■ 記 2010年07月01日稲村崎成干潟事 序
図は、国土地理院明治15年迅速図
新田義貞の主力は鎌倉の化粧坂を攻めたが、強固で突破できない!城壁の切れた稲村ヶ崎より鎌倉を攻めるのですが、
「合戦の間干潟にて有りし事、かたがた仏神の加護とぞ人申しける」
梅松論にて、冷静な記述で書かれた稲村崎干潟となる現象です。
この干潟が今回のテーマです。
稲村路の存在と、どの場所を新田軍が攻めたかを考察すると、大鎌倉城の戦う砦としての構造が浮かび上がる。
明治15年の地図です。
A極楽寺坂
B五合枡と呼ばれる方形陣地。
C仏法寺(大館宗氏は稲瀬川にで討取られ、残党は退てこの場所に退避する)
D稲村路
E新田義貞が夜中偵察し、これより南が稲村路と言わしめた場所。
F稲村ヶ崎
G潮の満ち引きの差を地図で表した場所。
この地図の焦点は、潮の満ち引きの差です。
この地図では、潮が引いて干潟が出来る場所の記載は無いと言うことです。
但し、明治15年の時点ではの話です。
新田義貞鎌倉攻めの際、梅松論に書かれた稲村路の特徴は、
「稲村崎の波打ち際、石高く道細くして軍勢の通路難儀の所に、俄に塩干て合戦の間干潟にて有りし事、かたがた仏神の加護とぞ人申しける」
この地図からぼ輔の想定した稲村路の(赤くマークしたライン)の検証をしよう!
ット言う訳です。
稲村路の明治時代の波打ち際は、即 崖の下っという様子がこの地図から読み取れると思います。(現状は埋め立てられて実感が湧かない)
数ある古文に書かれた事項の真偽の可否や、資料と符合する程度は?
新田義貞がこの稲村路から鎌倉市内に浸入したとすれば、、
干潟の出来る場所を特定し、稲村ガ崎の先端を渡渉(歩いて水中を渡る)して浸入した話しの真偽性に決着を付けようと言う事です。
■ 記 2010年07月05日稲村崎成干潟事1
新田義貞稲村ヶ崎の奇跡は、この文章から始まった。
> 太平記(国民文庫)より抜粋<http://www.j-texts.com/taihei/thkm2.html>
> ○稲村崎成干潟事
> 去程に、極楽寺の切通へ被向たる大館次郎宗氏、本間に被討て、兵共片瀬・腰
> 越まで、引退ぬと聞へければ、新田義貞逞兵に万余騎を率して、二十一日の夜
> 半許に、片瀬・腰越を打廻り、極楽寺坂へ打莅給ふ。明行月に敵の陣を見給へ
> ば、北は切通まで山高く路嶮きに、木戸を誘へ垣楯を掻て、数万の兵陣を双べ
> て並居たり。南は稲村崎にて、沙頭路狭きに、浪打涯まで逆木を繁く引懸て、
> 澳四五町が程に大船共を並べて、矢倉をかきて横矢に射させんと構たり。誠も
> 此陣の寄手、叶はで引ぬらんも理也。と見給ければ、義貞馬より下給て、甲を
> 脱で海上を遥々と伏拝み、竜神に向て祈誓し給ける。「伝奉る、日本開闢の
> 主、伊勢天照太神は、本地を大日の尊像に隠し、垂跡を滄海の竜神に呈し給
> へりと、吾君其苗裔として、逆臣の為に西海の浪に漂給ふ。義貞今臣たる道を
> 尽ん為に、斧鉞を把て敵陣に臨む。其志偏に王化を資け奉て、蒼生を令安と
> なり。仰願は内海外海の竜神八部、臣が忠義を鑒て、潮を万里の外に退け、道
> を三軍の陣に令開給へ。」と、至信に祈念し、自ら佩給へる金作の太刀を抜
> て、海中へ投給けり。
> .......以後省略.......
