鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

江戸東海道の道路拡張工事

2024年12月20日 | 古代東海道

江戸の東海道の痕跡に就いてです。 
 明治9年(1876)明治政府は全国の道路を、種類・等級・幅員など分類し。種類を国道、県道、里道の3種類とし、それぞれ一等、二等、三等に分けました。
明治9年に指定された一等道路は東京から横浜港へ達する道路、二等道路は東京から伊勢皇太神宮へ至る道路です。
しかし明治18年(1885)に、国道の級別が廃止され、東京~横浜港を「国道一号」、東京~大阪港を「国道二号」、東京~神戸港を「国道三号」としました。
ただし、箱根路は明治6年に一等道路に指定されたが、その後新道が開削され、明治41年(1908)には新道が国道一号となり、歴史的な箱根路は里道になってしまったからです。
 結果は箱根には本来の江戸東海道の痕跡が在る訳です。(注釈)

『慶長見聞集』によると、江戸幕府は慶長9年(1604)に全国的な道路改修事業を起こし、道幅を広げ、道路の屈曲をやわらげ、牛馬の往来の障害となる小石を取り除き、松や杉などの並木を植えるなどを行ったと記されています。
さらに元和2年(1616)、徳川家康が没すると、家康の遺訓といわれる『家康百箇条』が示され、このなかに江戸時代の道路政策や道路の種類・等級に関するものが見えます。
そこには道路の種類ごとの道幅が次のように記されています。
大海道 6間(約10.8m)
小海道 3間(約5.4m)
横道 2間(約3.6m)
馬道 2間(約3.6m)
歩行路 1間(約1.8m)
捷路 3尺(約90cm)
作業道 3尺(約90cm)
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東海道は大海道ですから、これによれば基本的に6間(約10.8m)と定められたことがわかります。 実際はこの話は防衛上から不都合で実行されなかった。
一方、東海道の道幅を示す橋の横幅を調べてみると、川崎宿から保土ヶ谷宿まではほぼ3間、それより以西では2間から2間半と狭くなっていることがわかります

東海道の橋より
http://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/03_sisetu/13index.htm
また道幅を示す橋の横幅は、いくつかの例外は見られるものの、川崎宿から保土ヶ谷まではほぼ3間(約5.4m)となっており、それより以西では2間から2間半の橋が多い(『東海道宿村大概帳』より)。 東海道の道幅も全体として1間から3尺ほど狭くなっていることがうかがえる。

その様な理由で、保土谷より西の東海道は狭いとの考えが、私の実感でもあります。

当時の道幅として、戸塚から大山までの江戸時代の庶民が歩いた道や、矢倉沢街道の秦野の痕跡等は一間程で在ったのです。これは大八車(畳一枚を乗せる荷台の幅に車輪を取り付けると一間の道が必要)を通せる道それが、当時の著名な街道の道幅ですから、、2〜3間でも十分に広い訳です。

注釈(2025/1記)- 箱根湯本から江戸東海道は川の際を通り箱根峠に抜け、石畳で有名です。
この道は、一部関東大震災の山崩れで埋まり、その脇を新たに作った石畳の道が通ります。
山側を観察しながら歩くと、江戸時代の半ば埋もれた石畳が見られる場所が見つかります。
大半は1〜2間程の幅の石畳ですが、、畑宿に上がる曲クネッタ道は幅が広い。
其の他、白水坂から元箱根に降りる道は、異常に広く新しく見える。
箱根峠より三島には、石畳の痕跡は見当たらず、1〜2間幅で、脇の笹や雑木が邪魔して本来の道幅は確認できない。
更に北側には「平安鎌倉古道」と呼ばれる幅6m程の道筋が何本か確認できます。 この幅6mは鎌倉時代に使われたにせよ、作られたのは平安又はそれ以前の道と考えられます。

 

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陰陽師 安倍晴明 3

2024年12月20日 | 鎌倉時代の人物

安倍晴明 嵯峨墓所
1005年(寛弘2年)9月26日に85歳で没したといわれる。

“公式”の墓所が定められて居り、場所は京都の嵐山、長慶天皇陵の脇の寿寧院に葬られたと伝えられている。この場所以外にも以外にも伝承は有る様です。

陰陽師は宮廷の御用達ですが、鎌倉に招いたのは、大江広元で在ったと考えられる。
長野県木曽郡木曽町は大江広元が育った場所の縁が有るわけで、安倍晴明の墓所が有る。
長野県木曽郡木曽町新開清博士 これは地名ですが、地元民は此処にある二基の五輪塔を晴明様と呼んで祭っています。その他にも墓所が有る様でどの墓が本来の墓かは不明の様です。

安倍晴明が鎌倉幕府の結界を張っただけでなく、建長寺の結界を張り 場所は第六天社に建長寺の四方鎮守の一つで、南の方角の守護と成る。

道路の突き当りが建長寺と成ります。

第六天社に建長寺の四方鎮守の一つで、常時鳥居の前で閉鎖されており、年に数時間だけ開放されるそうです。

例祭は毎年七月十五日から二十二日にかけて行われるが、神事は二十日前後に執り行われます。

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陰陽師 安倍晴明その2

2024年12月17日 | 鎌倉時代の人物

大江広元(ウィキペディアより) - 朝廷に仕える下級貴族官人)だったが、鎌倉に下って源頼朝の側近となり、大蔵御所公文所(後の政所)と鎌倉幕府の初代別当を務め、幕府創設に貢献した。

その様な訳で 鎌倉幕府に絡む重要人物の大半が武人ですが、中で唯一人 大江広元だけが官人であり、宮中に絡む陰陽師と関連すると思われる。 更に、大江家の領地の木曽福島には、安倍晴明の墓が存在するのです。陰陽師の安倍晴明を鎌倉に呼び寄せたのは大江広元であろう! っと推察する理由です。

大江広元の話は更に後の時代に影響していきます。その後の戦国時代は、毛利家に秀吉が水攻めをやっている最中に、信長が本能寺で死んだ話となり、鎌倉攻めに間に合わなかった薩摩は、江戸時代に迄生き残る。更に幕末には薩長連合の薩摩と長州の元が此処にある。

此処を上がると立派な墓が3ヵ所有り、毛利季光の墓、大江広元の墓、島津忠久の墓と成りますが、この毛利、島津の影響は明治維新まで影響を及ぼします。

取り敢えず、陰陽師の安倍晴明は鎌倉に結界を張るだけにトドマラズ、建長寺にも結界を張った痕跡は次回。

 

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