鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

鎌倉最大の切通し 5

2006年11月27日 | 切通し
この土橋の海蔵寺側をカメラで捉えたくても、雑木が邪魔をし、
上手く写す事が出来ません。

切通しの岩肌自体が垂直に切り立っているのは理解できるでしょう。
土橋の壁自体も同様に如何に切り立った崖であるか!(鎌倉最大の切通し1) の写真と合わせて想像してもらい、現地を見て実感してください。
しかし、海蔵寺側の土橋の崖は、知らなければ「向こう側に行けるかも?」等と思わせる微妙な角度が付いているのです。
土橋の高さは測らなくても、(鎌倉最大の切通し1)の写真から、切通し幅の2倍以上の高さを推測できます。25m以上は有ると推測しています。
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鎌倉最大の切通し 4

2006年11月25日 | 切通し
土橋上部の長さは、、、12,5mあります。
朝比奈の切通しの例を見ても、ほぼ下の道幅と同じですから、、
少なく見積もっても、下の道の幅は9m有ると考えます。
道幅9mは鎌倉最大の切通しです。
この様な鎌倉時代の土橋?遺構と、奈良時代の切通し遺構が組み合わさり、良い状態で残されている事にぼ助は、驚異に感じます。
土橋状のバリケードは800年、武蔵大路の切通しとして1200年の歴史が地上に見える形で残っている。
もっとも、以前は道幅がもっと狭く、上を通るのが怖いくらいでした。
これも、微妙に観光破壊が始まっている。

写真は土橋上部を葛原ヶ岡神社側から、北向きに撮ったものです。
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鎌倉最大の切通し 3

2006年11月24日 | 切通し
敵の攻撃を阻止する為に造られたバリケード!
貴方がバリケードを作るとなれば、、、外部の敵を阻止する構造を考えると思います。
処が、、、このバリケードは、外部から攻めて来た時、人がよじ登れる角度をしている。
逆に、鎌倉市内からバリケードへは、絶壁で登れない!
バリケードを造る目的は、人を通さない為に作る。
それが、、、人が通れる構造をしているとなれば、、、
ソコには、相手の動きを誘導する作為を感じるのです。

図は土橋の断面です。

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鎌倉最大の切通し 2

2006年11月15日 | 切通し
海蔵寺切通し!
鎌倉城と称する七口がある城壁の山には、、、
朝比奈より規模の大きな鎌倉最大の切通しが存在した!!
いや、、存在する!!
道幅が広すぎて、守るに困難な武蔵路に幕府はバリケードを造った!
それを称して、今は「土橋」と呼ばれている。

問題の有るのは、この土橋の形状です!!!

写真は土橋です。北東から南西に向けて写しています。
道の右は瓜ヶ谷、左は海蔵寺です。
コメント (4)
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鎌倉最大の切通し 1

2006年11月04日 | 切通し
「海蔵寺切通し」は東山道相模路の道路遺構です。この切通しに鎌倉外部より入るには、北鎌倉より、瓜ヶ谷に入ります。
水道道から、クランクの谷、立石、関谷、玉縄城、北鎌倉、瓜ヶ谷、海蔵寺。
これで東山道相模路の鎌倉入りとななりましたが、、、
この経路なら、亀ガ谷の辻に武蔵大路があり、寿福寺前に武蔵大路が有っても、現御成小学校の校庭で発掘された郡ガ跡に行く経路として、矛盾が無い。

やっと、、鎌倉入りとなりました。
この辺りでコーヒーでも一杯如何でしょうか?
鎌倉らしい、喫茶店と言うことで、お勧めは、、、、
「花墨」なんて御勧めです。(残念ながら、店主が高齢の為閉店しました。)
★http://www.hanazumi.com/shop.htm★

写真は海蔵寺裏より写したモノ。
ステレオ写真の見方が判らない時は、コメントしてください。
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鎌倉「謎の大堀切」

2006年11月01日 | 切通し
鎌倉に大堀切があると言われています。
攻めて来た敵を阻止する為に堀をつくります。
人工的に堀を作る事を指して、堀切と言います。
攻めて来る敵を妨害するのが堀切で、石垣の有る城は水を引いて堀にします。

処が、この大堀切は、
鎌倉市内と市外を分ける城壁の山に対し、城壁の山を断ち切る様に掘り切られている!!
それも、幅10mは有ると思われる幅です。

考えて欲しい理屈は、
頼朝は都を造るとき守りに強固な、三方山に囲まれた鎌倉を選んだ。
山は城壁に例えられ、七口は、城門に例えられる。
その城壁に10mもある穴を故意に開けたら、、、
喜ぶのは鎌倉を攻める敵です。
大堀切はその様な構造をしているのです。

通常の敵の進入を妨害する堀とは目的が違うというより、堀の役目を果たしていない。
よって、堀切とは呼ぶのは間違えと言えます。

それじゃ何かと尋ねたら、、、
この土地に、鎌倉以前が存在しないなんて、、考えたら鎌倉を世界遺産にしよう「武士の都鎌倉」で考える理屈と同じです。
鎌倉時代以前の古代東海道や、東山道武蔵路の延長「東山道相模路」の遺構である「切通し」と推察するのです!
この切通しの幅や、鎌倉に入り込む方向から想定すれば、武蔵国府、座間、海老名、想定伝路水道道、立石、関谷、玉縄城脇を経由した、、武蔵大路の痕跡です。(この時点では、笠間中央公園道路遺構や、ゆめが丘脇の中の宮北遺跡の存在を知らない状態でした。2014年加筆)
なんと、、、幅は、朝比奈峠より広いのです。
場所は、海蔵寺の裏にあります。

写真は海蔵寺より、裏山の切通し跡を写したモノです。
赤矢印の処が切通し跡!
鎌倉幕府の手で土橋が作られたと考えられているが、、、
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