この文章が根拠となり、、
明治35年に歴史学者大森金五郎氏は数回ほど渡渉実験をし、
> 「当時は崖下の水に近いところに通路があったのであろう、、長い年月を経た
> ので風浪怒涛の為に次第に崩壊せられたのであろうか、今は跡形もない。それ
> 故、元弘3年5月に、新田義貞が大軍を率いてここを渡渉したと云う事は不可能
> のことではなく、何の不思議も無いことである。」
と結論をだした。
稲村ヶ崎の海浜公園の碑には
> 「今を距る五百八十四年の昔 元弘三年五月二十一日 新田義貞此の岬を廻り
> て鎌倉に進入せんとし 金装の刀を海に投じて 潮を退けんことを海神に祈れ
> りと言うは此の処なり 大正六年三月建之 鎌倉町青年会 」
となっている。
ここで上記の検証に疑問を提起するのですが、、、
太平記の巻10の「稲村崎成干潟事」の文字だけ注目すれば稲村ヶ崎が干上がった事になる。
しかし、
この文中に書いてある事は、これだけではなく、
>「二十一日の夜半許に、片瀬・腰越を打廻り、極楽寺坂へ打莅給ふ。明行
>月に敵の陣を見給へば、北は切通まで山高く路嶮きに、木戸を誘へ垣楯を
>掻て、数万の兵陣を双べて並居たり。南は稲村崎にて、沙頭路狭きに、浪
>打涯まで逆木を繁く引懸て、澳四五町が程に大船共を並べて、矢倉をかき
>て横矢に射させんと構たり。誠も此陣の寄手、叶はで引ぬらんも理也。」
新田軍は極楽寺坂の偵察を出した状況が書かれており。七里ガ浜方面より極楽寺切通しへ向った際、道路の分岐点に立った状況を書かれていると考えられる。この場所は、、、前回「E]と赤字で示した針磨橋と考えられる。
これから北へ一歩進めば、鎌倉軍と合戦が始まる。南へ進路を取れば「稲村崎」!!!
この「稲村崎」は現在の一般常識「七里ガ浜の磯伝い」の稲村ガ崎ではない事が伺える!!
それは前回赤いラインで示した「稲村路」と呼ばれる極楽寺切通しが出来る前から在る道を指して、太平記では「稲村崎」と書かれている。
これらの視点が上記の研究者には無く、太平記を理解をしてない事が伺われる。
針磨橋の碑
(鎌倉町青年団 鎌倉十橋ノ一ニシテ往昔此ノ 附近ニ針磨(針摺)ヲ業トセ シ者住ミシケリトテ此ノ名ア リトイフ)
絵は 月岡芳年「月百姿」:江戸から明治時代の浮世絵師。 礫川浮世絵美術館
■ 記 2010年07月07日稲村崎成干潟事2
>○稲村崎成干潟事 太平記(国民文庫)より抜粋
> .....前略......
>「二十一日の夜半許に、片瀬・腰越を打廻り、極楽寺坂へ打莅給ふ。明行
>月に敵の陣を見給へば、北は切通まで山高く路嶮きに、木戸を誘へ垣楯を
>掻て、数万の兵陣を双べて並居たり。南は稲村崎にて、沙頭路狭きに、浪
>打涯まで逆木を繁く引懸て、澳四五町が程に大船共を並べて、矢倉をかき
>て横矢に射させんと構たり。誠も此陣の寄手、叶はで引ぬらんも理也。」
> .....後略......
