鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

鎌倉城西側防衛線 大仏より小袋切通

2023年01月30日 | 大鎌倉城

  鎌倉城の切岸に就いては、、、
■鎌倉に城は無かった!なんてね、1~8 (2016/02/24) 
■鎌倉に城は無かった!なんてね、9~12(2016/02/24)
■日本城郭大系  (2015/06/22)
■日本城郭大系2 (2015/06/26)
■鎌倉城の 成り立ち(2015/06/15)
■武家屋敷跡     (2014/10/10)
  以上に書かれていますが、

 これ等の切岸をどの様に感じるか?と言う問題がある。
城としての実感を持感じたくても、樹木に隠された現風景と、60年前の景観は別なモノで、当時の景観を再現したら巨大な防禦施設を実感できます。
モットも 巨大過ぎて視野に入るのは 城全体の数パーセントですから、後世の城郭研究者の常識で鎌倉城を見た時には単なる山に見える為に、鎌倉城を語る文献は無いも同様です。
権威の有る「日本城郭大系」が地方の豪族の作った城を基準に鎌倉城を見て、決定的な間違えを犯した。世界最大の軍隊を迎え撃つ為に、日本の総力を挙げて作った城を巨大過ぎて城とは見抜けなかった訳です。
 鎌倉の山の斜面は人工的に直線的な加工をされ、直登が困難な山肌に成っている全容が見えたのが、今では樹木に隠された山です。 
モットも 50年前の再現を望むなら、、、空中写真の立体視が在ります。

バーチャルながら、国土地理院地図(電子国土Web) ⇒「地図の種類 トップ」 ⇒「標高・土地の凸凹」 ⇒「赤色立体地図」を選ぶと下の図の様になる。更に「ツール」 ⇒「並べて比較」した状態です。

左下は大仏切通、そして右の中程のブルーのラインが切れた処が小袋坂です。
黄色いラインは、鎌倉城の大手道と考えられる化粧坂より台の馬場(緑のラインで囲ってある)へ抜ける道です。
新田義貞は この黄色いラインの大手道を攻撃した=化粧坂に向けて攻撃した。 と言う事です。
ご覧の通り、この黄色いラインに下から攻め上がる事は無理であった理由は、この図や、過去ブログ「新田軍は化粧坂に2〜4」(2018/10/20以降)や、 「台峰の砦2〜11」(2020/09/24以降)を参照してください。

今回のテーマは、これ等の城郭遺構と,周囲の見処を併せて紹介しようと言う考えでして、鎌倉在住の方には周知の事ですが、これは序盤です。

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鎌倉城西側防衛線 稲村ヶ崎より大仏切通

2023年01月16日 | 大鎌倉城

鎌倉城の城壁をご覧になり、如何でしょうか?
注目点は、
自然地形のハズが、、都合よく鎌倉山の峰で囲えたものだ!
そんな好都合な山の峰が本当に有ったのか? 奇跡です。
キット人工的に塞いだ場所も有ったでしょうに、、、(そこ迄 調べた事は無いが、出来過ぎた城壁です。)

新田義貞は陸上より攻めたが、鎌倉軍の防衛線としては、兵を配置す為の峰通し道となり、その下は鎌倉城の城壁である切岸になっている。
現在は樹木伐採を禁止されて放置された山で、山は樹木のベールに覆われ 切岸の痕跡を確認するには想像力を必要と成った。

鎌倉時代から昭和の初めまでの鎌倉の山は里山で住人の燃料として樹木は使われ続けられ岩壁の切岸は「一目瞭然」でした。現代は、樹木が岩に入り込み岩壁崩れの元凶と成り、2019の台風により樹木が岩肌を抱き込んだ状態で風に薙倒されたり、温暖化でグリーンベールは厚みを増し単なる山に見えます。眺望の有った源氏山は、街並みも見えず海も望めない。

下図は、樹木と建物を排除し、赤色で高低差を表現し、急な崖は黒く表現した地図です。 稲村ケ崎より大仏切通し迄の切岸で、ブルーラインの下は崖です。

如何でしょうか?自然地形に手を加えて切岸にしたのですが、、 地方の小さな城とは比較に成らない巨大さと、短い年月で世界一巨大な国の軍隊を迎え撃つ「砦」とも「要塞」とも鎌倉の都を守る「総構の媚を売る訳でも無く、ミタクレを気にした城では有りません。 

下の図。切岸の傾斜が強い場所は、黒く強調した合成写真です。

切岸に近づくと樹々の隙間から切岸を覗く事が出来る場所が有りますが、現実の写真と比べ、樹木の厚みや建物の立体した3Dの状態は無いので注意。

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鎌倉城の城壁

2023年01月16日 | 大鎌倉城

鎌倉の街を囲む城壁が有ります。

城壁に出入りするには鎌倉七口とも称し中身は切通しと坂です。

その他に、新田義貞が鎌倉攻めに使った稲村路と逗子の披露山から逗子市新宿へ下りる古代東海道と間違えられた道が在ります。

ブルーのラインがその城壁の上で在り、下は城壁として切岸と成っている。

敵の想定は、陸地の外側から攻められた時にもその峰の下は切岸で有り、海岸から船で攻められた時には、砂浜の処で防塁が有り、其処が破られたら山に避難し、切岸に守られ攻撃を再開できる構造です。

この構造を、歩いて観察し易いように地図と起伏図を併用して紹介しようとおもいます。

鎌倉城西側防衛線 はその為に書き始めたのですが、、、

書き換えるつもりです。

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