鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

鎌倉城破壊の軌跡 その3

2016年07月30日 | 大鎌倉城
鎌倉の防衛施設の存在は、
切岸と七口以外には、語る人は稀です。
海蔵寺裏の大堀切なんて言うのが有れば、珍しいのですが、、、
それも理屈に合わない堀切論です。それも、発掘調査で5m程掘り込んだが、それ以上は掘らなかった。(防衛施設が出土するのでは?なんていう想定だった様で、完全な予想外れでした。)
掘らなくても 防衛施設は誰でも見れます。
あまりにも巨大で判らなかったのかな??

以降は、立体視をする必要があります。
空中写真では、思いもよらない情報量が立体視で得られるのですが、、、
是非習得して下さい。 下記HPを参考にしてください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%A0
立体視の平行法を使って作図をしています。

谷を上がってくる敵を、三方の高みから矢で射殺す作戦が想定されます。

 現北鎌倉女学院のグランドの以前の姿です。
貴方の右目と左目の間を鏡を見ながら測り、画像ズームでその寸法以内に赤点を調節してください。
地図でも表現できない! 写真でも伝わらない! 現地を見ても判らない!
デモ、立体視をしたら、、、一目瞭然の寄せる敵を退ける砦構造です。
是非立体視を習得してください。


切岸は、崖の付け根から上まで同じ傾斜で造られ、自然地形の跡形も無く人工的で、ひな壇状の砦構造が有ります。
それも、馬蹄型の敵を三方から矢を射かける構造です。

何処が、鎌倉は自然の要害なのでしょうか?
鎌倉は、調査されずに未開発な研究であり、鎌倉城が在るにしても無いにしても、全容を調べた人は無いし、鎌倉城を自信をもって語れる人は現時点では無い。
「鎌倉は自然の要害」なんて言う人は、常識の受け売りで、自分の考えが無い人です。


「鎌倉は要害!」っと言ったのは、、頼朝が都を何処に作ろうか?と迷った時に、進言した武将千葉常胤の言葉です。
それは、頼朝が千葉にいた時で、鎌倉が都に成る前の話です。
その後、
鎌倉に入り、人工的に切岸や、七口、砦等の人工的な城を造った。

時間系列に沿った考えでマトメタのが歴史学です。
単なる知識ではなく、知識をマトメル教養の域まで考えを整理するのが歴史学です。
鎌倉城を造る前の「鎌倉は自然の要害!」が何時までも生きているのが常識です。
しかし、鎌倉を調べた事の無い研究者が流布した無責任な研究が出処です。
その後の鎌倉城が確認できる文章は九条兼実の「玉葉」にあります。
実際の城遺構を朝廷側は確認している訳です。



これは、山崎の水道局施設が無い時代の以前の姿です。



昭和54年の台峰です。
写真下の赤丸の脇にある四角いのが水道局施設です。
見るも無残に消滅し、、、
調査もされずに、、挙句は鎌倉に城は無いなどと、半端な机上論の講師の説に賛同する鎌倉市民が居る訳ですが、、
 何故新田義貞が鎌倉市内に入れなかったのか??自分の足で調べ考えて下さい。
地元の現状に詳しい! それが、地元民のプライドと言うモノです。
よそ者の講義に異議を唱えられるのは、地元民の特権です。
辛うじて残った台峰の遺構も、消滅しようとしています。

立体視は、赤丸が貴方の左右の目の間隔より少し狭くなる様にブラウザーの倍率を調整したり、ディスクトップキャプチャ-でコピーして画像ソフトの倍率を調整して見て下さい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎌倉城破壊の軌跡 その2

2016年07月25日 | 大鎌倉城

 1963年の国土地理院空中写真で、梶ヶ谷団地の造成が始まりだした。
 北鎌倉女学院のグランドは、未だ造られていない。
 このグランドは鎌倉城では無く、畠の跡である! 何て言うのでしょうが、、、
1945年の話で、甲子園球場は畠が作られていた。だから、甲子園球場は畠の跡!なんて言う理屈は誰も言わない方便で、鎌倉城は無い事に成った。
鎌倉滅亡から数百年経ち、、 使い道のない平場には、畠が作られとも当然です。


 1968年の国土地理院空中写真です。梶ヶ谷団地の造成は完了し、水道局の施設が作られる。



 1947年の国土地理院空中写真です。
戦後間もない時期です。
倉久保の谷から台峰に攻め上がる時と、その結果は、、、
攻め手は三方の高みから、幕府側の弓矢で狙い撃ちをされる!

その時、攻撃の武器は有っても、急激な崖をよじ登る為、盾が無い攻め手は、三方からの矢を避ける事が出来ない。
その様な構造をしているのです。
どこかで聞いた事が有りませんか?
鎌倉は、三方が山に囲まれもう一方は海で要塞堅固な土地と思われている。
でもね、、鎌倉史の研究家は、外から攻めたら山で防げると思っている。
元寇は、船で海から攻めて来る事を忘れています。直接由比ヶ浜から攻められた時に
どの様な対処をするか???
その様な戦法をこの台峰の砦はでも使う。浜から上がって来た敵は三方の山から攻撃する。

