鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

東山道相模路 10

2012年11月28日 | 東山道~鎌倉

飛鳥から奈良時代に作られたと考えられる「東山道武蔵路」は武蔵国衙が終着点と思われており、武蔵国衙の為に作られたので「東山道武蔵路」と命名されているが、「武蔵国衙の為に作られた」っという根拠は無い。

図の赤いラインは新田郡衙より、鎌倉へ向けた直線です。
直線上に、新野脇屋遺跡群や東の上遺跡があり、道路遺構が鎌倉に向けて道を作った説の根拠です。天台山は鎌倉で最高峰の山ですが、場合によっては、六国見山辺りでしょうか、、
これが、初期の東山道武蔵路造成計画であったと考えるのです。
鎌倉は、東山道と東海道を重複するさせる程の重要拠点であったと考えられる訳です。

赤いライン上に作られた道は東の上遺跡迄で、其処から先は急に角度を変え江ノ島へ向けた黄色いラインとなる。(急に角度を変えた理由は「古代 7」を参照)
道路幅とラインの方向(直進性)等が鎌倉迄同じで、武蔵路と同じ道と考えるのが合理的です。
 黄色いラインが実際に作られた駅路で、当初から鎌倉に向けて作ったと考えられますから、東山道相模路という訳です。

平安時代には、更なる平坦な道を求めたのか?座間や海老名に重要な施設が有り迂回したのか?進路を変えて神奈川県の海老名国分寺を通る道となり、野津田の道路遺構(鎌倉街道伝説に詳細あり)鎌倉時代の初期は「唐糸草紙」にその道筋の記載があり、奥州往還とも言われ桃色ライン上に奥州で討ち取られた源義経の首を運び首実検をした白旗神社は在る。
武蔵大路とも、中の道、上の道とも、、、確たる道筋不明のまま幾つも鎌倉街道が存在し、名は有るが、道筋を特定するには根拠が弱く諸説ある。
これらの鎌倉街道の根底には前の時代に在った武蔵国衙より鎌倉へ向けた東山道相模路の存在が色濃く影響していると考えられ、神奈川県では大道消去の脇に細い鎌倉街道が在る事例が多い。
大道の調査や文献は無い様子で、鎌倉市内に武蔵大路の地名は有るが、経路の記述は無い。
大道の痕跡は、巨大で簡単には消せないので、調べれば判るのでしょうが、、、 研究対象に無い様で痕跡の話は無い。
鎌倉時代の初期に御伽噺「唐糸草紙」の主人公が通った道は、桃色ラインの道です。
唐糸は藤沢の立石近くから江ノ島に向かいますが、それ以前の時代は、立石より直接鎌倉に向かったと考える道が今回書き加えた「赤色破線」です。
その経路は、立石より、東俣野、関谷、玉縄城南脇、天神山脇、倉久保の谷、化粧坂と遺構から考えています。
ここで「化粧坂」という名前が太平記に書かれており、座間からの東山道相模路の関連が浮かび上がります。武蔵大路を守る大将の赤橋の意図が表れる!攻める新田郡は、武蔵大路に陣を張る赤橋を倒さないと、武蔵大路から化粧坂へ兵を進める事が出来なかった訳です。(梅松論より :武蔵路は相摸守守時(=赤橋氏)、すさき千代塚において合戦を致しけるが、是もうち負けて一足も退かず自害す。)

 

 

 

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大鎌倉城 7 日本最大の城

2012年11月19日 | 大鎌倉城
大鎌倉城の巻 終り
日本で最大の城!  (2012-11-19 10:11:15記)
それが鎌倉城ですが、その実態と全体像を把握している人や書物を私は知らない。
鎌倉城の縄張り図が無いことから、研究されて無いと推測できる。
(七口の峰を繋げて鎌倉城とした地図は在るが、調査不足の研究です。)
 
鎌倉の七口の切通しを結んだ距離は14km 面積14.平方km(紫色のライン内)であり、
江戸城内堀の 距離は 5Km 面積 2.2平方km っと桁外れのに鎌倉城は大きい。
比較に良いのは、江戸城の外堀の距離は15.8Km 面積17平方kmこれだと同じ程度ですが、
その外堀の範囲は、築地市場、浅草、秋葉原、水道橋、市ヶ谷、四谷、赤坂、虎ノ門、築地市場となり、鎌倉城の切通し内側が同じ規模と思えばよい。
 