新田義貞は七里ガ浜から極楽寺に向け偵察隊を出した。
七里ガ浜の磯伝いは初めから稲村ヶ崎が見える浜ですから、「南は稲村崎にて、、」等と言う場所は無い。
江ノ電の電車の脇を極楽寺に向かい針磨橋で、分かれ道(稲村路の分岐)となる状態ならば「南は稲村崎にて、、」という状況が生まれる。
「北は切通まで山高く路ケワシく、数万の兵が盾を構えて待ち受けている。
南は稲村崎で波打ち際の砂浜狭くの崖まで逆木で通れなく、船から岸に向け弓矢を構えている。これでは攻めても、引き下がる他は無い!(大館が討ち取られたのも無理は無い。)」
北の極楽寺切通しが目的ではなく、南の稲村路を通り「稲村崎」を攻めるために播磨橋に着いた状況が書かれています。
それ以前の状況は、
新田義貞は軍勢を三手に分け、一方は極楽寺へ、他方は巨福呂坂へ、残る一方は義貞が直接指揮し仮粧坂へ。
しかし、巨福呂坂も仮粧坂も難攻不落状態であったのです。
そんな強固な鎌倉の防衛で、唯一盲点が城壁の切れた海岸際であり、、
極楽寺の攻撃は初期から稲村崎を経て鎌倉内に踏み込む事が出来たのです。※1
(もっとも、義貞勢浜手の大将大館宗氏は稲瀬川において討取られ、11人塚の顛末となり名を残している。)
大将大館宗氏が鎌倉城の弱点を死んで証明した稲村崎から攻撃を決断するのです。
新田義貞は自ら指揮し化粧坂の軍の内二万余騎を連れて、稲村崎を目指し移動を始めた。
そして、太平記の次の文章では、
「誠も此陣の寄手、叶はで引ぬらんも理也。と見給ければ、義貞馬より下給て、甲を脱で海上を遥々と伏拝み、竜神に向て祈誓し給ける。」
そこで、新田義貞は播磨橋より南の稲村路の海に出た場所で馬を降り、兜を脱で海を伏拝む事になります。
新田軍は、七里ガ浜から黄色い線を通り播磨橋(E)へ!
播磨橋から赤い線を通り稲村崎(D)に着き新田義貞は馬を下りた。
※1 「梅松論」では、五月十八日の未刻ばかりに(=午後二時頃)義貞の勢は稲村崎を経て前浜の在家を焼き払ふ煙見えければ、鎌倉中の騒ぎ手足を置く所なく、あはてふためきける有様たとへていはんかたぞなき。」
■ 記 2010年07月10日稲村崎成干潟事3
地図は明治15年の迅速図であり、、写真は由比ガ浜より霊仙岳を写した物です。
時期は、関東大震災の直後の岩壁崩壊の状態を写したものですが、、注目は岩壁で無く海です。
この場所こそ新田義貞が「稲村崎成干潟事」を起こした場所です。
波が無いのは??何故でしょう???
海に赤く淡いラインを書きましたが、、海面より上の岩礁で、写真の範囲は総て干潟です。
関東大震災により、、海面より土地は1m浮き上ったのです。
関東大震災以来、、干潟は当たり前の現象になってしまった!!!
どんなに穏やかな日でも波が有るのが海です。
波の無い理由は、波打ち際はもっと沖にあり、写真に写る干潟まで波が来ないだけの話しです。
この干潟に目を付けた地元民が居り、考えた事は干潟を埋め立てて土地にする事でした。
齋藤養之助氏顕徳碑
この霊仙ヶ崎埋立地は、昭和十年、当時の有志により計画造成せられ、
その後 斎藤氏の所有するところとなったが、昭和二十四年九月十七日
斎藤氏は本市の伸展は文化観光施設の充実にあるとの信念から、この
埋立地の内壱萬坪を将来の都市計画用地として欣然無償供与せられた
のである。 道路開鑿記念之碑 昭和十三年三月建
関東大震災1923年(大正12年)後埋め立ては道路開鑿記念之碑の昭和十三年の間は15年間で、この間しか干潟は見れなかった。
関東大震災以後「稲村崎成干潟事」は当たり前の話であったと思います。
震災前の明治の人は、干潟の奇跡を考えた。
埋め立て後の人は干潟の状況は知らずに、、、明治の人の言葉を信じた!
