるのです。
要害遺構の学術的調査をされていながら、反論しない元は、鎌倉の切岸を調べた資料が無い為です。資料が無ければ城郭遺構の全容は解らない訳で、何も言えないのが真面目な学者ですから。
それ以前の時代は、平安京,平城京伴にこの様な防衛遺構は無かったので日本史上初と言いたいが、
前例が有り、朝鮮半島の白村江で大敗した日本軍は、唐・新羅連合軍が日本を襲う事を恐れ、大宰府を守る水城を造った例が有ります。
負け戦の恐怖が 水城を造る動機で、元寇の時は水城に鎌倉幕府軍が逃げ込み、水城を造ってから600年後に役に立った訳です。
部外者には、根拠不明な理屈が多くて理解できない考古学の世界です
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鎌倉城と蒙古襲来 3.5

2017年03月04日 | 巨城対モンゴル

  上図は 防衛施設が掘り出された海浜公園駐車場の場所。
鎌倉の歴史は現在の考古学で収まる程、浅くないと言う事です。
なぜなら、
学術的な欠点=根拠が弱く、憶測で出された結論 を抱えた学説が多くを占めています。
歴史は人間の生活した総合的痕跡です。それを、特定分野に限定して解析し研究するので、他の大事な要素を知らず、間違った結論をだす。それが今流の専門家ですが、、、専門に特化した分は偏った情報しか集まらない。

偏った情報で議論をしても、全体像は見えない。その上 文献は少なく発掘部位も限られて概要を語るだけの情報量が無い。
鎌倉の歴史を語るに専門家の必要は無い。より多く楽しんで鎌倉を見ればよい。
情報が集まれば、専門家並みの視点は持つことが出来ると思います。
専門家は専門分野の偏った情報で、全体像を知っている訳では無い。

文献由来の知識で机上論を作っても、
生活実感を持って鎌倉を見て楽しめば、広い物の見方ができる。
一つ々は浅くても、全体を見渡せる情報の方が大事な知識と思います。

文献や頭で考えた実感の無い理論より、現物を見た実感の在る情報の方が絶対的な情報量が多い訳です。問題は、その情報をドレダケ広い視野でマトメルかと言うことです。
自分の実感がまず第一です。彼方此方を見ていくうちに、自然と視野は広がる。自身の物の見方考え方も成長する。
それができると、
既成の常識では、理屈が合わない場所が見えてくる。
早い話が、常識の嘘です。
文献に書かれた事など、微々たる情報に過ぎない。
鎌倉周囲の山は、鎌倉武士が手を加えた切岸で、見るべき物は無数にある。
切岸の下は、削った土砂を平らにした土地です。畑や宅地に好都合ですから、当然家が造られ、切岸の痕跡判らない場合が多い。表通りから家の裏庭を覗くと見るべき物が有ります。

鎌倉幕府の力で奪い取った権力は、力で奪い取られ恐怖が付きまとう。
秩序の上に立つ者からの仕返しを恐れて造ったのが初期の鎌倉城であり、他国の力を恐れて対抗した城が、現在の鎌倉城郭と考えています。

「木を見て森を見ない」ではなく、
「木を見て、森を見ても、、森全体が見えない!」意識して見ようとしても、広大過ぎて全体見るのは困難な大鎌倉城です。
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鎌倉城と蒙古襲来 3

2017年02月21日 | 巨城対モンゴル

    京浜急行「金沢八景駅」脇の切岸痕跡。
1281年5月。元軍は二手に分かれ日本に向かう。東路軍4万人と江南軍10万人です。
台風により、全面戦争には成らず、神風が吹いた!と言われた。
元寇が実際に在り、対抗する為に鎌倉に巨大な城を造った理由です。
更に言えば、関東の武士が元寇の為に九州に向かう形跡も無い訳です。
その前の時代は、防人と言う制度が有り、鎌倉からも行く話がある。
■ 記 2007年09月10日 奈良時代の文献 1
http://blog.goo.ne.jp/mementosmori/e/642827a399e4ebf4123baa19c54ed7a5
〉奈良時代の希少な文献で、万葉集というのが有ります。
〉地方から、大和国防衛軍として九州に旅発つ人が歌を詠む
〉そんな防人の歌が多く載った本です。
〉その中に鎌倉で詠まれたモノがあり 問題にしたい歌の紹介です。

〉本文: 可麻久良乃、美胡之能佐吉能、伊波久叡乃、伎美我久由倍伎、己許呂波母多自、
〉読み: かまくらの  みこしのさきの   いわくえの   きみがくゆべき  こころはもたじ
その前の時代は、九州が決戦の場であり、大宰府を守る為に水城が有った訳です。