その様な巨大な遺構を、個人で調べるのは困難です。
鎌倉市・逗子市の世界遺産登録推進委員会 でも、、、調査の痕跡は無い。
私??鎌倉に関わり興味を持って楽しんで60年近く、未だ一割も見ていません。
やっと、ボヤケタ全体を想い浮かべる程度です。
とは言え、部分的には語れるモノが在る訳です。
 
鎌倉城の実際の戦う砦の遺構は、鎌倉の七口切通し外に在る峰であり、凡その囲んだ距離は24Km 面積34平方kmの範囲を考える必要がある。(赤色のライン内)
実戦で新田軍と激戦に成ったのは、州崎で待ち構えた鎌倉軍で在ったのは周知の事で、化粧坂より西に2kmの場所でした。
その事実を無視して、戦う砦構造を七口の切通しに探しても砦の極く一部であり、大半の部分が切通しの外側の峰にある。
切通し=城 の考えは鎌倉の詳細を知らないから考えられる発想でしょうね、、、
余りの広大さに、調べろっと言っても、短期間には無理ですが、、、
切通しに寄せ付けない為に、敵軍を追い払う砦が外の峰に在る事を考慮せずに鎌倉城を語る文献ばかりです。
外の峰に在る事は、大仏切通を調べれば理解できる話です。
鎌倉に「城がある!派」でも、「城は無い!派」でも、鎌倉の全体を語る人物や文献を見た事がありません。
それ以前に、鎌倉の切岸全体を、学術的に調査した痕跡すら無いのです。
その城壁を証明する文献は、新田義貞が小袋、亀ヶ谷、化粧坂、極楽寺の各切通を攻めたが鎌倉の数倍の兵力でも打ち破る事は出来なかった事実です。
 
城郭巡りの趣味を持つ方は、この鎌倉城を見ても、城とは気が付かないでしょう。
あまりにも巨大すぎて、後世の城の常識を外した規模の砦であり、その砦が七口の外側に峰の数だけ存在するわけです。下調べをしない限り常識的な山城の範囲を超えおり、認識できないのです。
私は、アマリの広大さと歴史の古さに調べれば調べる程、全体が見えない状態と調査不足の無力さを感じます。
「それにしては、よく書くジャン!」と言われるでしょうが、色々見聞きし考えた中で、突っ込まれても、返答出来る範囲のごく一部なのです。
 
参考までに、
小田原城の総構えや、大阪城の外堀の範囲でも江戸の内堀と同じ大きさと言われている。
 
地図は、
紫部分が切通しを結ぶライン。赤い部分と紫の間が砦部分です。それを砦として調べた文献を見た事がありません。
私は、文献を頼りにしてない為の弱点があるので、その手の文献や情報をご存知でしたらお知らせ下さい。
コメント (3)
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大鎌倉城6 弱点を考える。

2012年11月06日 | 大鎌倉城
そんなに強固な城に弱点は有ったのか?
それが、、有りなんで稲村路が通れたのです。
その上で、干潟が加勢したと考えられるのです。
その弱点とは、、

絶対的な守備の優位を追求するあまり、、峯の最上部に兵を配置し、平地より峯に上がる迄の間に曲輪(平地の敵を攻撃できる高さに平場を作る)が無く、後世では曲輪を作って平地の敵を攻撃しますが、守備位置から平地を攻撃出来ない!
守備位置の峯の位置が高くて、平地の敵兵を攻撃するには距離が遠すぎる構造です。
その為、極楽寺切通しの偵察に針摺橋で睨み合いが成り立ったと考えるのです。

その結果、
> 太平記(国民文庫)より抜粋<http://www.j-texts.com/taihei/thkm2.html>
> ○稲村崎成干潟事 
> 二十一日の夜半許に、片瀬・腰越を打廻り、極楽寺坂へ打莅給ふ。
> 明行月に敵の陣を見給へば、北は切通まで山高く路嶮きに、木戸を誘へ垣楯
> を掻て、数万の兵陣を双べて並居たり。南は稲村崎にて

これは、稲村の針摺橋辺りまで、様子見に入り込んでも攻撃を受けなかった事を示します。
針摺橋より、南の道を稲村崎に向かう兵士に攻撃しても、切岸が高すぎて矢なら避ける余裕のある距離と道幅がある事を理解できるでしょう。

写真は、
稲村ガ埼の陣鐘の峰西側で、切岸が在り、平地より峰には登れない。峰より平地には距離があり、矢も狙い撃ち出来る距離ではない。
ご覧の様に、谷戸はU字状の平場と切岸から成っており、峰の上はナダラカですが、霊仙山では、更に急で高い切岸となり、その傾斜は峰の上まで続く。
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