こうして、、稲村ガ崎の奇跡は作り上げられた。
現在は、埋め立てた場所≒干潟の有った場所です。
■ 記 2010年07月12日 稲村崎成干潟事4
稲村崎の新田義貞!その後に起きたことは?
「太平記」(1374)巻10稲村崎干潟となる事
(www.j-texts.com/yaku/taiheiky.html )
......前略......
龍神は其願を聴き入れたものか、其夜月の入る頃、これまで嘗て
干た事のない稲村崎が俄に二十余町も干上つて、砂原が広々と開け、
横矢を射かけようと待ち構へてゐた五六千の兵船は、潮と共に退
いて沖の方遠くに浮き漂された。全く不思議だ、こんな不思議な
事はあるものでない。
......後略......
「梅松論」では、
稲村崎の波打ち際、石高く道細くして軍勢の通路難儀の所に、
俄に塩干て合戦の間干潟にて有りし事、かたがた仏神の加護と
ぞ人申しける。
以上の様な結果が起きました。
ここで重要なの事は「太平記」と「梅松論」と言う立場の違う著者が違う言葉で同じ状況を述べていることで、異常気象の存在を確認できる事です。
齋藤養之助氏顕徳碑 この霊仙ヶ崎埋立地は、昭和十年、当時の有志により計画造成せられ、 道路開鑿記念之碑 昭和十三年三月建
この道路は現在のルート134号で、埋立られた干潟の一番外側と考えられます。
引き潮により、この道路まで鎌倉軍の船は追いやられたとなれば、船から波打ち際までは距離が長すぎる、、たとえ届いても横矢で狙い撃ちできる距離ではない。
干潟は20町であったそうです。この埋立地だけで10町の面積で、この程度の誇張は、許せる範囲
とするぼ輔でした。
この写真は、、海底が良く映し出された写真です。海底の岩の状態をご覧ください。
真っ青の海に対し、緑の海草が有る岩礁が海底に写っています。
この様な岩の状況は、逗子の海岸でも見られ、不如帰(ホトトギス)の碑が海底から突き出しており、大潮にはこの海の中を歩けるのです。
この地図の状態で干潟が出来れば、、、稲村路から干潟を通り簡単に無理なく攻め込める。
太平記の「稲村崎干潟となる事」の項目は、調べるほどに、奇跡でなく、無理なく起きた異常気象とぼ輔には感じる。
大潮の時は、その前後数日間は、潮の引きが大きく出る。
細かく大潮の日時を、数日前!などとノタマウ方も居られますが、机上論でなく、、その程度を実感をして頂きたいと思います。
異常気象で潮位が1m上り霊仙崎(稲村路)の岩場が干上がっても、稲村ガ崎の周囲の岩礁は海中に在ります。
現在言われる稲村ガ崎外海が干上がった訳ではないのがご理解頂けると思います。
「梅松論」にて、 合戦の間干潟にて有りし事、 と文章として異常気象と書かれています。
■ 記 2010年07月14日稲村崎成干潟事5
浜の手の大将大館宗氏が鎌倉城の弱点である進入経路を死んで証明した。それが針磨橋から南の稲村崎へ向かう文献に書かれた稲村路の存在。
従来説は太平記を基にしながら、詳細な記述を無視して現在の七里ガ浜の磯伝いの稲村ガ崎を回り攻め込んだと誤解したわけです。
稲村路という古来から道の存在を知らずに「稲村崎」を七里ガ浜の磯伝いと考えた!
稲村路を認識した上で「太平記」を読むと、文章に矛盾を感じないで理解できる筈です。
ぼ輔だけの考えではなく、絵でもその状況を意識して描かれた物があります。
時刻は二十一日の夜半(頃明け方)であり、この時に総攻撃が始まり、翌日には「高時竝一門以下東勝寺に於て自害の事」で鎌倉は終わるのです。
この絵は、稲村路より稲村崎へ出た特徴を持った新田義貞の絵です。
山間の道に軍が連なり、、左の山は稲村ヶ崎で、右の山は霊仙岳側です。