鎌倉時代に成り、元寇では 何故関東武士は、九州で待機しなかったのか??他国に日本が侵略される一大事です。
何故関東武士は九州に行かなかったのか?
その答えは「鎌倉を決戦の場と考えていた」というのが、
鎌倉の巨大過ぎる城郭遺構を根拠にした私の推測です。
文献は無いが、巨大な城郭遺構が残り、調査もされずに宅地化等で消失しつつある。

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鎌倉城と蒙古襲来2

2017年02月17日 | 巨城対モンゴル

 片瀬の龍口寺から金沢八景まで、、、鎌倉城の可能性を考えます。
素朴な疑問さんのコメントのお陰で、、、
鎌倉石を使った土塁が存在し、元寇防塁相当なものが有り、、、
異常に防御的な海側に出入り口の有る屋敷の存在を文書から確認できました。
それらの造られた年代が今回のテーマです。

「有隣」平成15年9月10日 第430号
〉13世紀の後半期には、山稜部に要害遺構もつくられ、
〉由比ヶ浜南遺跡の大規模な建物も建てられた。

頼朝が鎌倉に入るときに、要害の地として築いたの
ではなくて、もっと時代が下がった13世紀の後半に
〉なって初めて鎌倉の山に人工的な手を加えて、要害
〉遺構をつくったということが、今回わかったわけで
〉す。

この文面には、何度も「要害遺構が山稜部につくられたのは13世紀後半!」と書かれている。
具体的には西暦1250年から1300年の間と言う事です。
元寇の年は、文永の役が1274年と言う訳ですから、、年代的にも整合します。

この年代に、
  山稜部が要塞化の工作がされた。
  海には「異様に防御的に造られた生活臭のない屋敷」が作られた。
  屋敷の東と西には鎌倉石を使った大規模な土塁か築地があります。
これで、一応は鎌倉の街を守る防備準備は出来た訳ですが、、、
海の防備が破られた時には、街の内側にある切岸が次の防衛ラインに成る訳です。
鎌倉市街に向けた崖は、住宅用の平地確保の為ではなく、切岸であり、峰に登らせない為の一貫した工作が峰の内側(鎌倉市街地に向き。)にされているのが根拠です。
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コメントより 3

2017年02月09日 | 巨城対モンゴル
意見交換をするには、前提が有ります。
今回は下記の「有隣」の記事を読んだ事が前提に成ります。

> 有鄰 平成15年9月10日  第430号
> ○座談会 中世鎌倉の発掘 (1)  仏法寺跡と由比ヶ浜南遺跡をめぐって
> http://www.yurindo.co.jp/static/yurin/back/430_2.html
> 
> ○座談会 中世鎌倉の発掘 (2)  仏法寺跡と由比ヶ浜南遺跡をめぐって
> http://www.yurindo.co.jp/static/yurin/back/430_3.html
> 
> ○座談会 中世鎌倉の発掘 (3)  仏法寺跡と由比ヶ浜南遺跡をめぐって
> http://www.yurindo.co.jp/static/yurin/back/430_4.html


■ごめんなさい、意味が分かりません。 (素朴な疑問)
■2017-02-07 20:09:43
■「有隣」の記事は、極楽寺坂切通し周辺の防衛遺跡を取り扱ったものです。
■しかも、土塁で囲まれた施設と明示してます。
■これは、博多湾の防塁とは完全に異なるものです。
■いう間でもないことですが、博多湾や長崎には遺構がちゃんと残っとています。
■つまり、もともと鎌倉には元寇に備えた防塁など存在しないのです。
■もうお分かりなように、元寇に備えた鎌倉城なるものも存在しません。あなたの幻ですw

■このコメントに対し私の考える事は、、、、
「有隣」の記事を見たのでしょうが、、、「全くご理解をされてない。」
通常は 文を読むことは、書かれた事を理解するために書き手の気持ちを汲みながら読む訳です。
「極楽寺坂切通し周辺の防衛遺跡を取り扱ったもの」と断じる偏った読み方をされている。
何が間違いか?
この記事の主題は「仏法寺跡」でして、極楽寺坂ではありません。
もう一つの間違えは、
この記事の主題は「由比ヶ浜南遺跡をめぐって」です。
コメントの「土塁で囲まれた施設と明示してます。」と言うのは、由比ヶ浜南遺跡の一部です。

最大な間違えは、「博多湾や長崎には遺構がちゃんと残っとています。」ですが、、、
鎌倉でもチャンと残っていたから由比ヶ浜南遺跡に記録された訳です。

意見交換に必要な事は、
有鄰の『記事を見た!』ではなく、『記事を読んで理解した!』事が前提です。
先ずは、再度 有鄰を見て理解してください。大人の意見交換に必要な最低限の事です。
自分の意見が出来上がるまで、何年でもお待ちします。この件に関してはこれにて話を打ち切ります。
コメント (11)
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