飛鳥から奈良時代に作られたと考えられる「東山道武蔵路」は武蔵国衙が終着点と思われており、武蔵国衙の為に作られたので「東山道武蔵路」と命名されているが、「武蔵国衙の為に作られた」っという根拠は無い。
図の赤いラインは新田郡衙より、鎌倉へ向けた直線です。
直線上に、新野脇屋遺跡群や東の上遺跡があり、道路遺構が鎌倉に向けて道を作った説の根拠です。天台山は鎌倉で最高峰の山ですが、場合によっては、六国見山辺りでしょうか、、
これが、初期の東山道武蔵路造成計画であったと考えるのです。
鎌倉は、東山道と東海道を重複するさせる程の重要拠点であったと考えられる訳です。
赤いライン上に作られた道は東の上遺跡迄で、其処から先は急に角度を変え江ノ島へ向けた黄色いラインとなる。(急に角度を変えた理由は「古代 7」を参照)
道路幅とラインの方向(直進性)等が鎌倉迄同じで、武蔵路と同じ道と考えるのが合理的です。
黄色いラインが実際に作られた駅路で、当初から鎌倉に向けて作ったと考えられますから、東山道相模路という訳です。
平安時代には、更なる平坦な道を求めたのか?座間や海老名に重要な施設が有り迂回したのか?進路を変えて神奈川県の海老名国分寺を通る道となり、野津田の道路遺構(鎌倉街道伝説に詳細あり)鎌倉時代の初期は「唐糸草紙」にその道筋の記載があり、奥州往還とも言われ桃色ライン上に奥州で討ち取られた源義経の首を運び首実検をした白旗神社は在る。
武蔵大路とも、中の道、上の道とも、、、確たる道筋不明のまま幾つも鎌倉街道が存在し、名は有るが、道筋を特定するには根拠が弱く諸説ある。
これらの鎌倉街道の根底には前の時代に在った武蔵国衙より鎌倉へ向けた東山道相模路の存在が色濃く影響していると考えられ、神奈川県では大道消去の脇に細い鎌倉街道が在る事例が多い。
大道の調査や文献は無い様子で、鎌倉市内に武蔵大路の地名は有るが、経路の記述は無い。
大道の痕跡は、巨大で簡単には消せないので、調べれば判るのでしょうが、、、 研究対象に無い様で痕跡の話は無い。
鎌倉時代の初期に御伽噺「唐糸草紙」の主人公が通った道は、桃色ラインの道です。
唐糸は藤沢の立石近くから江ノ島に向かいますが、それ以前の時代は、立石より直接鎌倉に向かったと考える道が今回書き加えた「赤色破線」です。
その経路は、立石より、東俣野、関谷、玉縄城南脇、天神山脇、倉久保の谷、化粧坂と遺構から考えています。
ここで「化粧坂」という名前が太平記に書かれており、座間からの東山道相模路の関連が浮かび上がります。武蔵大路を守る大将の赤橋の意図が表れる!攻める新田郡は、武蔵大路に陣を張る赤橋を倒さないと、武蔵大路から化粧坂へ兵を進める事が出来なかった訳です。(梅松論より :武蔵路は相摸守守時(=赤橋氏)、すさき千代塚において合戦を致しけるが、是もうち負けて一足も退かず自害す。)