鎌倉城の切岸に就いては、、、
■鎌倉に城は無かった!なんてね、1~8 (2016/02/24)
■鎌倉に城は無かった!なんてね、9~12(2016/02/24)
■日本城郭大系 (2015/06/22)
■日本城郭大系2 (2015/06/26)
■鎌倉城の 成り立ち(2015/06/15)
■武家屋敷跡 (2014/10/10)
以上に書かれていますが、
これ等の切岸をどの様に感じるか?と言う問題がある。
城としての実感を持感じたくても、樹木に隠された現風景と、60年前の景観は別なモノで、当時の景観を再現したら巨大な防禦施設を実感できます。
モットも 巨大過ぎて視野に入るのは 城全体の数パーセントですから、後世の城郭研究者の常識で鎌倉城を見た時には単なる山に見える為に、鎌倉城を語る文献は無いも同様です。
権威の有る「日本城郭大系」が地方の豪族の作った城を基準に鎌倉城を見て、決定的な間違えを犯した。世界最大の軍隊を迎え撃つ為に、日本の総力を挙げて作った城を巨大過ぎて城とは見抜けなかった訳です。
鎌倉の山の斜面は人工的に直線的な加工をされ、直登が困難な山肌に成っている全容が見えたのが、今では樹木に隠された山です。
モットも 50年前の再現を望むなら、、、空中写真の立体視が在ります。
バーチャルながら、国土地理院地図(電子国土Web) ⇒「地図の種類 トップ」 ⇒「標高・土地の凸凹」 ⇒「赤色立体地図」を選ぶと下の図の様になる。更に「ツール」 ⇒「並べて比較」した状態です。
左下は大仏切通、そして右の中程のブルーのラインが切れた処が小袋坂です。
黄色いラインは、鎌倉城の大手道と考えられる化粧坂より台の馬場(緑のラインで囲ってある)へ抜ける道です。
新田義貞は この黄色いラインの大手道を攻撃した=化粧坂に向けて攻撃した。 と言う事です。
ご覧の通り、この黄色いラインに下から攻め上がる事は無理であった理由は、この図や、過去ブログ「新田軍は化粧坂に2〜4」(2018/10/20以降)や、 「台峰の砦2〜11」(2020/09/24以降)を参照してください。
今回のテーマは、これ等の城郭遺構と,周囲の見処を併せて紹介しようと言う考えでして、鎌倉在住の方には周知の事ですが、これは序盤です。