鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

上の道、下の道 6

2015年08月15日 | 東山道~鎌倉
2015-08-15
幻の東山道相模路(新野脇屋遺跡群より鎌倉に向けた赤ライン)
中の道
吾妻鏡に中路の記載がある。
「吾妻鏡」(鎌倉幕府の公式歴史書)に、1189年の奥州藤原氏追討の記述があります。 頼朝本隊については、7月19日に鎌倉を出発し、25日に宇都宮に達したのですが、 鎌倉からどの道筋で宇都宮に達したのか、

「吾妻鏡」の記述では、「二品(頼朝)は大手、中路より御下向有るべし」
とあり、 この「中路」から、後の鎌倉道主要ルートのひとつである「中道」とする説が主流です

1189年 (文治5年 己酉) 7月17日 乙亥
  奥州に御下向有るべき事、終日沙汰を経らる。この間三手に相分けらるべし。
てえれば、所謂
 ■東海道の大将軍は千葉の介常胤・八田右衛門の尉知家、各々一族等並びに常陸・下総両国の勇士等を相具し、宇多行方を経て岩城岩崎を廻り、逢隈河の湊を渡り参会すべきなり。
 ■北陸道の大将軍比企の籐四郎能員・宇佐美の平次實政は、下道を経て、上野の国高山・小林・大胡・佐貫等の住人を相催し、越後の国より出羽の国念種関に出て、合戦を遂ぐべし。
 ■二品は大手中路より御下向有るべし。先陣は畠山の次郎重忠たるべきの由これを召し仰す。

東海道、北陸道、大手の中路の区別をしているが、
上道の記載は無い。
北陸道は、高崎に向かう道と文面から伺える。
この解釈は、吾妻鏡を書いた時代と書かれた周囲のコミュニティの道路分別法です。

これは、古来の上の道は京へ上る道、下の道は常陸へ下る道 だけデハ無い別な考え方が時代ごとにあるようです。
単純な上の道、中の道、下の道の区分けは後世の創作で、名前は有るが道の実態と定説は無い為に諸説あり。 敢えて主張するならば、その背景(時期と鎌倉幕府、朝廷、江戸時代等の立場の詳細)の記載が必要と思います。
記載が無い時には、単なる無知の為に受け売りをしたのか? と勘繰られ文章全体の根拠が疑われる事に成ります。

鎌倉街道は、各氏族が一刻も早く鎌倉に向かう為に氏族の数だけ鎌倉に向かう道が在る!
特徴は馬が一頭疾走できる道幅と直線的な鎌倉への道が幾筋も在った。 例外は中道の3m幅の道という訳です。
鎌倉に隣接する藤沢市には数ある鎌倉街道の特徴を持った道が多数ある事から推測すると、この様に解釈する結果になったぼ輔です。
関東一円の氏族が鎌倉へ向かう道は、その氏族特有の鎌倉へ直行する近道が存在する、
「いざ鎌倉!」の時に、鎌倉へ一番乗りをすれば頼朝の信頼を得る。その競争に勝つ為の直線道路です。
その中でも特異な道が在り、東山道武蔵路の延長が鎌倉まで在ったと考えられ、経路は足利から武蔵国府を経由し鎌倉までの前の時代に作られた東山道の支道です。
鎌倉時代になり、東山道の支道の名は消え、代わりに武蔵国府から鎌倉までは武蔵大路、武蔵国府から足利、そして東山道の本道で白河の関までを奥州街道と言う名前に代えた!
広義では、これが中の道でしょうが、各部で寸断工作された経緯がある。武蔵の府中より鎌倉に向けた道は、途中で削り取られ使用不能にした痕跡がある。
この古代道に沿って鎌倉時代に3m幅の道が作られたのが、中の道と考えています。
武蔵の府中より北へは、3~6m幅の駅路跡が鎌倉街道と名を変えて在る様で鎌倉より遠い為に寸断工作をマヌガレタのでしょう、、 前の時代の駅路が名前を変えたモノと考えています。
もう一つ狭義の中の道として、鎌倉市中から見た場合、化粧坂ー葛原岡神社ー山之内配水池ー山崎台峰の道ー水堰橋へ降りる文献にもある道!言わば鎌倉の大手道です。
北関東の氏族が鎌倉へ向かう道はこの狭義の「中の道」を目指す訳であり、頼朝が鎌倉に凱旋する時に隊列を整えた水堰橋を考えれば、鎌倉の大手の道と言えるでしょう。
この道は、横浜の小菅ヶ谷から、日切り地蔵、戸塚カントリー倶楽部の中を通り、鶴ヶ峰へ抜ける。
この鶴ヶ峰へ抜ける道は畠山重忠が「いざ鎌倉!」の知らせで駆け付けて、幕府に裏切られ討ち死にした場所です。
化粧坂から台峰の道で検出された3mの道と同等の道幅をこの戸塚カントリー倶楽部で検出したと聞きました。
この道は初期の東山道武蔵路が目指した直線ラインの上にあり、大道は断念しても、馬が駆け抜けるには問題ない鎌倉街道の幹線道路として造られたと考えられるのです。


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台峯の先端と臥龍峡

2015年08月11日 | 切通し

山田和著「知られざる魯山人」より
壁面の滑らかさや路面の状態から、昭和3年に車を通すために拡張された臥龍峡と考えられる。

> ○台峯の先端、臥龍峡の北。
> Googleの写真で見る限りなくなっているが先端の山頂部に横須賀水道の戦前期の
> 施設があって水道山と呼ばれていた。
> 戦時期は高射砲が設置され南西側の斜面にはかなり大きい防空壕4~5があった。
> 北東側の旧自動車学校側の斜面ははっきり崖が見えていた。記憶は曖昧だが看板
> がつる下げられていた。この斜面がいつ開削されたのか?

戦前には水道施設ですか!
一般人の水道は、この時代には無いに等しい話ですから横須賀に向かう水道なのでしょうか?
若しくは大船周囲の工業関係の水道なのでしょうか??
戦後は、
USA撮影の戦争直後空中写真に高射砲陣地の丸い窪地の映像が映っています。

> 北東側の旧自動車学校側の斜面ははっきり崖が見えていた
これは、鎌倉時代ではなく後の時代と思います。鎌倉時代の崖は、猫が爪で引っ掻いたような、上から見ると鋸歯状のスジが入った様な斜面に成ります。
温暖化も含め、植生が変わりあちこちの崖が緑に覆われていく。


○天神山と台峯北部の間の小山
 明治期の地図では残っている。戦前(S16年頃?)の富士飛行機の工場建設
 で崩されて今はマンションだが、一部に高い地点が残っている。
 戦記には出てこないか。天神山と同様な砦であったのか?

 今となっては資料も無いし、想像するのも困難な状態です。
当時、山を消し去る事は大事業で有ったハズです。
何かコンクリート素材採掘の様な鉱業が有ったと思えるのですが、、
1930年の地図では、京急有料道路が有るが、未だ切削されてはいない。
『笠間中央公園から芝浦エンジニアりングよりヤマダ電機迄』の山は切削されています。
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コメントより :台山

2015年08月08日 | 大鎌倉城

臥龍峡を越え、江の島に向かう道で、正面の小山が切り取られて残った場所です。
小山の右は旧富士飛行機、次の時代は昌光ガラス工場で、今は住宅地で使われた平地で左は江の島への道です。

どう考えても、ぼ輔の記事より真実味があり 面白い。

「台峯の先端、臥龍峡の北」この城郭状の遺構は間違いで
明治の地図を根拠に、本来は、天神山の遺構と同じ形態の砦であったであろうと訂正します。


コメントより!
■台山(追加です) (satnai)  2015-07-30 01:10:07
掲載していただきありがとうございます。ご存じの方に教えていただきたいです。
さて、詳細な航空写真をウェブで確認できることをこちらで知りましたので確認できる昭和19年から見てみての疑問点です。

○北端の崖
戦前、旧自動車学校に何かが建っていた時に敷地を拡張するように抉ったようになっている。明治期以降か?それでも原地形としては天神山に似る。

○小坂郵便局から光照寺前で台山(台で丁目がない住所で平坦部)に登り、神明神社、臥龍峡へつながる道。えのしま道の枝道ともされる。一遍が通ったとされる道。
光照寺の前にも切通の跡が今もある。なぜここに道があるのか。いつ開削されていたか。今は閉鎖されている手広の青蓮寺の切通と同時期か?

登り切った交差点が、北鎌倉女学園グラウンドからの尾根道と台山の戦前は横須賀海軍の士官の住宅街への道。戦後直後の写真(昭和22年)ではほとんど住宅がない台地で境界が明確。台峯から小袋谷・山ノ内への傾斜地であるが、やはり先端で高低差があり見晴らしも良い。
位置は北鎌倉の木戸の手前になるこの台地は中世の軍事的にはどう位置づけられるか。

○えのしま道の枝道は、小袋谷の水堰橋で台山の麓に沿って臥龍峡へつながっていたか。山ノ内から光照寺の前の切通が枝道なのかが不明(両方?)

魯山人の母屋跡地(山崎小学校グラウンドの西端に面した一角)を定点に一連の航空写真を初めて見まして、昭和40年頃に台峯北部がまとめて開発されたことと、戦前期の建物と思っていたものが戦後のものであったり、また、やはり温暖であるからか樹木の成長が速いことも確認できました。

自分の原風景ということもあるのですが台峯周辺の郷土史が豊かになり世界遺産落選でも何らかの形で残されて欲しいと願っております。

■天神山(追加2) (satnai)
2015-08-05 01:30:14
先月末に数年ぶりに調べて見てネットで確認できる地図情報に驚いています。

○天神山と台峯北端の間の崩された小山
「今昔マップon the web」で明治36年と昭和8年の地形図を拡大したところ、やはり何らかの由緒があるらしく墓石?石碑の地図記号を確認しました。(同じ記号では頼朝の墓、大江広元の墓、さらに八幡宮の裏八幡の山の上も発見。)戦前の工場建設で失われていますが、何の石碑であったか面白そうです。 地元に生まれ育ったご存命の古老の方くらいでしょうか。

  ○天神山の山頂の石碑と温泉
これも子供の頃からの謎でしたが、
・天神山に砦の跡があるという記述は昔から見ていたが、現物は確認されているのか?

・天神山の山頂には昔から石碑が複数倒れていた(今もあるらしい up確認)。四国八十八カ所に見立てた石碑をつくり(大正期~昭和初期?)参詣で賑わったらしいことに関係?。西麓の温泉の「山崎園」とセットで砦周辺が賑わっていた時期がある? 西斜面から山頂に登る道があった?

「山崎園」は、魯山人直筆の地図で臥龍峡とともに紹介されているものがupされている。
ただし泉源の位置が確認できない。どこか。上町屋には別の泉源がある。

・「頼朝のかくし湯」は本当にこれか? 武士の戦闘の治療に関係がある利用がされていたか?


ぼ輔:以上ですが、明治、大正、昭和初期等の産業では鎌倉ハムと大船軒程度の話しかありません。実際は、もっと大きな産業が有ったハズです。
その根拠ですが、

> satnaiさん
> ○天神山と台峯北部の間の小山
> 明治期の地図では残っている。戦前(S16年頃?)の富士飛行機の工場建設で
> 崩されて今はマンションだが、一部に高い地点が残っている。
> 戦記には出てこないか。天神山と同様な砦であったのか?

『台峯の臥龍峡より西の山の切削』や、『天神山と台峯北部の間の小山の消失』それと、『笠間中央公園から芝浦エンジニアりングよりヤマダ電機迄』は山で有ったのが消失している。
当時、大型土木機械の無い時代で、山を消し去る事は大事業で有ったハズです。
工場を建てるのにワザワザ山を買って平地にする様な事はしない。
何かコンクリート素材の様な鉱業が有ったと思えるのですが、、
鎌倉の石切り場の話は有りますが、もう少し規模の大きな話と考えるのですが。

satnaiさんの様な読みやすい文章で無くても、良いのです。
気楽にコメントをイタダケルと嬉しく思います。
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