鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

篠窪から関本へ7

2020年01月24日 | 古代東海道
静岡の曲金から古代東海道の道路遺構発掘、平塚東中原より道路遺構発掘。
そして、学者が古代東海道では無いと否定する下大槻の道路遺構。
私の見た痕跡は、富士裾野の十里木峠より東富士演習場にある直線遺構。
足柄峠のU字遺構、栃窪のZ字道路遺構、更に朝比奈峠の道路遺構。
これ等の遺構に共通するのは、足柄峠より六浦へ向けた直線的なライン上に道幅9mの遺構が在るのです。
その一直線上にある痕跡の富士見塚下の道路遺構の話です。

この写真は2020年正月です。 これでは単なる野原です。



上記部位の2017年です。

「子宝」の表示が在る場所です。
土手で一段仕切られた上も下も古代道路の遺構と考えられるのですが、、、
整然とした平らで幅の在る斜面に成っています。
頼朝の「富士の巻狩り」に使われた道と考えられ、鎌倉より一直線な古代東海道です。
古代の遺構がそのまま残っている訳では有りませんし、この土手の並木は1000年前の木とも思われないのです。
しかし土手と古代駅路の道幅に相当する平面が在ります。
上下の2段の道跡が在りますが、この手の時代により作り替えたりルートを変えたりは良く在る話です。
更に、平面は農地に転用されるのは良く在る話です。

それでも、巨大な平面は個人の力では変えられない!
しかし、政治力が働くと巨大な道路を作るし、壊しもする。
実際この先の道路は断たれ、断崖に成る。
その程度は調べて無いのですが、、、
当時の脇街道も無い古代東海道ですが、この道を使い鎌倉に攻め込まれたら困るのです。
関西方面からの襲撃に対応する場所デアルと言う訳です。
通行便利な巨大な道路を、断崖にする大規模な工作は、政治力が働いた為と考えるのです。
古代東海道や、武蔵大路には鎌倉に近づけば、この様な破壊工作は良く在るパターンです。


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篠窪から関本へ6

2020年01月16日 | 古代東海道
明けてから、、大分経ちました!
暖冬で、彼方此方と歩き回っています。
さて、秦野から大磯丘陵 越えの話です。
古代東海道の話ですから、ナダラカな坂と直線的な道路並びに路幅9mの道路が、どんな経路を通っているか?
 大宝元年(701年)の 駅制・伝馬制 から 1300年も経った道路に痕跡は有るのか?
栃窪のZ字道路の切通状の道は、軟弱な赤土(富士噴火灰と考えられている)が1300年の雨水で作り上げたモノと考えられますが、その際に本来の古東海道が有ると想定しています。
その道路に対応する道路跡が富士見塚の脇にある。

①から⑤迄は、写真の位置です。


① 富士見塚とその脇にある矢倉沢街道と呼ばれる2〜3m幅の道です。
この状態ならば、9m幅の道は、即作れそうな余裕のある場所です。


② 富士塚の脇を降り、振り返った写真です。
道のわきに在る赤いのは車で、その上に冨士見塚がある。
問題は道の左にある広い野原です。
これが、古代東海道の痕跡と考えるモノですが、、
単なる野原に思えますね、、、

③ この野原に入る場所が在ります。
この場所に曰くは、何かあるのでしょうか?
どの様に管理されている場所なのでしょうか?
個人所有?

④ この野原の右を見ると、、 富士見塚方面ですが、、
さしたるモノは無い!



⑤ 左を見ると、、
やはり、野原ですが、、、
これが問題の場所の現状です。
この写真からは、語れるモノは無い。
  次回は、
この場所の数年前の写真から始まります。 お楽しみに!
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