北鎌倉女子のグランドの他に、台峰には何か所もその様な場所が有るのが写真からお判りでしょうか??
偶然の形では無く、故意に攻撃を返り討ちする為に作られた訳です。
この地形は台峰だけではありません。
 防御構造の一つは、北鎌倉女子のグラウンドに、もう一つは、水道局の施設として潰されたのを地図から確認してください。
これらの残る鎌倉城遺構は、大手企業に買い占められています。
ッとなると、、鎌倉に城が有っては、、困る方が居る訳です。
市民団体も「鎌倉城は無い!」
  そんな話に乗る方が大半の様で先の見込みは無い。
鎌倉の台峰、倉久保の谷は消滅の道をタドル訳です。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎌倉城破壊の軌跡 その1

2016年07月15日 | 大鎌倉城
鎌倉城の基本的な構成は、
 一、城内の進入を遮断する 切岸!
 二、城内に出入りする道路!
 三、敵と戦う為の砦!
この三部構成に区別できる。

鎌倉城の話は、切岸と、七口で戦闘をした話が多々ありますが、
切岸の存在は知っていても、具体的な配置や規模を語られた事は無い。
鎌倉をどの様に囲っていたのか資料を見た事が無い。



上は、2015年の山の内上水場より北鎌倉女学院の運動場迄の航空写真です。
下は1968年の国土地理院の空中写真です。
この写真の中に、人を寄せ付けない切岸と「ここならば攻め入る事が出来そう!」と言う敵を誘う防衛施設という罠が有ります。
でも、この写真からでは、人工的に作られた城の構造は解りません!
自然保護の為に「管理不行き届き」の放置状態で破壊され始め、史跡としての景観も消える訳です。
この景観には、約50年の経過があります。
人工的に作られた「城」としての景観が破壊され、城が単なる山とされた。
目に見えるのは、草木ばかりで人工的な物が隠されているのです。
では、
何が砦なのでしょうか?
今でも残っているのでしょうか?
大手企業が土地を買い占めている場所ですから、近年に消滅するでしょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一つの考えに基づいた工作物

2016年07月12日 | 大鎌倉城

   上は 散在ヶ池の延長の切岸と考える今泉不動。


   上は 鎌倉市公園協会作成の散在ガ池森林公園パンフレット
せせらぎの小径とある場所に散在ヶ池の切岸が有る。


   上は 散在ガ池ですが、、、
 鎌倉城には、防衛施設が無い! ッと訳知りの方が言われるが、、、
切岸自体が防衛施設です。
絶対に切岸から鎌倉市内に入り込ませないのか? 敵を鎌倉市内に入り込ませる道もある。
それが敵を討ち取る為の罠の道です。
鎌倉城の広大な城の全体を見渡せないと、、、それは理解しにくい話です。
鎌倉城の防衛施設の概要を、 今後 説明しようと思います。


> 鎌倉散歩~切岸を間近で見て (黄色いメガネちゃん)
> 一つの考えに基づいた工作物、城壁としての切岸、ということであれば、これは大きな都> 市計画の一部ですね?

> その時代の人は鎌倉の地形や地質を知り尽くし、計画、工事をしたのでしょうね・・・。
> 切岸に残されている工具で削ったらしき跡を見ながら、
> 途方もなく長い年月と労力、技術が必要だっただろうと思われて少々興奮しました。

> 当然鎌倉の全体を把握していたはずですが、
> 私たちはその全貌を知らない。
> 忘れ去られた鎌倉ですね。


鎌倉散歩~切岸を間近で見て (黄色いメガネちゃん)
   ありがとうございます。

小さく調べれば、稲村、極楽寺、大仏、化粧坂、小袋坂、朝比奈切通、名越の切、小坪のライン。
大きく調べれば、腰越、手広、山崎、天神山、台、岩瀬,公田、イタチ川より六浦、逗子駅、より披露山までの大きなラインですが、
 余りにも
鎌倉城は広すぎて、私も目先の興味のある一部しか調べていません。
鎌倉歴史講座講師が、チョット調べて鎌倉を解説しても、観光客並みの現地視察では、、
鎌倉を語るには不十分。
鎌倉城は無い派の説に 古文献等の引用が少ない事から、文献の下調べは雑というか、軽く見ている様です。古文献を無視していると考えます。

 鎌倉城は無い派の研究方法は「日本城郭大系」と言う現代の研究本が根拠で、、、
その本に書かれた鎌倉城は、、城では無い!
    依って鎌倉には城が無い! っと結論を出している。
鎌倉滅亡から、600年以上経ち、当時の文献は消失し、太平記や梅松論に書かれた記述で当時を想像するのが一般的で、
鎌倉城の詳細の記述なぞ他には無い。

問題は、書かれたご自身が現地を調査したり、梅松論、太平記等の古文献の考察が無いのは、、  研究論文としては、余りにも視野が狭すぎませんか?
これらの古典を否定して「鎌倉城が無かった!」と言うなら反論もやり様が有りますが、、、

「もう一段深く見聞きし考察し直して貰いたいものです。」
      受講して、何の疑問が沸かなかった方への言葉です。

大半の「鎌倉城は無い派」の方は、鎌倉在住で受講できる時間の余裕がある方と思います。
是非 貴方の周囲から鎌倉城探しをやってください。
 半端な鎌倉の知識の講師に言われっぱなし!! なんて鎌倉住人として情けないでしょ?
私は住んでいませんが、、、、

「■日本城郭大系1 記 2015-06-22」当ブログに記載


古典文献を無視し、この「日本城郭大系」の研究の上げ足を取って、鎌倉城は無い!っと
説明された。 不思議な事に より信頼性のある古典文献の考察は無い。
古典文献は「鎌倉城は無い」と否定するには都合が悪い、故意に触れなかった?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする