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鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

稲村崎成干潟事 上巻

2014年11月28日 | 稲村ヶ崎伝説

■ 記 2010年07月01日稲村崎成干潟事 序

図は、国土地理院明治15年迅速図
新田義貞の主力は鎌倉の化粧坂を攻めたが、強固で突破できない!城壁の切れた稲村ヶ崎より鎌倉を攻めるのですが、
「合戦の間干潟にて有りし事、かたがた仏神の加護とぞ人申しける」
梅松論にて、冷静な記述で書かれた稲村崎干潟となる現象です。
この干潟が今回のテーマです。
稲村路の存在と、どの場所を新田軍が攻めたかを考察すると、大鎌倉城の戦う砦としての構造が浮かび上がる。

明治15年の地図です。
A極楽寺坂
B五合枡と呼ばれる方形陣地。
C仏法寺(大館宗氏は稲瀬川にで討取られ、残党は退てこの場所に退避する)
D稲村路
E新田義貞が夜中偵察し、これより南が稲村路と言わしめた場所。
F稲村ヶ崎
G潮の満ち引きの差を地図で表した場所。

この地図の焦点は、潮の満ち引きの差です。
この地図では、潮が引いて干潟が出来る場所の記載は無いと言うことです。
但し、明治15年の時点ではの話です。

新田義貞鎌倉攻めの際、梅松論に書かれた稲村路の特徴は、
「稲村崎の波打ち際、石高く道細くして軍勢の通路難儀の所に、俄に塩干て合戦の間干潟にて有りし事、かたがた仏神の加護とぞ人申しける」
この地図からぼ輔の想定した稲村路の(赤くマークしたライン)の検証をしよう!
ット言う訳です。
稲村路の明治時代の波打ち際は、即 崖の下っという様子がこの地図から読み取れると思います。(現状は埋め立てられて実感が湧かない)
数ある古文に書かれた事項の真偽の可否や、資料と符合する程度は?
新田義貞がこの稲村路から鎌倉市内に浸入したとすれば、、
干潟の出来る場所を特定し、稲村ガ崎の先端を渡渉(歩いて水中を渡る)して浸入した話しの真偽性に決着を付けようと言う事です。


■ 記 2010年07月05日稲村崎成干潟事1

 新田義貞稲村ヶ崎の奇跡は、この文章から始まった。

> 太平記(国民文庫)より抜粋<http://www.j-texts.com/taihei/thkm2.html>
> ○稲村崎成干潟事 
> 去程に、極楽寺の切通へ被向たる大館次郎宗氏、本間に被討て、兵共片瀬・腰
> 越まで、引退ぬと聞へければ、新田義貞逞兵に万余騎を率して、二十一日の夜
> 半許に、片瀬・腰越を打廻り、極楽寺坂へ打莅給ふ。明行月に敵の陣を見給へ
> ば、北は切通まで山高く路嶮きに、木戸を誘へ垣楯を掻て、数万の兵陣を双べ
> て並居たり。南は稲村崎にて、沙頭路狭きに、浪打涯まで逆木を繁く引懸て、
> 澳四五町が程に大船共を並べて、矢倉をかきて横矢に射させんと構たり。誠も
> 此陣の寄手、叶はで引ぬらんも理也。と見給ければ、義貞馬より下給て、甲を
> 脱で海上を遥々と伏拝み、竜神に向て祈誓し給ける。「伝奉る、日本開闢の
> 主、伊勢天照太神は、本地を大日の尊像に隠し、垂跡を滄海の竜神に呈し給
> へりと、吾君其苗裔として、逆臣の為に西海の浪に漂給ふ。義貞今臣たる道を
> 尽ん為に、斧鉞を把て敵陣に臨む。其志偏に王化を資け奉て、蒼生を令安と
> なり。仰願は内海外海の竜神八部、臣が忠義を鑒て、潮を万里の外に退け、道
> を三軍の陣に令開給へ。」と、至信に祈念し、自ら佩給へる金作の太刀を抜
> て、海中へ投給けり。
> .......以後省略.......


  この文章が根拠となり、、
  明治35年に歴史学者大森金五郎氏は数回ほど渡渉実験をし、
> 「当時は崖下の水に近いところに通路があったのであろう、、長い年月を経た
> ので風浪怒涛の為に次第に崩壊せられたのであろうか、今は跡形もない。それ
> 故、元弘3年5月に、新田義貞が大軍を率いてここを渡渉したと云う事は不可能
> のことではなく、何の不思議も無いことである。」

と結論をだした。

     稲村ヶ崎の海浜公園の碑には
> 「今を距る五百八十四年の昔 元弘三年五月二十一日 新田義貞此の岬を廻り
> て鎌倉に進入せんとし 金装の刀を海に投じて 潮を退けんことを海神に祈れ
> りと言うは此の処なり      大正六年三月建之   鎌倉町青年会 」

     となっている。

ここで上記の検証に疑問を提起するのですが、、、
太平記の巻10の「稲村崎成干潟事」の文字だけ注目すれば稲村ヶ崎が干上がった事になる。
しかし、
この文中に書いてある事は、これだけではなく、
>「二十一日の夜半許に、片瀬・腰越を打廻り、極楽寺坂へ打莅給ふ。明行
>月に敵の陣を見給へば、北は切通まで山高く路嶮きに、木戸を誘へ垣楯を
>掻て、数万の兵陣を双べて並居たり。南は稲村崎にて、沙頭路狭きに、浪
>打涯まで逆木を繁く引懸て、澳四五町が程に大船共を並べて、矢倉をかき
>て横矢に射させんと構たり。誠も此陣の寄手、叶はで引ぬらんも理也。」


新田軍は極楽寺坂の偵察を出した状況が書かれており。七里ガ浜方面より極楽寺切通しへ向った際、道路の分岐点に立った状況を書かれていると考えられる。この場所は、、、前回「E]と赤字で示した針磨橋と考えられる。
これから北へ一歩進めば、鎌倉軍と合戦が始まる。南へ進路を取れば「稲村崎」!!!
この「稲村崎」は現在の一般常識「七里ガ浜の磯伝い」の稲村ガ崎ではない事が伺える!!
それは前回赤いラインで示した「稲村路」と呼ばれる極楽寺切通しが出来る前から在る道を指して、太平記では「稲村崎」と書かれている。
これらの視点が上記の研究者には無く、太平記を理解をしてない事が伺われる。

針磨橋の碑
(鎌倉町青年団 鎌倉十橋ノ一ニシテ往昔此ノ 附近ニ針磨(針摺)ヲ業トセ シ者住ミシケリトテ此ノ名ア リトイフ)

絵は 月岡芳年「月百姿」:江戸から明治時代の浮世絵師。 礫川浮世絵美術館


■ 記 2010年07月07日稲村崎成干潟事2

>○稲村崎成干潟事  太平記(国民文庫)より抜粋
>   .....前略......
>「二十一日の夜半許に、片瀬・腰越を打廻り、極楽寺坂へ打莅給ふ。明行
>月に敵の陣を見給へば、北は切通まで山高く路嶮きに、木戸を誘へ垣楯を
>掻て、数万の兵陣を双べて並居たり。南は稲村崎にて、沙頭路狭きに、浪
>打涯まで逆木を繁く引懸て、澳四五町が程に大船共を並べて、矢倉をかき
>て横矢に射させんと構たり。誠も此陣の寄手、叶はで引ぬらんも理也。」
>   .....後略...... 


 新田義貞は七里ガ浜から極楽寺に向け偵察隊を出した。
七里ガ浜の磯伝いは初めから稲村ヶ崎が見える浜ですから、「南は稲村崎にて、、」等と言う場所は無い。
江ノ電の電車の脇を極楽寺に向かい針磨橋で、分かれ道(稲村路の分岐)となる状態ならば「南は稲村崎にて、、」という状況が生まれる。
「北は切通まで山高く路ケワシく、数万の兵が盾を構えて待ち受けている。
 南は稲村崎で波打ち際の砂浜狭くの崖まで逆木で通れなく、船から岸に向け弓矢を構えている。これでは攻めても、引き下がる他は無い!(大館が討ち取られたのも無理は無い。)」
北の極楽寺切通しが目的ではなく、南の稲村路を通り「稲村崎」を攻めるために播磨橋に着いた状況が書かれています。

それ以前の状況は、
新田義貞は軍勢を三手に分け、一方は極楽寺へ、他方は巨福呂坂へ、残る一方は義貞が直接指揮し仮粧坂へ。
しかし、巨福呂坂も仮粧坂も難攻不落状態であったのです。

そんな強固な鎌倉の防衛で、唯一盲点が城壁の切れた海岸際であり、、
極楽寺の攻撃は初期から稲村崎を経て鎌倉内に踏み込む事が出来たのです。※1
(もっとも、義貞勢浜手の大将大館宗氏は稲瀬川において討取られ、11人塚の顛末となり名を残している。)
大将大館宗氏が鎌倉城の弱点を死んで証明した稲村崎から攻撃を決断するのです。
新田義貞は自ら指揮し化粧坂の軍の内二万余騎を連れて、稲村崎を目指し移動を始めた。

そして、太平記の次の文章では、
「誠も此陣の寄手、叶はで引ぬらんも理也。と見給ければ、義貞馬より下給て、甲を脱で海上を遥々と伏拝み、竜神に向て祈誓し給ける。」

そこで、新田義貞は播磨橋より南の稲村路の海に出た場所で馬を降り、兜を脱で海を伏拝む事になります。
新田軍は、七里ガ浜から黄色い線を通り播磨橋(E)へ!
播磨橋から赤い線を通り稲村崎(D)に着き新田義貞は馬を下りた。

※1 「梅松論」では、五月十八日の未刻ばかりに(=午後二時頃)義貞の勢は稲村崎を経て前浜の在家を焼き払ふ煙見えければ、鎌倉中の騒ぎ手足を置く所なく、あはてふためきける有様たとへていはんかたぞなき。」


 記 2010年07月10日稲村崎成干潟事3

地図は明治15年の迅速図であり、、写真は由比ガ浜より霊仙岳を写した物です。
時期は、関東大震災の直後の岩壁崩壊の状態を写したものですが、、注目は岩壁で無く海です。
この場所こそ新田義貞が「稲村崎成干潟事」を起こした場所です。
波が無いのは??何故でしょう???
海に赤く淡いラインを書きましたが、、海面より上の岩礁で、写真の範囲は総て干潟です。
関東大震災により、、海面より土地は1m浮き上ったのです。
関東大震災以来、、干潟は当たり前の現象になってしまった!!!

どんなに穏やかな日でも波が有るのが海です。
波の無い理由は、波打ち際はもっと沖にあり、写真に写る干潟まで波が来ないだけの話しです。
この干潟に目を付けた地元民が居り、考えた事は干潟を埋め立てて土地にする事でした。
  齋藤養之助氏顕徳碑 
この霊仙ヶ崎埋立地は、昭和十年、当時の有志により計画造成せられ、
その後 斎藤氏の所有するところとなったが、昭和二十四年九月十七日
斎藤氏は本市の伸展は文化観光施設の充実にあるとの信念から、この
埋立地の内壱萬坪を将来の都市計画用地として欣然無償供与せられた
のである。 道路開鑿記念之碑   昭和十三年三月建 


関東大震災1923年(大正12年)後埋め立ては道路開鑿記念之碑の昭和十三年の間は15年間で、この間しか干潟は見れなかった。
関東大震災以後「稲村崎成干潟事」は当たり前の話であったと思います。
震災前の明治の人は、干潟の奇跡を考えた。
埋め立て後の人は干潟の状況は知らずに、、、明治の人の言葉を信じた!
こうして、、稲村ガ崎の奇跡は作り上げられた。
現在は、埋め立てた場所≒干潟の有った場所です。


■ 記 2010年07月12日  稲村崎成干潟事4

稲村崎の新田義貞!その後に起きたことは?
 「太平記」(1374)巻10稲村崎干潟となる事

(www.j-texts.com/yaku/taiheiky.html )
 ......前略......
 龍神は其願を聴き入れたものか、其夜月の入る頃、これまで嘗て
 干た事のない稲村崎が俄に二十余町も干上つて、砂原が広々と開け、
 横矢を射かけようと待ち構へてゐた五六千の兵船は、潮と共に退
 いて沖の方遠くに浮き漂された。全く不思議だ、こんな不思議な
 事はあるものでない。
......後略......


「梅松論」では、
 稲村崎の波打ち際、石高く道細くして軍勢の通路難儀の所に、
 俄に塩干て合戦の間干潟にて有りし事、かたがた仏神の加護と
 ぞ人申しける。

以上の様な結果が起きました。
ここで重要なの事は「太平記」と「梅松論」と言う立場の違う著者が違う言葉で同じ状況を述べていることで、異常気象の存在を確認できる事です。
  齋藤養之助氏顕徳碑  この霊仙ヶ崎埋立地は、昭和十年、当時の有志により計画造成せられ、      道路開鑿記念之碑   昭和十三年三月建 


この道路は現在のルート134号で、埋立られた干潟の一番外側と考えられます。
引き潮により、この道路まで鎌倉軍の船は追いやられたとなれば、船から波打ち際までは距離が長すぎる、、たとえ届いても横矢で狙い撃ちできる距離ではない。

干潟は20町であったそうです。この埋立地だけで10町の面積で、この程度の誇張は、許せる範囲

とするぼ輔でした。

この写真は、、海底が良く映し出された写真です。海底の岩の状態をご覧ください。
真っ青の海に対し、緑の海草が有る岩礁が海底に写っています。

この様な岩の状況は、逗子の海岸でも見られ、不如帰(ホトトギス)の碑が海底から突き出しており、大潮にはこの海の中を歩けるのです。

この地図の状態で干潟が出来れば、、、稲村路から干潟を通り簡単に無理なく攻め込める。
太平記の「稲村崎干潟となる事」の項目は、調べるほどに、奇跡でなく、無理なく起きた異常気象とぼ輔には感じる。
大潮の時は、その前後数日間は、潮の引きが大きく出る。
細かく大潮の日時を、数日前!などとノタマウ方も居られますが、机上論でなく、、その程度を実感をして頂きたいと思います。
異常気象で潮位が1m上り霊仙崎(稲村路)の岩場が干上がっても、稲村ガ崎の周囲の岩礁は海中に在ります。
現在言われる稲村ガ崎外海が干上がった訳ではないのがご理解頂けると思います。

「梅松論」にて、 合戦の間干潟にて有りし事、 と文章として異常気象と書かれています。



■ 記 2010年07月14日稲村崎成干潟事5

浜の手の大将大館宗氏が鎌倉城の弱点である進入経路を死んで証明した。それが針磨橋から南の稲村崎へ向かう文献に書かれた稲村路の存在。
従来説は太平記を基にしながら、詳細な記述を無視して現在の七里ガ浜の磯伝いの稲村ガ崎を回り攻め込んだと誤解したわけです。
稲村路という古来から道の存在を知らずに「稲村崎」を七里ガ浜の磯伝いと考えた!

稲村路を認識した上で「太平記」を読むと、文章に矛盾を感じないで理解できる筈です。
ぼ輔だけの考えではなく、絵でもその状況を意識して描かれた物があります。

時刻は二十一日の夜半(頃明け方)であり、この時に総攻撃が始まり、翌日には「高時竝一門以下東勝寺に於て自害の事」で鎌倉は終わるのです。

この絵は、稲村路より稲村崎へ出た特徴を持った新田義貞の絵です。
山間の道に軍が連なり、、左の山は稲村ヶ崎で、右の山は霊仙岳側です。

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稲村崎成干潟事 中巻

2014年11月28日 | 稲村ヶ崎伝説

■ 記 2010年07月18日   稲村崎成干潟事6

新田義貞は七里ガ浜から極楽寺に向け軍を進め針磨橋で、分かれ道となった。
「北は切通まで山高く路ケワシく、数万の兵が盾を構えて待ち受けている。
 南は稲村崎で波打ち際の砂浜狭くの崖まで逆木で通れなく、船から岸に向け弓矢を構えている。」と太平記の稲村崎成干潟事に書かれたこの時の布陣を考えてみましょう。

この布陣の基になる情報は、
上記の太平記の針磨橋の場面、新田軍が居ても鎌倉軍は攻撃できず、睨み合った状態。
この根拠から新田軍は稲村路の海に出る処まで使えたであろう状態が一つ。
陣鐘山の伝承が一つ。
新田軍の総攻撃に連動させて、霊仙山を三木党が襲った事の三項目を組み合わせると、、
図の様な布陣が考えられる。

江ノ電稲村ガ崎駅の背後の山で、新田義貞が鎌倉攻めの際に山上に陣鐘を吊るしたという伝説がある。対面する霊仙山の鎌倉軍を鐘の音で威嚇したのでしょう。
尾根は南北に長く、北は、大仏坂に対面する場所で、陣鐘山~一升枡砦~貯水場~大仏坂へ続く尾根です。地図では尾根伝いに攻め込めば良さそうですが、、実際は山城構成の戦う場所で、尾根は占拠しても、尾根伝いに攻め込むことは無理で有ったのです。

新田義貞は陣鐘山の西にある聖福寺に陣を置き、極楽寺坂を攻めたそうです。
この布陣をしたのは、稲瀬川において討取られた浜手の大将大館宗氏であったか、、、新田義貞が稲村に入ってからか?
想像するのは、
稲村ヶ崎から極楽寺坂の防衛線を打ち破る時に、端の海よりの陣地から潰して行くのが常套手段と考えます。
数日を懸けて砦の中の鎌倉軍を追い散らし稲村と陣鐘山を手中に収めた。
勿論、腰越まで新田軍を引かせた話もありますが、、奪われた砦を奪い返すのは、数倍の力が無ければ出来ないことで鎌倉軍は余力が無かったと想像します。
この様な布陣を取っていたなら、針摺橋は敵味方の境です。
そして、霊仙山と稲村ヶ崎の間に稲村路が有る訳ですが、稲村ヶ崎の砦は新田軍が占拠した状態が考えられますが、無視しても稲村路を攻めるには峰の上から谷の下の稲村路は距離が有り過ぎ、鎌倉軍は攻撃できないので、稲村路から稲村ヶ崎の海に出るのはた易き事と考えます。
その後三木党が新田軍総攻撃に合わせて、仏法寺を占拠した記録もあるそうです。


■ 記 2010年07月23日   稲村崎成干潟事7

稲村ガ崎はどの様な砦であったのか?
私自身が、稲村ヶ崎が風光明媚な観光地と認識しても、
戦いの砦としての無骨さを感じた事はは無かったのです。
右の写真は震災前の明治の写真です。
平らな平場と垂直な崖!とても人工的な工作の成された砦!
石組みの城壁より攻めるに困難さを感じる人工的な崖です。
「鎌倉には城が無かった!」其処にあるのは、石切り場や畑の跡だけである!
と陳腐な説を吹聴している人がいるようですが、、
この痕跡と、戦った経過とを、説明して欲しいものです。
この様な防御が無ければ、一日と持たずに攻め込まれる。
決して、、守りが弱かったのではなく、攻め手が強烈であった事と、異常気象に守りを崩されたと想像します。

現状は 木が茂り、、本来の形が見えなくなっている。
手を加えないことが自然保護ではない証明です。
古来より里山は、人の手でコマメニ伐採されていた。
お爺さんは、山に芝刈りに行ったのです。
鎌倉は、樹木を「自然保護」という大儀の放置処分をした。
巨大に伸びた樹木の根が岩盤を破壊し始めている。アンコールワットの二の舞です。


■ 記 2010年07月27日  稲村崎成干潟事 大潮

このグラフは今年の潮位を標高で表したものです。
OKADAとされているのは、伊豆大島の岡田です。
大潮の時は、一日一回1mほど潮が引きます。
大潮の前後数日は、潮の引きが大きいのを確認できると思います。
この様な訳で、大潮の日から多少ずれても潮の引きは、それなりに大きいのです。
大潮の特定日を問題にするのは、海の潮の程度を知らない机上論で、程度の問題を考慮に入れて理論を展開して欲しいものです。
18日に干潮があり、大館宗氏が鎌倉に深入りして討ち取られ、21日の干潮に新田義貞が鎌倉攻めを行った理由でその間4日です。
グラフから見て、、この数日は時間を選びさえすれば潮が大きく引いていた!!
っと ぼ輔は考えるのです、、、

一番の問題は、
「干潟の時刻や日付が合わない! だから太平記の記述が間違えている!!!」
その考えはチョット待て!書いてあるのは太平記だけでは無い事に注意して欲しい。
幾つかの著者が違う本でも、日付は符合している。

日にちの計算は、確実なのか??
当時の暦の日付を西洋暦に置き換える事が確実に出来るのでしょうか??
その辺りに不審を感じる「ぼ輔」です。
書いてあることに誇張は感じても、書かれた事が起きたとぼ輔は考えています。

皆さんは如何に感じますか?

◎◎◎◎コメント◎◎◎
長潮 (三品)
2010-08-04 22:02:23
コメントが遅くなってしまいました。
やっと、謎が解けそうです。
面白いものを見つけました。

下弦の月を過ぎたころは長潮と言うそうです。
http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KAN6/mame/topic1.html

今でも、由比が浜は、長潮の時、「潮位も低く、砂浜の利用面積が増える」と
いうことです。
http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KAN6/mame/topic1.html

それから、大潮のころは、満潮が明け方三時と夕方五時です。
一方、長潮のころは、干潮が明け方三時と午後三時です。
ということは、戦を始める明け方、薄明のころ、
大潮だと浜が渡れません。長潮だと、ちょうど干潮で浜が
渡りやすいのです。
http://www6.kaiho.mlit.go.jp/tokyowan/currenttide/currenttideindex.htm

長潮、 (三品)
2010-08-04 22:03:54
URLが一つ違ってました。これです。
http://www.city.kamakura.kanagawa.jp/kisya/data/2010/20100212-3.html

Unknown (長潮、)
2010-08-05 20:09:38
もう一つも、違ってました。
http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KAN3/kaisyo/kaikyo/suisan/index.cgi?mode=serch&basho=28&year=2010&month=7


■ 記 2010年08月02日  稲村崎成干潟事8

陣鐘の峰
この峰を占領しても、鎌倉勢を有利に攻撃する事にはならない。
この峰から兵を繰り出して直接極楽寺坂を攻める事が出来ない。
何故なら、守り易く強固な砦は、攻め込む相手を攻撃するには好都合でも、砦から打って出て相手を攻撃する事は無理な構造です。
よって、極楽寺坂に降りたくても断崖で降りられない。一旦七里ガ浜へ降りてから攻撃する手順が必要です。
利点があるとすれば、唯一「陣鐘の峰」から極楽寺坂のくぼみを通し鎌倉の浜が見れる場所なのです。
軍を指揮する者にとって、とても必要な鎌倉の中の情報が外部から見える場所です。
以前ぼ輔が見たイメージを絵にしてみました。(イメージであり、現在もこの様かは樹木の育成により不明。)
極楽寺の忍性墓上の峰に相当する場所からの景色です。


■ 記 2010年08月07日稲村崎成干潟事9

!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
気象庁   気象統計情報より
異常潮位
 近年、日本沿岸では平均的な海面水位が高い状態が続いており、浸水害などの恐れが高まっている。ここでは、数週間を超えて広範囲に潮位が高い(低い)状況を引き起こす異常潮位について、その発生要因、最近の事例、長期的な変化などを解説する。データ解析の詳細は(4)で記述する。
(1)「異常潮位」とは
 通常、海面は1日にほぼ2回、規則的に昇降を繰り返し、その高さと時刻は地球と月および太陽の運行からあらかじめ推測することが可能で、「平常潮位」や「天文潮」と呼ばれる。しかし、実際に観測される潮位は、さまざまな原因で平常潮位と異なり、観測される潮位と平常潮位の差を潮位偏差と呼ぶ。
 潮位偏差を生じる代表的なものには、台風などで起こる高潮や地震で引き起こされる津波があるが、潮位偏差の高い(または低い)状態が広範囲に数週間を超えて長期間続くことがある。これが異常潮位と呼ばれる現象である。この異常潮位という現象は、季節に関係なく発生しているが、平常潮位が年間でも高くなる夏から秋にかけて異常潮位が起きると浸水被害などが発生する。

1 近年発生した主な異常潮位
1999年10月   10月上旬~11月中旬   東海~紀伊   海流の変動  浸水・冠水
2001年7月   7月上旬~9月上旬   沖縄本島    暖水渦    浸水・冠水
2001年9月   9月上旬~10月中旬   東海~九州   海流の変動  浸水・冠水
2003年8月   8月下旬~9月下旬   沖縄本島    暖水渦    浸水・冠水
2004年6月   2004年6月~翌2月    東海~紀伊   海流の変動
!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

以上の文は気象庁のHPより、借用しました。
災害防止の都合上、高潮が問題になっていますが、同様に引き潮も在ると考えています。
海流の問題や、高気圧で海面が低くなる事が書かれています。
発生回数もグラフの通りの回数が発生しています。

いや~! 他人の存在は大事な事で、、、
三品さんの書き込みより大事な事を思い出したのです。
太陰暦です。
昔は、15日の夜は必ず満月であった。
18日は中潮 にて、大館宗氏が鎌倉に侵入。
19日は中潮
20日は中潮
21日は中潮 にて、新田義貞は稲村より鎌倉市内へ。
22日は小潮 にて、鎌倉最後の日
23日は小潮 下弦の月
日付は月の満ち欠けで数えていた当時に日付の間違いは考えられない。
通常の潮の引き方ではなく、異常気象であったと考えざるおえない。
その様な処から、、
今回の異常潮位を引き出すことになった訳です。
その異常で在った事の根拠も必要でしょうね!!!
その根拠は、太平記、梅松論に「異常な事態であった。」事が書かれている。
「暦からその日は大潮で無い! 時刻が合わない!」 そんな理屈は学者の机上論であり、
文献を無視した考えで、整合性が無い。

その手の理屈は、、、自説を主張するあまり、全体との調和を崩しており、非科学的です。


■ 記 2010年08月25日  稲村崎成干潟事10

写真は、材木座より見た明治の稲村、霊仙岳。
 そう言えば、稲村ジェーンの話がありましたね、、、
私の知っているのは、干潟が埋め立てられる以前、この場所は大波の名所であったそうな!
遠浅の浜は良い波が出るのです。
その様な理由でこの場所でサーフィンをやった連中がいた。
現代的なボードでは無いですよ!
埋め立て後、この波は無くなった。

1960年代、ぼ輔が鎌倉でヨットをやった。鎌倉の海で遊ぶ人も殆ど居ない時代です。
秋から冬にかけて、由比ガ浜でも七里ガ浜でも遊んでいるのはぼ輔だけ!
冬の風の中セーリングボートは波を被って寒いのです。それでも遊ぶために、ウェットスーツを買い込んでヨットに乗った。
湘南で潜水用のウェットスーツを防寒用に使ったのは、ぼ輔が最初でした。

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稲村崎成干潟事 下巻

2014年11月28日 | 稲村ヶ崎伝説

■ 記 2010年09月28日 稲村崎成干潟事 11

写真を写した場所の直下は、新田義貞が陣を置いた正福寺跡で七里ガ浜まで直線的な谷になっている。
この谷は新田軍が占拠し、陣鐘の峰を越した東は、針擦橋や極楽寺の有る谷で鎌倉軍が待ち構える。
この谷から陣鐘の峰を攻撃し乗っ取るのも困難ですが、どれ程困難か?
陣鐘の峰を歩く事で、実感して欲しい物です。

異常潮位の事!
 第一に、、、
幕府軍は稲村路に逆木を作り通行出来ないようにした。
当然通常の引き潮では通れない様に逆木は配置された。
逆木で手こずる新田軍を船上から矢で狙い撃ちをする計画であった訳です。
それが、計画通りには成らなかった理由は、
逆木の岸から更に遠くの外海迄潮が引いた。
その結果、横矢を射る位置の海面に岩が顔を出し、船は更に沖へ移動したので、新田軍に矢は届かなかった。
新田軍は、船の横矢で狙い撃ちをされる事も無く通過した!
鎌倉幕府軍は、引き潮の程度を知った上で逆木を作った筈です。
考えられるのは、地元の人間ですら想像しない異常な潮の引き方であった根拠です。

第二は 梅松論ですが、、
「爰に不思議なりしは、稲村崎の波打ち際、
 石高く道細くして軍勢の通路難儀の所に、
 俄に塩干て合戦の間干潟にて有りし事、
 かたがた仏神の加護とぞ人申しける。」。

とあります。
単なる大潮の引潮とは違い、長い時間潮が引いていたと書いてある。
満潮から引潮になり、再度満潮になるには12時間です。中身の潮が引いた時間は実質6時間と決まっています。
時間的にも異常な引き潮であったのです。
大館宗氏が鎌倉市内に深入りして討ち死にした日はすでに引潮の異常は始まっていたと考えられ、鎌倉市内に入り込めた。
起きた亊は「塩干て合戦の間干潟にて有りし事」であり、潮が引き岩礁が現れその上を歩ける事です。

別の視点から書かれた太平記の「稲村崎成干潟事」を加味すれば、、
自然現象の干潟の符合は、絵空事では無く、立場の違う複数の人が書き残している現象である事が理解できるでしょう。
明治の歴史学者の大森金五郎氏が引き潮のときに徒渉を試み、海中を渡るのはそれほど困難ではないという結果でした。これは文献を無視した実験で「干潟」の意味を理解していない非合理な実験と、考えるのです。
干潟の上を歩くのと、腰やお腹まで海水に漬かりながら「困難では無く徒渉する」のは中身が違います。

■ 記 2011年01月24日  稲村崎成干潟事12

写真は現在の稲村ガ崎の東側面(由比ガ浜側)で崩落の為の瓦礫は無い。

稲村ヶ崎の岩壁は崩れやすい!
     本当にそうでしょうか?
関東大震災(1923年)に稲村の岩壁は崩れました。
その規模は、、、

「稲村崎成干潟事3」2010-07-10  に崩壊の写真があります。
この崩壊の程度は、大きいか?少ないか?
具体的には、写真に写る崩れた岩石の量を想像してください。
その様な程度です。

この写真の場所は、岩に大きな窪みがあります。波の侵食による窪みです。
この様な侵食は数千~数万年の歳月が掛かるでしょう。
この場所は、大きな崩壊は無かった様です。

海蝕台(波蝕台)っと言う現象があります。
著明なのは、江ノ島の岩屋に行くと、海面より一段上がって岩が平坦に成っています。
この平坦な岩は波の力で侵食された場所で、海面の高さで浸食され出来上がった岩です。
突然の隆起で台が作られた様に海面より上に出たものです。

写真で、
波打ち際に白く写っているのが2~3m幅の海蝕台で、1923年の関東大震災に浮き上がった旧海水面と思われます。この場所を稲村路の道路跡と間違え易いので、注意する必要があります。
そして、この海面下には、1mの深さに前の時代(数千~数万年前)の規模の大きな海蝕台が有ります。
現在は、大潮に膝まで海に入ればその海蝕台の上を歩け、海産物を地元の人は取っています。
この現在徒渉可能な海蝕台の存在が稲村外海から攻め込んだ話の基なのでしょう。

同様に、霊仙ヶ崎の埋立てたところは、稲村ヶ崎周囲以上の数段規模が大きく浅い海蝕台が存在した訳でその上、震災後は干潟になるのです。
次回は、、その写真です。


■ 記 2011年01月26日  稲村崎成干潟事 13

「稲村崎成干潟事3」の写真とは、別物です。
今回の写真は、
「図説鎌倉回顧」鎌倉市発行に記載された写真ですが、、、
鎌倉市営プールより稲村ヶ崎に向けた現在の写真と比較して下さい。
関東大震災以後、この様な海蝕台の岩礁が競り上がったのです。
この海食台の状態は、江ノ島の様な平らではなく、横須賀の荒崎に見られる様な、洗濯板状に成っており、海面下では浅くても歩きにくい状態です。
干上がれば、深みに足を取られずに迅速に攻め込む事が可能です。
震災後にこの干潟は埋め立てられ、現在の状態に成ったわけです。

もう一つの注目点は、「稲村崎成干潟事3」の写真より岩の崩落が少ない事が理解できると思います。
霊仙ヶ崎の干潟状態が見れるこの写真ですが、、、「新田義貞は、稲村路を使い霊仙ヶ崎の干潟を鎌倉に攻め込んだ」と結論つけられる根拠となります。

決して、モーゼの「十戒」の様な奇跡ではなく、現実に起こる話で在った訳で、太平記の記述を実際に起きた事と解釈して調べた結果です。
従来説の問題として、
①稲村ヶ崎の外海を徒渉する様には、太平記に書いてない事。
②文献の解釈を逸脱した「近世の創作」である事。
の二点が在ります。
以上が 稲村崎成干潟事 の現時点の考えです。


■ 記 2011年01月28日  稲村崎成干潟事 14

上記の図は、「稲村崎成干潟事4」に使った物です。
青いライン①は従来説の稲村路で、道の痕跡は無い。
赤いラインは「ぼ輔説」の稲村路。
黄色いライン③は、これから考察するべき道。
緑は、極楽寺坂です。
航空写真もこれに準じます。

nagaeさんより、質問が有りました。
内容は、

> 稲村道について質問があります。
> 「稲村崎成干潟事4」に地図と航空写真があります。
> 航空写真の方ですが、青い点線の上に稲村道と
> 書かれていて、青い点線が稲村道のように見えます。
> 他方、赤い点線にところに○があります。
> こちらが稲村道のようにも見えます。
> 稲村道はどちらなのでしょうか。
> また黄色の点線はの道は、何のために書かれていて
> 何という道なのでしょうか。

ゴモットモナ質問内容と、「ぼ輔」の説明不足な点、、
それ以外に「水石の美を求めて」の酔石亭主さんの
・新田義貞鎌倉攻めの謎を解く・
がトテモ考え方のヒントとに成り、、、
稲村道を更に一段深く考察する事に成りました。

取り敢えずnagaeさんの返事は次の様なモノです。

"""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""
> 航空写真の方ですが、青い点線の上に稲村道と
> 書かれていて、青い点線が稲村道のように見えます。

青い点線は、従来説の稲村ヶ崎の際を通る道で、実際は道がありません。
赤い点線に丸印をして、この場所が「稲村道」と書いたモノが思惑外の結果になったものです。
ですから、赤い点線が「稲村道」です。

> また黄色の点線はの道は、何のために書かれていて
> 何という道なのでしょうか。

この道も説明しきれて無いですね!
この道は、明治の地図にも載っている道ですが、関東大震災で消失したのを
「稲村崎成干潟事3」の写真で確認してください。
①この青い道が、稲村道でナイ理由は汐の満ち引きで波を被る場で浸食洞が道を断つ。物理的に道は無理です。
③黄色いラインの道は、
針磨橋から南下し、途中で稲村道と分かれ登り道になりますが、
道の一番高い所(乗り越し部)に行くには、街道に不適切な急な登り道になります。
戦後間もない航空写真を立体視すると、砦として定番の登ってきた敵兵を
攻撃しやすい構造になっています。現在の状況は、急な道で階段になっている。
この構造から考えられるのは、鎌倉城の外壁で針磨橋側には道が無かったと考えます。
③黄色いライン海側の岩壁は明治には道が有った。大正の震災で消失した。震災後にこの場所の土砂を埋め立てに使う為、車が通れる立派な道が造られ、現在に至る。
由比ガ浜から目視で一番ハッキリ見える道です。
""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""""
◎◎◎コメント◎◎◎
鎌倉攻め (酔石亭主)
2011-01-02 16:05:23
鎌倉攻めの謎解きはぼ輔さんのブログにインスパイアされ書いたものです。
それなしには、私が書くこともなかったでしょう。
実は、お読みいただいておわかりと思いますが、議論が生煮えの部分もかなりあります。
例えば稲村道はどこを通っていたのか?
奈良時代の稲村道と鎌倉時代でルートが異なっていたのでは、とも思います。
そうした視点も入れて追加的に書こうと思ってはいるのですが、道に関しては
ぼ輔さんの右に出る人はいないでしょうから、稲村道に関する新たな考察を
ぜひ拝見したいと思います。

■ 記 2012年09月06日  稲村崎成干潟事 15/strong>

写真は、明治20年代の霊仙崎と解説がある。大正震災で海面より1m陸が持ち上がったとされていますが、それ以前でも写真の様に干潟が出来る場所であった証拠です。鎌倉市発行「鎌倉回顧」より引用。

 稲村崎が干潟で歩けた!嘘でしょ?の巻 最終回
明治時代の歴史学者大森金五郎氏は数回ほど渡渉実験をし、
>「当時は崖下の水に近いところに通路があったのであろう、、
>長い年月を経たので風浪怒涛の為に次第に崩壊せられたの
>であろうか、今は跡形もない。それ故、元弘3年5月に、新田
>義貞が大軍を率いてここを渡渉したと云う事は不可能のこと
>ではなく、何の不思議も無いことである。」

と結論をだした。
 それは、自説を通す為に文献と実際の地形を考慮する事無く、間違の積み重ねをした結論です!
稲村東の水際には、潮の侵食洞窟があり路は途絶える、侵食は数千年の単位で洞窟はつくられる。数百年程度の変化は微小と考えられる。(稲村崎成干潟事11に写真あり。)
よって、
稲村の水際には、街道に相当する道は無かったと否定できる。
稲村ガ崎を海水に浸かりながら渡渉したのではない! 潮が引いた浜を攻め込んだと古書にはある。

稲村ヶ崎の海浜公園の碑に
「今を距る五百八十四年の昔 元弘三年五月二十一日
 新田義貞此の岬を廻りて鎌倉に進入せんとし 金装の刀を海に投じて
 潮を退けんことを海神に祈れりと言うは此の処なり」
 大正六年三月建之   鎌倉町青年会 


内容から、大森金五郎氏の説を受けたものでしょう。

問題は、
文献に記された稲村路(一般人が通る街道)の存在を無視し、自説の渡渉実験をした事に決定的な間違えがある。
梅松論に書かれた「稲村崎の波打ち際、石高く道細くして軍勢の通路難儀の所に、」
の文は、稲村路は軍勢を大量に送り込むに道が細くて困難であると私には読めます。

太平記の巻10の「稲村崎成干潟事」
「二十一日の夜半許に、片瀬・腰越を打廻り、極楽寺坂へ打莅給ふ。明行月に敵の陣を見給へば、北は切通まで山高く路嶮きに、木戸を誘へ垣楯を掻て、数万の兵陣を双べて並居たり。南は稲村崎にて、沙頭路狭きに、浪打涯まで逆木を繁く引懸て、澳四五町が程に大船共を並べて、矢倉をかきて横矢に射させんと構たり。誠も此陣の寄手、叶はで引ぬらんも理也。」


太平記には、南は稲村崎にて沙頭路狭きにと、稲村路の存在を示し波打ち際は狭いと書かれ、その為に大量の兵を短時間に送り込めない!それが戦略的に問題である訳です。

歴史学者は「梅松論・ 海道記・、吾妻鏡」の文章を無視し、自説(根拠が無い)を証明する実験は、功名にはやる学者の古文読解力が無い結論で、研究に値しない話です。
学者の肩書きを無条件に信奉した「鎌倉町青年会」がその説を助長し現代までも信じられ否定した話は無い。

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稲村ガ崎の古道を検証 下巻

2014年11月18日 | 稲村ヶ崎伝説

■ 記 2006年12月02日 稲村ガ崎の古道を検証 6

大仏切り通しから、稲村ガ崎までの鎌倉城としての防衛線は、通れる場所が限られており、①~④迄までの番号をふりました。

先ずは、稲村ガ崎の道についての文献を調べましょう。

海道記(1223年頃)
「稲村と云う所あり。険しき岩の重なり臥せる狭まを伝いいけば、岩に当りてさき上る波、花の如くに散りかかる。申の斜めに、湯井の浜におちつきぬ。」
後年の新田義貞鎌倉攻めの太平記では、「南は稲村ガ崎で砂浜路狭く、浪打崖まで逆木でバリケードを作る、ぼ助訳」や梅松論では、「浪打際、石高く道細くして」と述べられている。

稲村路に就いては、海道記、梅松論、太平記に共通な崖の際と波打ち際の細い道の様子が記されている。
よって、波打ち際を通らない④の極楽寺切通しや③の道は稲村路で無い事が確認でき、初期に極楽寺の切通しは無かったと考えられる。
極楽寺切通は、忍性が作ったと言われている事もこれで裏付けられますが、、、
③,④は稲村路より新しい道であるという訳です。
②の道については、古東海道の品格(坂の傾斜、規模の大きさ、直線性)は無く稲村に古代東海道は無かったとぼ助は結論を出します。
①は前回 海に古道は無いと否定した道です。

稲村の話はこれから、、、、です!


■ 記 2006年12月04日 稲村ガ崎の古道を検証 7

問題の岩壁が一段低い処は、、、写真の場所です。
ウ~ン降りれるには降りれるけど、、、一般人が通るには厳しい!
一般的では無い!  (兵が強引に降りるには可能な場所です。)
写真を撮っている処で、エ~~ アンナ処に!!!  
 何を見つけたかは、、、次回の写真を見てください!!


稲村路本命丸2の道は、崖を下り波打ち際に出るのですが、、
この道は霊仙ヶ崎と稲村ガ崎を分ける谷に有る道です。
もう少し掘り下げて考えましょう。

太平記(1374)巻10
「極楽寺坂の状態は、明行く月に敵の陣を見ると、北は切通まで高く路険しい、
木戸や垣楯を造り、数萬の兵陣を並べて居た。南は稲村ガ崎で砂浜路狭く、
浪打崖まで逆木でバリケードを作る、沖四五町に大船を並べて横矢を射る。」ぼ助訳
新田軍が、幕府の陣を月明かりで偵察した状態が書かれているのですが、、、
極楽寺切通しは「切通まで山高く路険しき」と書かれ、古代東海道には値しない根拠です。
「南は稲村ガ崎にて、沙頭路狭きに、浪打崖まで」と稲村路に就いて書かれています。
地図を見ると、どの辺りで偵察を行ったのか、、想像つきませんか?
「稲村ガ崎の古道を検証1」を見て想像してください。
想像が付けば、、、稲村路が、決して岬の先端水際を通る道で無いことが理解できるでしょう。
丸3の道は古書に書かれて無い処を考えると、江戸時代の道かも知れません。

丸2の道は霊仙ヶ崎と稲村ガ崎を分ける谷を通る道です。
この道の北は霊仙ヶ崎で、更に北に霊山と山中に仏法寺があり、更に北は極楽寺切通し!
霊山の場所取り争いは、勝敗を分ける重要な戦いで有ったと考えられえる。
新田軍が霊山を占拠することは、極楽寺切通しを上から襲える事であり、波打ち際から
鎌倉に押し入る時に頭上の崖から襲われる危険が無い事と、稲村路を自由に通行でき
る事です。
新田軍が、大潮に乗じて干潟に大軍を送る前提には、、こんな下準備が必要で有った訳です。

由比ガ浜より見ると、一段岩壁が低く、この場所なら海に降りられるかな?
と言う理由や、明治の地図に示された道と符合するので、調べる気を起こしました。


■ 記 2006年12月07日 稲村ガ崎の古道を検証 8

エ~~ アンナ処に!!!  の写真ですが、、、
今回でも一部写っています!
判った人は「偉い!」
次回はもっと判り易い写真です。

さて、、「稲村ガ崎の古道を検証6」の写真をもう一度ジックリ見て頂きたい。
陸地を見るのもよいのですが、、
見て欲しいのは、海底の様子です。
地図と見比べれば、何処を埋め立てたのか、、想像付くでしょう。
埋め立てた堤防の際の海底にギザギザな影が見えます。
「稲村ガ崎の古道を検証5」に書いた、岬先端の海面下は砂地ではなく岩場で、3~5mの幅で凹凸を
繰り返す洗濯板状に成っていて物理的には歩けても迅速に行動はできない。
っと書いた海底の岩場の浅瀬の影です。
波が荒く、潮流の早い稲村ガ崎先端では、砂は流され七里ガ浜に運ばれてしまいます。
しかし、由比ガ浜から霊仙ヶ崎辺りまでは、内海で波の浸食も少ないので岩礁は一段高かく砂の流され方も少ないでしょうから、岩と岩の隙間は砂が堆積し、干潟では歩き易かったのではなかったか?
っと想像できます。
その様な理由で、土木機材の乏しい昭和10年に容易に人力で埋め立てが出来た浅瀬と推測できます。
当然満潮で波が荒ければ「岩に当りてさき上る波、花の如くに散りかかる。」状態です。
新田義貞伝説は、②の道が稲村路と考えれば、決して大それた神がかりの話では無く、
埋め立て地の大半は干潮で干上がると考えれば、当然の話と考えられます。

埋め立てた場所は、深い海を埋め立てたものではなく、干潮では洗濯板状の岩の表面が浮き出る様な浅瀬で有ったと
する根拠は、前記の空撮写真の海底の様子から導きだされます。


■ 記 2006年12月10日 稲村ガ崎の古道を検証 9

『梅松論』より、
5月18日 新田軍の大館宗氏軍が由比ガ浜の鳥居迄侵入。大館宗氏は幕府軍に反撃され稲瀬川で討ち取られた。
大館宗氏軍残党は霊山に立て篭もる。
19、20、21日は霊山を舞台に攻防戦となった。
21日は霊山寺(仏法寺)を占拠していた鎌倉方を新田軍の三木俊連が襲撃し、更に霊山の峰を攻め登り、極楽寺切通しを攻め下る位置に就いた。
この時点で、霊山を手中に入れた新田軍は、稲村路の通行が自由になり、崖下の通行に障害が無く、
「浪打際、石高く道細くして」と書かれた波打ち際は干潮で渡渉出来る状態となり、22日に由比ガ浜に攻め込んだと考えるのです。
稲村ガ崎先端を大軍が通った訳ではなく、②の稲村路を大軍が通ったと解釈すれば不自然な事は無い。
誰が考えても、海中を水面下の岩を探りながら牛歩の様に歩く稲村ガ崎先端より、霊山を抑えて自由になったなった稲村路を使うのが合理的です。
これが文献の考証と、現状を照らし合わせた結果なのですが、、、

誰が言うでもなく、稲村ヶ崎の先端から潮が引いた海を鎌倉に攻め入ったとする新田義貞伝説ですが、
②の稲村路が極楽寺切通し造成後使われず伝承も無くなった時代に、漠然とした考えで作られた説なのでしょうね!
古代東海道は横須賀の走水から千葉へ渡った何て言うのも、、、大和武尊が通った程度の知識で、根拠なんて考えずに漠然とした考えで作られた話!
誰が言い出したのか知りませんが、、、アカデミックな話からすれば論外!!

さて、写真を見て道を探せたでしょうか?
稲村路より「険しき岩の重なり臥せる狭まを伝いいけば、岩に当りてさき上る波、花の如くに散りかかる」と書かれた波打ち際に崖を降りる道跡が有ったのです!
写真の崖を一直線にヨギル道をお判りでしょうか?
同じ写真にマークを付けて次回は載せます。



■ 記 2006年12月14日 稲村ガ崎の古道を検証 10

  稲村ガ崎伝説の謎の巻 終り
写真の薄紫のマークをした場所が道路痕跡で②~③の場所に相当します。
地図の番号①の場所は、
太平記に記された、、「極楽寺坂の状態は、明行く月に敵の陣を見ると、北は切通まで
高く路険しい、木戸や垣楯を造り、数萬の兵陣を並べて居た。南は稲村ガ崎で砂浜路狭
く、」
と新田軍が偵察した場所にフサワシイ処と私は想定しています。
番号②の場所は、写真に写っている崖の一番上と思われる処。
番号③の場所は、写真の右の端です。
番号③~④の場所は、「浪打際、石高く道細くして」と言う波打ち際です。

この②~③の場所は、
現地に立ち入る事が無理で、遠くから観察すると崩壊があり、人が歩ける状態では
なく痕跡だけとなっている。
明治15年の地図にも載らないだけの事はあり、、、
鎌倉以降使われなかったと考えられるし、関東大震災でも崩壊が有ったと思います。

さて、、問題は、、、①~②の場所を、私が歩いてい無いのです。
今、何方かが歩いてレポートを出すと、、、第一発見者です。
道が見つからない!なんて言うリスクもあります。
金に成らない名誉ですが、如何ですか?
何方か行かれたら報告してください。
きっと、伐採鎌でも持っていかないと通れない状態かも?っと想像しています。

写真を写した場所は、一部鎌倉市営プールが写っていますが霊仙ヶ崎埋め立ての記念碑
が在るルート134の脇です。使われる機会の少ない市有地ゲートの脇で短時間の駐車で
観察するには問題無い場所です。

稲村ガ崎の古道を検証 は以上です。

これはすごい (@塾長)
2007-02-19 23:09:51
全く、予想だにしていませんでした。
桟道は海岸の岩場かと思っていました。
下に積もった土砂を見る限り、相当崩れていますね。
噂では、関東大震災で崩れたと聞いています。

Re:これはすごい (ぼ助)
2007-02-20 09:53:18
関東大震災でこの辺りが大きく崩れた様ですが、
それでも痕跡が残る処が岩場の道と言うことですね!
私としても予想外の物を見ました。
人が通れる幅は有りません。
登山技術があっても、崩れやすい砂岩です。
鷹取山の砂岩の岩場で何人も事故を起こし岩登り禁止になったのと同じ岩の質です。
無茶はしないで下さい。

了解 (@塾長)
2007-02-20 22:25:36
私の体重と運動神経では、どうにもならない。


■ 記 2014-11-15 「海沿いに古東海道」が在った?? ダメ押し編 

この写真は、文献に残る稲村路と考えれれる道路痕跡です。
上の写真は、2007年頃で下は2014年です。
2007年には簡単に道路遺構まで行けたのですが、、2014年は下草が腹まで生い茂り蔓が横に這った状態で道路遺構に近付けない!行けても遺構が草の中状態で写真も撮れない状態と思います。
冬枯れ後に消える物か??
温暖化の影響に依る植生の変化を感じるのですが、、、
関東大震災以後露出していた岩肌が数年で草木に隠され始めた。

■ 記 2007-11-05
古代東海道は、路面9m付属施設(側溝,土手等)を加えれば10~15mの幅を持つ遺構です。
1994年04月 静岡の曲金北遺跡発掘。2004年平塚東中原遺構が発掘され、特徴は 巨大な規模の遺構(50年前の東京オリンピック前では、国道1号より広かった)です。

文献から、、
日本書紀(613)に「難波より京にへ大道造る」の記事がある。
大化の改新(645)で駅制が制定され
養老二年(718)の養老律令「諸道に駅置くべくは、三十里ごとに一駅を置く」三十里は約16㎞に相当する。
諸道とは、駅路を指し東海道は中路規格(道幅約9m)です。(

問題はそれ以前の時代に作られた可能性は???
 その例として、、、
中央集権国家が出来上がる途上時代に「日本武尊」の話がある。
当時の道路状況は地方の豪族の間をジグザクに尋ね歩く「東征路」のお話となり「日本武尊」の時代に古代東海道は無かったという根拠には使えます。
奈良時代には広かった道幅は、平安時代に狭く改造された痕跡が道路遺構にある。以降の時代に巨大道路を造った形跡は戦前まで無いく、戦後名古屋日本本土空襲によって被災した日本各都市の復興計画で100m道路が作られたが、緑地帯と防火帯を兼ねたものでした。
この事から巨大道路を造った時代を奈良時代と特定できるのです。
これが、ぼ輔の考えです。

このブログは、単なる知識の披露ではなく、大人の遊ぶ話です。
初めから、
常識や権威のウサンクササは無視して、、、、
モノの見方や考え方、想像力の自由さがテーマです。

 話が思わず脇道に、、 話を本筋に戻して、

 鎌倉七口は、江戸時代に作られた言葉で、その他にも道の痕跡は色々在り、稲村路や峰の兵員移動の道を 古代東海道の痕跡と誤解して公的な講座で語られたのかもしれません。

鎌倉の山は、鎌倉幕府の手で戦闘用に徹底的した改造をされ、古代東海道ですら、このブログに取り上げた状態で改造された。
古代からの山道は鎌倉幕府の山地域要塞化で痕跡も残らないと考えています。
そんな訳で、
鎌倉幕府滅亡後の峰通しの道で、七口番外の道を古代東海道に仕立てた!
  っと ぼ輔は想像するのです。

『神奈川の古代道』が著述されたのは、「1997/平成9」
この本の書かれる前に、、、、
既に、古代東海道の遺構が発見され 静岡の曲金北遺跡発掘は1994年04月。
古い文献にもその規模が書かれていたのですが、、
『神奈川の古代道』には文献とそれを証明する遺構の規模に基付く道路の記述は抜けており、著作者の自説が記されている。
その後、、、、、
 平塚東中原遺構は2004年に発掘されています。
その道路の直線の先には、16km先(養老律令「諸道に駅置くべくは、三十里ごとに一駅を置く」)に鎌倉が在るのです。
山間部を越える時には、必ず切通す遺構が残るはず。
この遺構は大きい為に、簡単には消え去ることは無い。

簡単には消え無い遺構は隠された訳です。隠した痕跡を探し出そう!!
それが、本来の目的です。


「大和武尊説」を根拠に古代東海道を語るなら、、、、
曖昧な話で、根拠や遺構も示されて居ませんから、反論不可の現状です。
道路遺構を示した上で古代東海道が語られるべきと考えます。
現状の道路遺構も不明な「大和武尊説」を見直す時期と思っていますが、、、

この様に ぼ輔は認識しています。

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稲村ガ崎の古道を検証 上巻

2014年11月18日 | 稲村ヶ崎伝説

■記2006/11/02  稲村ガ崎の古道を検証1

明治の地図から話が始まります。
この稲村ガ崎の地図から、古道のルートを探す訳です。

> 古東海道 (杉きち)2006-10-13
> 毘さん、初めまして
> 古東海道は西は「稲村ヶ崎」から鎌倉に入ったと考えられております。
> 鎌倉時代になり「稲村ヶ崎」が天災等で通行不便になりして。
> 当然、西への通路(船の利用も含めて)が必要で有ったと考えられます。

鎌倉市の公式見解(生涯教育講座等)は、稲村ヶ崎=古東海道説を採っているようです。
その根拠は?っと調べても、、、、、特に書かれていないのが普通です。

要は、根拠もなくその様に言われている訳です。
仕方なく、ぼ助がその根拠を作ってみましょう。
文献的には、、、
「大和武尊の東夷征伐」
「海道記」
「梅松論」
「唐糸草子」
「義経の腰越状」
この様なモノが有り、それを根拠に古代東海道説が作られた、、、
などと推測するのですが、
現地の状況を調べたり、掘り出したと研究書もない事から、学術的には文献の根拠だけでしょう?と勝手にぼ助は考えます。
その古文献の根拠も、解釈を歪曲したり、文章を理解して無い、古文を信用してないとか、、、そんな研究態度なら文献の根拠も無い。
これらの文献も検証する必要が有りそうですね!

茶色で示した場所が極楽寺切通しです。
それ以外に道と考えられるのは、、、
七里ガ浜から来ると、道は、二手に分かれます。(赤くマークした場所)

ひとつは、波打ち際の岩場に、、、
もうひとつは、坂下と呼ばれる場所へ、岩壁伝いに降ります。

その他には、稲村ガ崎先端を波打ち際を岩伝いに行く可能性も在ります。
新田義貞伝説ですね!
これを、検証する訳です。

地図を見て、貴方はどの様に推測するでしょうか?
古代東海道はこの際脇に置いて、新田義貞伝説の従来説をひっくり返す話です。


■記2006/11/05  稲村ガ崎の古道を検証2

写真は、江ノ島方面より稲村ガ崎を見たモノ.

> 「毘」さんのコメント(2006-10)
> 前略、、、、、
>  いわゆる七口(他にもあると思いますが)は、大仏や名越のような系統と、
> 化粧坂・朝比奈の系統、大きく二つに分かれると考えてよいのでしょうか。

二系統に分けて考えると、、、
一つは、鎌倉幕府以前の平安、奈良時代。
もう一つは、鎌倉幕府成立後の鎌倉城の城門としての切通しです。

平安、奈良時代は、統一国家で敵は海外の時代。
国内の敵は、東北の弱小部族です。守る必要も無く、紛争地に大量の兵を送り込めば戦いもなく逃げ出す。
道を広く作り、途中の側面からの奇襲を警戒をする必要も無い絶対優位の武力が有ったと考えています。

平安時代に朝廷内部で政治抗争が始まった。
朝廷内は、源氏と平家を引き込み武力闘争に変わったのです。
政治力で国を治めた時代は終わり、武力で国を治める時代になったのです。
「治承・寿永の乱」で、源氏は都を攻めた事で、平城京の防御の無さを実感したと考えられます。
絶対に弱い地方の蛮族とは違い、、自分たちと同等の力の敵が朝廷内に居り、
敵は自分の身内かもしれない!
その様な状況で、自分の命と政治力と都を守る為に城を作る事になった。
京の無防備な都とは違い、外部より攻められても守れる都として鎌倉を選んだ。そう考えるのです。



■記2006/11/10  稲村ガ崎の古道を検証3

京とは違い、守りに適した都を!
三方を山に囲まれ、もう一方は海と言う要塞に適した土地が鎌倉であった。
しかし、この土地には、奈良、平安時代に造られた古代東海道が有り、東山道までが入り込んでいた!
この道は、単なる道ではなく、大和朝廷に物資を運ぶ巨大な道で有った。
鎌倉城と言う要塞に決定的な障害となる無防備な古代道で有った訳です.
その様な経緯で、道に対する考えを根底から変える必要が有ったと私は考える。
その転換点が、鎌倉幕府成立時点です。
現在、鎌倉で古代道が有るとすれば、それは鎌倉幕府が古代道を消滅させた痕跡と考えています

古代東海道とは、奈良時代に朝廷の力で造られた駅路を指します。
大和武尊が通った道とは全くの別物で、平塚で検出した幅9mの道路遺構の延長を指します。
その道は消滅させても、、、巨大な道だけに痕跡は残る!!
残るとすれば、、、どの様な痕跡で残るか???
それをこのブログが問題にしている訳です。

図は現在の稲村ヶ崎ですが、明治の地図とは海岸線が雲泥の差です。
何が起きたか? 天変地異が有ったのでしょうか?
明治の地図は、地図屋さんが全国的な地図を創作した時期です。
基本的には山歩きのプロで、、海から詳しく調べる余裕が無かったのでしょう。


■記2006/11/14  稲村ガ崎の古道を検証4

稲村ガ崎先端の水際を通る道を検証しましょう。
稲村ガ崎の古道を検証3の図を見て鎌倉時代との違いを想像して欲しいのです。
鎌倉時代と現在の海水面の差は、どの程度の違いがあるのでしょうか?
その考察から始めたいと思います。
結論から言えば、大きな違いは無いと考えます。

源頼朝の死因は、相模川に架けた橋の披露に参列した頼朝が帰途に鶴嶺八幡宮近くで落馬し、翌年に命を落としたという話をご存知でしょうか?
この橋には、後日談があります。

 大正12年(1923)関東大震災で水田地帯に突如、9本の大木が飛び出した。調べると大木は、建久九年の鎌倉時代に相模川に架けた橋脚であると判明した。
現在でも、史跡として河口から1km程茅ヶ崎よりに保存されています。

私の知識では関東大震災で、江ノ島は水面が1m下がった!
と言うことは、江ノ島が海面から1m浮き上がったと言うことです。
同様に、茅ヶ崎の河口でも1m浮き上がり、鎌倉時代の橋脚が浮き上がった訳です。
同様な事は、稲村ガ崎の水際でも起きた。
800年前の水際より1m浮き上がったのが、現在の水際と考えます。
それだけではなく、岩場の波による侵食具合からも、考察できますが、、、、

以後は、稲村ヶ崎の水面は現在より1m高い場所と言う前提で話をします。


■記2006/11/18  稲村ガ崎の古道を検証5

稲村ガ崎の古道を検証3の明治の地図、この地図の水際の処理は見るに耐えない雑なものですね!
何と言おうと、、、陸軍が短期間に作った地図ですから海辺は雑だったのでしょう。
稲村ガ崎の古道を検証4と今回の写真を比べてください。
正確に地図が描かれているでしょ?
地図の岩場の赤い処は、平場が有り、歩き易い処です。
海岸線の黒いラインは岩場、茶色いラインは砂地です。

結論として、
岬の先端は、海岸線は見ての通りで一般人が気楽に通れる状態ではない。
通行するには天候に左右され波が荒い時は通行不可です。
地元の人が食料の糧を得るため海に下りる道としては可能であろうが、、、
その様な理由で街道としては不向き。
よって、
古代東海道が通る可能性は無く、鎌倉街道としても不合格!

新田義貞が、大潮を利用して大軍が岬先端から、鎌倉に攻め込むのも無理が有ると思います。
私としては、稲村の大潮を何度となく経験しています。物理的に渡渉出来る事は知っていますが、、、
岬先端の海面下は、砂地ではなく岩場で、3~5mの幅で凹凸を繰り返す洗濯板状に成っていて物理的には歩けても迅速に行動できる状態ではない。
同じ状況に、三浦の荒崎海岸があり、水が無くても洗濯板状の岩場の歩きにくさを実感して欲しい。戦争の作戦には無理。
迅速に行動できないと言うことは、幕府軍が渡り初めを察知したら、由比ガ浜で十分迎撃態勢整えられ、作戦は成功しない。
もし、干潟の岩場を数百人規模で通ったと考えれば、迅速に行動できます。

では、、
鎌倉街道として利用された稲村ガ崎の道は?
明治の地図に赤いマークをされた道が、鎌倉街道の道と考えるのですが、二又に分かれていますね、、、


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箱根の古代道 上

2014年11月13日 | 古東海道 足柄、箱根、富士
■ 記 2006年12月18日
箱根の古代道

これは、箱根全山をカシミールと言うソフトで作った図ですが、、、
この中に、802年に作られた足柄代替の古道が作られた痕があるはずです。
その道は何処を通ったか?この地図から予想して欲しいと思うのです。
その道の作られた経緯は、

800年 富士山が大噴火。
802年 富士山噴火で使用不可になった足柄路の代りに箱根路を開く。
その後数年して後、足柄路が再開となる。
これが、文献に書かれた事です。
(日本紀略 - 廃相模国足柄路,開筥荷途,以富士焼碎石塞路也)


現在知られている古道として、
箱根峠から都に向けて(峠から西の三島に向け)推定平安鎌倉古道と言うのが在ります。
とても、直線的に作られた道です。
箱根峠から東の鎌倉に向けては、湯坂道が在り中世に使われた様子が文献より伺えます。
しかし湯坂道は、推定平安鎌倉古道に有る道の造りの品格が無い。
同じ背景で造られた道に思えないのです。
では、箱根峠より東に向けた道が湯坂道以外に有るのでしょうか?
それを探す手掛かりとして、この図を提示しました。
如何ですか?

■ 記 2009年03月03日
続 箱根の古代道

箱根の古代道を書いたのは2006/12で、それから一年以上経ってしまいました。
このバーチャルな画面から、、何か想像できましたか?
とりあえず、
赤でマークした箱根西坂の「推定平安鎌倉古道」と、その接点の箱根峠、そして水色でマークした平安鎌倉時代に使われた湯坂道です。
この他に箱根峠より東に街道を作るとすれば、貴方なら何処に作ります?

■ 記 2009年03月05日
続 箱根の古道1

さて、、、
湯坂道の脇にピンクのマークの線を書き加えました。
これは、江戸東海道です。
湯坂道は、尾根筋に作った道で、江戸東海道は谷底の川筋に作った道です。そのポリシーの差は雲泥の違いがあります。この道の他に街道は作れないか?

古代道の定番は、
 ①尾根を通る。
 ②直線的な道である。
っと言う訳ですが、、、
湯坂道は、尾根を通り直線的ですね、、、
でも、、箱根峠から芦ノ湖に降り、湯坂の尾根に入る間は、結構曲がっている!
貴方は、この画像から①②の条件の道を考えられますか?

■ 記 2009年03月08日
続 箱根の古代道2

もう一枚箱根の地図を載せます。
地形だけのデータですが、、、、古代に道を作った人は、何の先入観も無く
この様な箱根の地形を把握して、何処に道を作るか?考えた訳です。
貴方なら、何処に道を作るか?
文献を参考に考えるのではなく、貴方ならどの様に道を作るか?
 ①尾根を通る。
 ②直線的な道である。
流水で作られた岩壁、がけ崩れ等、災害の多い谷筋より尾根道を通るのは、山登りをする人の定番です。
目的地に向けなるべく早く! = 目的地に直線的に移動する!
そんな条件での箱根の道作りです。
画像は、カシミールにより、50mメッシュ標高データを使用。

■ 記 2009年03月12日
続 箱根の古代道3

赤い線は、平安古道と言われる湯坂道です。
事の始まりは、
太閤秀吉が、小田原攻めをした時に、大軍を通すのが困難な蔦の細道の脇に道を作った。
鎌倉時代に作られたとか、秀吉が作ったとか語られているのですが、、
史実は不明だが、前の時代の道を太閤秀吉がリメイクしたであろうと考えられ。
秀吉の取り巻きに、道に詳しい者が居たと想像できる。
その秀吉は、箱根湯本の早雲寺に陣を張った。
箱根湯本は、湯坂道を降りた場所。
しかし、小田原城を攻めるに困難を感じたので、策を立てた!
 その策とは、
小田原城より立派な城を建て威圧しようと言う心理作戦です。
威圧するだけの外見を持たなければ意味は無い。
俗に言われる一夜城! 石垣山城です。
関東で初めてと言われる、石垣で囲まれた城です。
それには、資材の石が要る!  資材を運ぶ「道」が必須です。
蔦の細道の再現!
秀吉の取り巻きの「道に詳しい者」の出番となる!!
そして、古街道の下見をした結果、、、
単なる山道ではなく資材を運ぶに耐える道であった。
 その上で、、
小田原城を上から見下ろせ、小田原の状況が丸見えの場所を選んだ!!
そんなストーリーをぼ輔は想像したのです。

■ 記 2009年03月13日
続 箱根の古代道4

赤い線は、平安古道と言われる湯坂道で、桃色の線は関白道と言われ、一夜城に続く道です。
注目するのは、箱根峠より非常に直線的に一夜城迄続いている事と、
古代道のパターンの尾根筋を通る道で有るのは、一目瞭然です。

関白一夜城
地元では関白道と呼ばれている道ですが、
城を作る事を優先するか?ハタマタ、道を作ることを優先するか?
どちらも一大工事です。
築城の資材を運ぶ道は、獣道や人が歩ける程度では無理です。その様な運搬ルートを探すのは困難な箱根の地形なのです。
富士山と同じ形をした巨大な元箱根山が自重で陥没し、陥没した内側は崖となり残った。
外輪山の内側は、急激な崖で歩行困難です。
湯本に降りる道も、水流に削られた川筋を避け、平安鎌倉時代は尾根の湯坂道を使った。
よりナダラカで歩きやすい道を目指し、江戸時代は道造りに困難な川筋ルートを作った。
しかし、人馬は通れても大量の石材を短期に運搬するのは、役不足な道に思えます。
問題は、
それ以前の古代道の話ですが、、、
秀吉の取り巻きも、、
箱根で築城するのは、資材を運ぶ道が無ければ考えない策!!
 っと ぼ輔は考えたのです。
箱根は他に城が有りますが実用本位の山城で、、、
外見を意識した石垣の城「外から資材を運んで作った」のは石垣山城(一夜城)だけです。
図示したピンクのマークの道は、外輪山の尾根道です。
関白道と地元で呼びますが、蔦の細道の脇道宇津の谷峠は鎌倉時代に作られたと思われる道が「秀吉が作った」話になる。
廃道となり忘れ去られた道を整備したら、ソリャ整備して使える様にした人の名前が付く。秀吉が造った道ですから、、「古代道では無い!」その様な理論は成り立たない事に注目して欲しい。

 ここ迄が、話の前振りです。
古代道探しは、推理ゲームですね!
学術的に証明しよう!なんて言うい気持ちはサラサラ無い!
推理した場所に、思った通りの痕跡が有れば、ぼ輔の興味は完結する。
関白道は、これからが山場です。


■ 記 2009年03月22日 
続 箱根の古代道5

この道は802年の富士噴火により、足柄路より箱根路に官路を変えた痕跡ダ!
っと証明なんて、、、
富士の噴火で急遽作った道に道幅の広さを期待できません。その為に古代道と特定するのは無理と考えています。
また、、、
関白道と呼ばれても、古代道のリメイクを否定する根拠にはならない。
前回の「続 箱根の古道4」に書いた通りです。
状況としては、幾らでも話せる!
古代道の特徴の直線的な事。
初期の道作りの山の峰を通す。
直線的な事で言えば、鞍掛山から一夜城までは、10k以上もある直線的な尾根です。
平安から鎌倉時代に使われた湯坂道とは、比べようが無い位の直線的な尾根道を作れます。
そして、関白秀吉により資材を運搬するに使われた実績もある。
箱根西坂の推定平安鎌倉古道と対比させても、直線性に遜色が無い。
道幅と、切り通した道の規模に東坂は、貧弱さを感じるのですが、、、
それも、噴火以降、平安鎌倉時代まで補修を繰り返し使い続けた西坂と、富士噴火以来湯坂道に座を追われて廃れた東坂の違いか? 等考えています。
それも、今は箱根ターンパイクにより、、、ズタズタに切り裂かれ、ある所は古道の上に道がつくられ、、
でも、わずかに残った痕跡と考えられる道を見つける事は可能です。
その手段は、、、
空中写真があります。
図は、
GoogleEarthより引用。
ピンクのマークは、古道を林道にリメイクしたと考えられる道で、その延長の青マークのラインは、古道跡と思われる峰通しの痕跡。
この場所を、国土地理院の空中写真で立体視すると、、、納得モノですが!
googleやyahooでも地図検索で、衛星写真が使えます。
安易がお好みならば、そちらで調べてみて下さい。

■ 記 2009年03月27日
続 箱根の古代道6 

この記事は事前の資料をまとめる事もありますが、、
リアルタイムで ぼ輔の進行中の考え、探索資料などが書かれています。
この為、過去の記事で修正したい処も多々ありますが、、
現在の興味が優先して、修正まで至りません!

今回の画像は、googleで使われている衛星写真ですから、近年の画像です。
その映像ですら、この様に直線的なラインが見出せます。
「続 箱根の古代道5」一夜城脇からのピンクのラインは林道ですが、
その先に在る水色のマークをしたラインが今回のピンクに囲まれた映像です。
黒く一直線なラインが確認できるとおもいますが、、、
このラインには、林道が無い。このラインの下に桜山林道がウネッタ状態でありますから、
林道とは区別できます。
この程度なら、誰でも居ながらにして、古道跡を探索出来るのです。
「貴方も探して見ませんか?」
と言う訳です。
このラインの実態は、どの様になっているのか?
目にしたいと思いませんか?
山の探索は植物が萌える前、、、今の時期が一番です!
それ以降は、葉が行くての視界をサエギリ目隠し状態になります。
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箱根の古代道 下

2014年11月11日 | 古東海道 足柄、箱根、富士
■ 記 2009年03月30日 箱根の古代道 7

googleの航空写真をご覧になりましたか?
やられて無い方の為に、、、

google画面の左最上部を注目
「ウェブ 画像 地図 ニュース 動画 Gmai その他 ▼」
から、地図を選択!

検索欄に「ターンパイク」と記入

「航空写真」を選択

この様な手順ですが、、、

今回の画像は、「箱根の古代道6」を拡大しただけです。
画面 右上より左下にかけて、黒いラインが見えます。
半端でなく、、キッチリ見えるでしょ?
単なる獣道や、人の踏み跡でこの様なラインは出来ません。
それは、丹沢などの沢道を考えると、列を作って沢登りをした時代がありますが、
今では、道を探すのも困難です。
歩きやすいルートを探して登ると、岩が滑らかに磨り減っていたり、足掛かりが適当な間隔で有ったりで、この場所は歩き込まれた道と確認できる。
その位、、、大規模に人工的に作られた道でないと、自然界では痕跡など残らない。
っと「ぼ輔」は考えているのです。
古代道は、緊急に作った道でも その程度の規模は有ったと言う事です。
googleの航空写真とはいえ、これは衛星写真でしょうね!
数年前のgoogle映像は、こんなに鮮明ではなかった!
とても良い状態で使えてウレシイ!
でも、立体視出来ると、、、こんなものではないのです!!
単なる場所の特定だけでなく、道の構造まで見えてくる。

■ 記 2009年04月08日 箱根の古代道 8

立体視した時の画像を載せましたが、
画質が悪いのを承知で小さくしました。
何故か? 
ワザワザ画像を取り込んで大きさを調節して見るマニアックな方は少数派では?と言う考えです。
立体視は如何ですか?
桜山林道は未だ出来てない時代ですが、
ターンパイクは写っているので、これを基準に古道を確定してください。
山の峰を通すと一言で言い切っても、程度は、、、
この場合峰より一段下がっている場所です。
箱根西坂の尾根とは違い、、この東坂は、箱根外輪山の巨大尾根です。
外輪山の内側は、とても急激に落ち込む崖になっています。

実は、、
記事を書くのも良いけれど、、、興味は他の場所に移っている!
箱根をもっと深く掘り下げる興味は有るのですが、、、
鎌倉だって、一段深く掘り下げて紹介しようという興味もある。
でも、それ以上の興味の沸く場所、、、
静岡の薩垂峠や日本坂は???そちらの興味に写っているのです!
居ながらにして旅行気分が味わえるのが空中写真ですから!
それも、、バルーンに乗って空の上から探す気持ちです!
立体的な景色は、情景まで映し出す!現地を直接歩いても、この感覚は味わえないのです。
現地を歩いても、大半は藪漕ぎ(登山用語で、藪を書き分けて歩く)が低い山の特徴、、
景色や、感動を味わえるのは、宝探しと同じ!
でも、これらの情報が有ると無いとでは大違いです。
コレと思ったが最後、、、、藪の中でも確かめずに居れなくなる!

写真は国土地理院の空中写真(ckt-77-2_c14_12)(ckt-77-2_c14_13)を合わせたモノです。


■ 記 2009年04月16日 箱根の古代道 9

関白道の現地入りです。
こちらの映像は、極めて古いと考えられる道です。
特徴は、掘割で直線的です。
なぜ?古いと解るのかは上記の理由ですが、この手の道のセオリーとして、必ず脇道が近くに並走してあります。
脇道が出来る理由がありますが、、、それは主道が歩き難くなった為というのが通常でしょう。
特に山間の坂道は、雨の為に消耗が激しい。
鎌倉の朝比奈では、基の地質が岩盤なので、消耗が少なく残ったと考えられ、稀な例でしょう。
しかし、、この場所の脇道がある理由は、それだけでは無さそうです。
次回の写真をお楽しみに!

■ 記 2009年04月18日 箱根の古代道 10

さて、この写真は単なる石ですが?
1m程の大きさでこの周囲に似合わない火山性の岩とは異質な石です。
っとなれば、人為的に運ばれた石、、、
大きさは、石垣城の石垣に使われた石と同じ!
関白のやり残した石と考えられます。
石の周囲の状況は、

■ 記 2009年04月24日 箱根の古代道 11

右の掘割状の道は、関白道以前より有ったと考えられる道。
左には、S字状の踏みしめられて作られたと考えられる道があり、その真ん中に石が放置されています。
画面ではとても道と認識しにくいのですが、、この辺りが平面映像の限界です。
では、この関白道が石を運ぶのに使われ、掘割道は使われなかったのか?
 一夜城の莫大な量の石を80日の短期に運ぶ訳です。
それを実現するには、この細いオリジナルの古代道だけでは足りないと考えるのです。 その様な理由で脇道が作られたと考えます。
「蔦の細道」が細すぎて、秀吉は「宇津の谷峠」を切り開いた! この「宇津の谷峠」も秀吉が作った説と鎌倉時代に作った説があります。鎌倉時代に作られ未整備の「宇津の谷峠」を秀吉が整備して使える様にしたと考えるのが自然と思います。
鎌倉の朝比奈峠も同様に、古代東海道の痕跡が有るのに「朝比奈三郎義秀が太刀で一日一夜にして切り開いた道」という伝説が生まれた。
あの切り通しが一夜で作れる規模の道とは誰も思わないのですが、、、
 単に古代の文献が無いので、俗説に従う!!
なんとも、非科学的な立場の方が多い。
文献と遺構の両方が補いあう事で真実が見えてくる。
文献は無いに等しい! 遺構は、、発掘しなければ出てこない??? それが古代道の特徴と考える節があります。
文献は無くても、遺構は探せるのでは? っと言うコンセプトのブログです。
■コメントから、■
●石から (三品)
2009-04-26 09:08:11
石を手がかりにして、色々なことが推論できるんですね..
●石の状況 (ぼ輔)
2009-04-27 16:35:53
1590年4月6日には、箱根湯に本陣を敷き、7日に15万とも22万ともいわれる兵で小田原城を取まいた。 同年6月26日に城が完成するこの間80日程です。
城垣は、野面積みと呼ばれる工法で、自然石を加工しないで積み上げる方法です。
川原等の石を加工せずに使うため、角の丸い石が使われています。
それにしても、、、
ぼ輔の妄想癖も、ハナハダシイのかも!
古道探しの一番面白い処もこの推測の場面です。


■ 記 2009年05月06日  箱根の古代道 12

箱根の古代道の巻 終り
この写真は石の有った場所から数百m西の場所です。
脇道とオリジナル古代道とが合流した場所です。
東に向かって撮影しています。
右側の脇道は平坦で広い特徴があり、左の古道は、掘割状で狭い道です。
重量物を運ぶ為には、狭いより広い方が楽なハズ。
側溝も水ハケが良ければ不要、、あえて堀切状の道の形にコダワル必要もない訳で、、、
そんな訳で、実用的な脇道と考えます。
オリジナル古代道は、あくまで、道を迷わせない構造と、直線的な状態をしています。
考えさせられる事は、この道幅にあります。2m前後の道幅は、富士噴火により急遽作られ、その後一年ほどで廃棄された道として妥当な道幅と考えます。
官道、、駅路としての道の品格を感じる処は、道の設計思想にあります。
箱根山全体を観察して、一番直線的に峰を通せるルートである事ですが、古代道らしい設計思想をこの道に感じるのです。
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鎌倉の古代東海道 上巻

2014年11月06日 | 古代東海道
■ 記 2006年06月01日  古代東海道駅路跡

写真は足柄峠に残る駅路ト思われる痕。 両土手間は9m程ある。
平塚の古代道は、奈良から平安時代の「古代東海道駅路跡」とされている。
奈良から平安時代という意味は、奈良時代の道は、路面9mの道でありました。
その後、路面9mの内3mだけを使うように側溝が作られたのが平安時代である。
この時代以降の相模に存在する官道は3mの道幅!っと考えられる。
さて、
平塚から鎌倉へ行く道は有ったのか?
それが、取りあえず辻堂の四谷交差点迄直線的な痕跡があり、その名は江戸時代の大山道と言います。
2000年には車一台が通れる道で、平安時代の3m幅に相当する道です。
江戸の観光旅行は大山参りと言うのが娯楽で有ったそうな、、、
大山参りは、江ノ島と大山登りがワンセット(大山は男神、江ノ島は女神で両方拝まないと片手落ちになる。)になっており、江ノ島と大山を結ぶ道と言えます。
だから、、、この道は江戸時代の道?でしょうか、、、、、
そこが問題なのです。
その道を東へ真っ直ぐに伸ばすと、そこは藤沢市役所があり、その脇は大道小学校と言う名前がある。西は平塚東原の道路遺構から、足柄峠です。
更に東には、古代東海道の駅家の郡ガとしての鎌倉があり、鎌倉郡衙東には朝比奈峠を越えて横浜市金沢区六浦町大道と言う地名が在る。
古代東海道は、基本的には直線で作られる事の実証が、平塚、藤沢、鎌倉、六浦のラインで証明できる。
勝手にラインを引き其処に巨大駅路を想定する様な地名や遺構を探すことは、困難な事を考えれば、偶然とは思えないでしょう。この論理と遺構の証明の積み重ねを学問と考えます。

■ 記 2006年06月02日  鎌倉の古代東海道の痕跡
「鎌倉に古代東海道の痕跡は有るか?」の疑問に学識者や研究者は、
古代東海道は、稲村ヶ崎の浪打際や、極楽寺坂と稲村ヶ崎の中間を抜け、小坪から、逗子の披露山を通ったと考えています。
しかし、
山道同然のその道は平塚出土道路遺構とは異質です。
平塚出土道路遺構の広く舗装され側溝まで備えた道と、山中のハイキング道の様な道は比較に成らない。
 この様な小道が何故古代東海道と言われるのか? 「その根拠は??」
と問えば、「大和武尊伝説に基ずく。」っと書かれた本が多数有る。
大和武尊が通った道が古代東海道であると考えた様子です。ここに間違えがある。
大和武尊は、未開の東国を成敗する為に道無き道を歩いた。
直線的な駅路の古代東海道とは全く別なルートを歩いた訳で、、、
「大和武尊東征」と「古代東海道の駅路」は年代が違う事を 混同し同一視する間違えを犯している。その証明は平塚の道路遺構と「逗子の披露山道路」を比較すれば証明できる話です。

時代錯誤の大和武尊道は、出土道路遺構に基ずく説明ではありません。
1、現実は、その地形では、大道は作れません。
2、その地形に大道を切通した痕跡が無い。
3、大和武尊伝説は、大和朝廷が未だ東国にカが無い時代の話である。

日本武尊に征夷将軍として東夷征伐を命じられたのが、110年
古代東海道の記載された大宝律令制定より、5~600年程前の話です。
この伝説を根処に全国統一後に作られた駅路を語るのは無理です。
では、、「何故古代駅路が見つからないのでしょうか?」
これが次のテーマです、

■ 記 2006年06月04日   鎌倉に出入りするには、、、
現代の道路事情はとても良いのですが、明治時代のJRは藤沢まで開通した時に、東京から鎌倉に行く話があります。その話では、大船から鎌倉を目指すより、藤沢から人力車を使い、大仏切通しを使ったそうです。
大船駅から八幡宮まで4Km。
藤沢駅から八幡宮まで7.5Km
大船駅から鎌倉へ入った方が距離的には短いのですが、、、
巨袋坂や、亀ヶ谷切通しを人力車が通れなかったと想像できます。
大仏切通しは、人力車を2台通す事は出来ず、すれ違えるように幅を広げたとあります。
これは、、、、
今残る藤沢側の切通しが通行できないので、避けて脇道を作ったと言う事ですね!
なぜなら、藤沢側の2m幅の切通しと登り始めの急な坂は、人力車では無理。
古来の切通しは、オリジナルのままと言う根拠にもなります。
オリジナルとは、新田義貞の鎌倉攻めで負けて以来そのままに放置されたと言う事です。
その状態は、明治まで放置され、現在もホボ完全な形で残っている。
このオリジナルのままと言う事がとても大事なヒントになるのです。
新田軍を阻止する為に作られた土のバリケイドの残骸が今でも残っていると言うことになる。
当然七口総にバリケイドの封鎖状態が残っていた。
当然鎌倉市内に入るのは困難であり、、、江戸時代からこのバリケイド排除の工事を細々とやられていた記録がある。

◎◎◎コメント◎◎◎

郡衙へは (杉きち)
2006-06-04 20:51:50
鎌倉郡衙や久良岐郡衙へは、道幅はそれほど広くなかったのではないでしょうか。
それと、日本武尊は伝説上の人物で「所謂、土地の豪族が房総への交易に使用した海路を
日本武尊とした」
これが本当でしょう。

Re: 郡衙へは (ぼ助)
2006-06-05 09:09:09
鎌倉郡衙や久良岐郡衙への道幅ですが、郡衙だから同じ条件とは考えません。
鎌倉の場合、東海道の駅路を通過した場所にある郡衙であると解釈しています。
それ以上に、
鎌倉に官舎が有り、官舎は駅家か?郡衙か?国衙か?その程度の考えです
それを判定するには、資料が少な過ぎます。
一応鎌倉郡衙が御成り小学校から発掘された事は知っていますがね、、、
詳細は私が吟味していないのです。
日本武尊伝説の道は東征への道です。当時の地方豪族を中央に従える為に行く話
ですから豪族の間を歩いた。
地方豪族を無視して真っ直ぐに道を作る古代東海道の考えとは別物です。
その様な訳で杉きちさんと同じに考えています。

久良岐郡衙 (k)
2006-09-12 15:50:03
この所在地が知りたいですね。
笹下あたりなのかなあ


■ 記 2006年06月06日   七口検証1
「鎌倉を古代東海道が通った」っと書かれた古文書を、見たことが無い。
現代の研究者の本に書かれているのは散見します。
そこに書かれた内容は、「大和武尊の通った文献がある」と書かれている。
東京湾を渡るときに、三浦半島の走水から上総に渡ったと書かれている。
この根拠より鎌倉から逗子の山の中に「古代東海道の痕跡である」とされた道が存在する。
 この道は、平塚で見た古代東海道の様な道とは別物の、鎌倉山中に散見する小規模な鎌倉時代特有な道です。
古代東海道(駅路、官路)としての中路規格の特徴は全く無い。
有るのは鎌倉時代の特徴のある薬研掘状の道が小坪や披露山にあり、名越えの切通しも同様です。
鎌倉の西は大仏の切り通しは幅2~3mで不可ですし、稲村には相応する道の痕跡はない。
これでは海沿いに、平塚の道路遺構に対応する古代東海道の規模には対応できません。
では、 古代東海道は鎌倉を通らなかったのか?
可能性が有るとすれば、上総と下総の位置関係で海を渡ったと考えられる事。
もう一つ重要な事は、平塚の古代東海道遺跡は東の鎌倉に向いている事です。
古代東海道は、直線的に作られているのが、特徴です。
ですから、確信的に古代東海道は、鎌倉を通過したと考えるのです。
 路面9mも有る道路の痕跡など、、鎌倉に有るのでしょうか?
 
 コメント
  (杉きち)
2006-06-07 11:01:41
 東山道武蔵路と平塚の国衙らしき跡地から、都筑郡・久良岐郡・鎌倉郡・三浦郡・
 荏原郡・高座郡あたりには、12メートルの路が見つからないですね。
 荏原郡の大井駅近くだと4メートルの駅路らしき路が部分的に見つかった位ですね。
 武蔵路と平塚の道路跡と、その他の地域の路は大和王権との繋がりが密では無かったか
 、もしくは、湿泥地等の地盤が関係有るのかと考えます。
 それと、武蔵国衙と相模国衙は、下総国衙や上・下毛国や常陸国との関わりが強く、
 上記の郡は王権から「下」と考えられていたのかもしれませんね。

12m駅路 (ぼ助)
2006-06-07 21:47:01
平塚から出た東海道駅路は、側溝間9,7mで、側溝幅が狭いので、路面幅8m強の道です。
中路の規格としては、許容範囲と考えます。
東京国分寺の東山道駅路は、側溝間12mですが、路面幅9m強程度で、これも中路の
規格でしょう。
無神経に12mの道と書く研究者が大半です。
大路の面幅12mとは違い、側溝や土手も含めてな場合も考えられるので要注意です。
荏原郡の大井駅近くの駅路と言うのは、東京の池上道路遺構でしょうか?
国衙や、下総、等は、大宝律令以降の呼び名と解釈しています。
それ以前の地方の時代は、それぞれがその地域で一番偉い訳で。上や下の差別は
戦いになるでしょう。


■ 記 2006年06月11日   七口検証2
明治の時代に一番通り易い道が大仏切り通しで有ったと言う事実。
それも、人力車が一台通れる幅の道です。
唯一、海から船で六浦に入った時は朝比奈切通しを使えた様です。
他の七口は山道のハイキングコース並の道であったと言う事ですね。
今の七口は、それなりに整備されたり、道幅を広げられたりで、、、
オリジナルとは違うと言う事です。
その、山道同然の七口で、「ちょっと違うぞ!」っと言う道が二つあります。
それは、化粧坂と、朝比奈の切り通しです。
、両切通しの道幅は、4m程で他の道とは、別物の道らしい立派なモノです。
しかし、両切通し伴に奇妙な事が有るのです。
次は、


■ 記 2006年06月16日   化粧坂の怪
40年前の事、化粧坂の路面は、とても平らでした。
実は、大昔あの坂を、自転車や、オートバイで登った事が有ります。
その位 路面が滑らかでした。
道幅があり、路面は滑らかで、とても立派な道に見えました。
鎌倉時代の道が、良い状態で残っている事に子供ながらも、感心しました。
今の化粧坂では、担ぎ上げるしかない!
観光客の破壊です。
私も自転車やバイクで通ったのですから、、その責めの一端を負わねばならないのでしょうが、、、
問題は、それだけ立派な道なのに、峰から外部に向けた道幅は狭く、山道同然!
道は、目的地まで同じ考えで造られるモノですが、、
峠に上がった途端にあの立派な造りの道が消える!
とても怪しい話なのです。
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鎌倉の古代東海道 中巻

2014年11月06日 | 古代東海道
■ 記 2006年06月17日 続 化粧坂の怪
化粧坂を上がり、山道同然の道は 今は公園となり公園内の道は無駄広く、化粧坂はとても貧弱に見える事になりました。
(車が通れる広い道の谷側に在る細い道が古来の葛原ヶ岡神社へ向かう道。)
その道は、葛原ヶ岡神社脇から山之内配水池脇までは自動車一台通れる道に、
山之内配水池脇から、北鎌倉女子学園グラウンドから天神山へハイキング道で向かいます。
道幅の狭さ 蛇行の状態から、東海道の駅路とは考えられない道ですね!

 一般的には無視されている道に、
化粧坂を上がった処から、梶原団地に向かう道があります。
自転車で化粧坂を上がった後に、この道を通った訳です。
V 字に切れ込んだ谷の下は湧き水が、、、
谷の傾斜の中程にハイキング道並の道が鎌倉山中の道としては異例に真っ直ぐで「鎌倉の山道にしては、妙に真っ直ぐな道だな、、、」等と思いながら下ったわけです。
(今は車一台が通れるように整備されています。)
妙な事に、この道は梶原口から東へ行くと、大仏切通しの入り口「火の見下」のバス停に出るのです。
何が妙か?
はじめから、大仏切通の通りにくい道など作らずに、化粧坂の道を整備した方が、合理的!
非合理な事をした理由は何でしょう?

■ 記 2006年06月19日   朝比奈切通しの怪
『吾妻鏡』
仁治元年(1240)朝比奈切通し造り決定
仁治2年(1241)朝比奈切通し 造り始める。

朝比奈の切通しを見た人なら納得できるでしょうが、
他の切り通しより、数段規模が大きいのです。
あの切通しを短期間に作る事は現代でも難しい話しでしょう。
物理的に無理な話です。
しかし、「朝比奈三郎義秀が太刀で一日一夜にして切り
開いた道」という伝説が有るほど、短期間に作られたそ
うです。
話半分にしても、何故短期間にできたのでしょうか?

一様な勾配を持った坂が坂の上の方に行くと急な坂に変化します。
切通しは一様な勾配で作るのが目的で切って通す訳ですが、、、
不自然ですね!

坂の北側の壁にヤグラと言う穴が何ヶ所かありますが、、、
ヤグラは高いところに有っても簡単な足場を作れば上がれる
範囲が 通常です。
しかし、朝比奈のヤグラは目も眩む高い場所!
クライミングの腕がないと死ぬ位置です。
鎌倉で朝比奈程高い処にヤグラのある場所はありません。
何故、その様な高い場所にヤグラが有るのでしょうか?

敵を攻撃する為の平場に特徴があるのが朝比奈切り通しのです。
それも半端では無い長さで、切り通しに沿って平場があります。
これが不自然の極みでして、、、
敵より優位にする為、上から攻撃する様に作るが平場ですが、、
一旦敵に上がられたならば、その優位は無くなります。
その為更に一段高い処に平場を造り、丁度雛壇の様になるのが通常で。
そこも堪えられなければ、尾根筋の道を通って後退する。
しかし、朝比奈の平場はそうなっていない。
一旦上がられたら、、ずるずる切通しの下まで行ってしまう!
それも、他では見られない程長い規模で造ってある。
戦略的にとても不完全な造りの平場が何故有るのでしょうか?
とても怪しい事が多い切通しです。


■ 記 2006年06月20日  平塚の古代道路見学会は 25Apr 2004でした
鎌倉街道は、文献や伝承に無い道が、わたしの住む藤澤には、幾多あります。
その辺りで、マスメディアに記録された鎌倉街道と言う道の真偽、新しい鎌倉道を見付けても、証明するものが無い。年代も特定できない。等の壁を感じ、興味が半減しました。
そんな折り、2004年平塚東中原遺構の見学会後興味を持ちました。
平塚の古代道路(古東海道)遺跡でした。
これを 見た途端、ヒラメイタ!
古代官路は行く先に目的を持っており、目的地に向け直線の道を作る。
この規則を当てはめると、目的地は常陸!
常陸に向かうには海を渡り、上総に行く。
平塚からの、一番近い東京湾を目指すとすれば、、、
それは、大和武尊の走り水ではなく、、もっと近い場所!
それは、横浜金沢区の六浦!
早い話が、平塚から六浦に直線を引く。
その線の上に古代官路の痕跡が載るはずです。
平塚東原、大山道が茅ヶ崎辻堂四ツ谷へ、藤澤大道小学校、柏尾川古館橋深沢小学校、化粧坂、朝比奈切り通し、六浦大道、
地図にプロットされて、如何ですか?


■ 記 2006年06月22日   上総へ海路で、
杉きち さん記
>何年頃は、安房へ何処から渡った。その頃は神奈川県のどの辺りが官舎であった。
>何年頃は、安房を通らず、何処を通った。

古東海道に関しては、古代前期は無駄に広い道幅に特徴があり、この辺りで奈良時代と特定できる。
古代後期は、文献で細く作り変えた事が書かれ、西海道の12m規格の道を6mに作り変えた様です。
東海道は 平塚遺構より、9mを3mに作り変えをしている。
鎌倉に古代東海道が通っていたとして、その道路遺構は、3mでも問題は無い理屈になります。
しかし、3m遺構は、平安時代に道が有ったと推定できる論拠であり、それより、広い道幅の奈良時代の道は??という疑問が残ります。
それと、海路を行くとなれば、遠回りの安房の国には行かず、上総の国府市原に近い港に行くと考えています。

結論は、奈良平安時代に六浦は使われていたであろうと、考えられる。
その結論とは別に、海路が使えない天候では陸路を確保する必要がある。
そんな意味で、中路より格下の小路、、、3mか2m程度の車を通せる陸路が有ったと考えるのが妥当と思います。

その時代の相模国衙と証明されているのは、平塚の駅路際に推定されて居るのでは?
その他に重要な、官舎として、座間に防衛の為か、輸送の為か?重要な場所です。
駅屋として、平塚から16km先に鎌倉があります。
六浦では、やはり重要な場所として、官舎が有ったと思っています。


■ 記 2006年06月28日  化粧坂を頼朝は、、、

下手な図面と思いつつ、、、UPしました。
1960年代の化粧坂上から、梶原団地へ抜ける道の断面です。
私の想像の話です。
何故、、、そう感じたのか?
自転車を引いてこの坂を下りながら、、、
鎌倉の山道の中で、
1、異例に真っ直ぐに感じた事。
2、谷の幅が、一様である事、
3、坂の傾斜が上から下まで同じであった。
そんな事を感じながら降りた思い出があるのです。

この手の道としての品格を感じるのです。
その品格の出所は、この3条件です。


■ 記 2006年06月29   梶原口から化粧坂へ
地図で示せば良いのですが、、、版権の問題があり取りあえず文章で!
バス停で言いますと、交差点「梶原口」より、「西梶原」、「梶原」、「東梶原」、「S字坂下」まで、、これよりバス路線を外れ、化粧坂に向かう直線的な谷へ入る。
化粧坂より、亀ヶ谷辻→寿福時前→八幡宮→六浦路→朝比奈へ、、、
これが、古代東海道の道筋と考えています。
細かい話は多々あり書かない事が多いのですが、、、、
質問が有れば、コメントに書き込んでください。
匿名、冷やかし歓迎です。
この次は、朝比奈切通しです。


■ 記 2007年10月29日   「海沿いに古東海道」が在った?? その①
コメントより
>  (T.M.@横浜)
> 2007-10-27 20:47:34
> ぼ輔さんの考察どおり古東海道は、源氏山を経由して
> 今の地名でいう六浦まで繋がっていたということが
> 良く判りました。
>  さて、不思議なのは、なぜ、「海沿いに古東海道」があったことになって
> しまったのでしょうか?
>  古事記の該当箇所を読んだら、日本武尊は、相模の国のどこかで焼き討ち
> にあった後、走水で東京湾を渡ろうとしています。その間、どういうルート
> をとったのか全く書かれていません。海路かもしれないし、陸路かも知れな
> いし、全く判らないのです。陸路だとすると、古事記のころは海がもっと鎌
> 倉の入り江の奥まで入りこんでいたので、今の源氏山付近を通るのが自然に
> 思われるのですが?

古い文献は、次のホームページが詳しい。
「古代における相模国古道と郷土大和」
http://www.city.yamato.kanagawa.jp/soumu/shishi/3_sisi_kenkyu/f_sike_03.htm

これらの文章から「日本武尊の東征」は未だ大和朝廷が東の国を配下に従えて無い時代の話で,
当然一貫性のある街道など考えようもなく、隣の豪族へ行く道がある程度と考えています。
そんな訳で、地方の豪族の間をジグザクに渡り歩く事になったと思っています。
東海道の国割りも未確定、東海道の名も定かで無い時代背景の「東征路」です。
奈良時代より更に前の数百年か千年なのか、、、文字の無い時代の話。
◎ 日本武尊の東征路は、国家体制が整わない時代のローカルな田舎道の話。
◎ 古代東海道は、国家体制が整い 強大な権力で強引に作り上げた大道路。
よって、日本武尊の東征路を根拠に古代東海道の道を論ずるのは軽率な事
   っと ぼ輔は考えるのです。

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鎌倉の古代東海道 下巻

2014年11月06日 | 古代東海道
■ 記 2007年11月02日   「海沿いに古東海道」が在った?? その②

 日本武尊の東征路を根拠に古代東海道の道を記されたモノは、
本では『神奈川の古代道』(藤沢 市教育委員会1997/平成9)があります。
市行政の公式見解の基と考えられます。
 この本に、東征路痕跡の具体例は記載が無いが、走水から千葉に渡った事は強調され図示されています。
この辺りが、古代東海道は走水より千葉へという公的見解の根拠と考えています。
   可笑しく思うのは、
国家体制が整わない時代のをつなぐ田舎道の痕跡など、周囲の道に紛れて確定仕様が無い。
日本武尊の東征路である!っと証明するのは、現時点の技術では不可能な事。
不可能な事を、、、この道が日本武尊も通った古代東海道と紹介される怪!

伝言ゲームの様に、
最初は、「古代東海道を考える時に、日本武尊の東征路の様に走水から千葉に渡った事例を考慮する必要がある。」
なんて言う話が、末端では「古代東海道は走水から千葉へ!」と言う話に成ったのかも?
その経過は不明だが、公的講座でこの様に語られるようです。
 このブログでテーマにしている古代東海道は、
 古代前期の東海道(初期の古代東海道)を前提に話をしています。
 理由は時代設定の混乱を避ける為と、巨大道路の見つけ易さが前提にあります。
(古代後期の東海道は道幅3~6mに縮小され、経路の変更もあり、特定に困難。)
図面は下記のHPより引用。
海老名市教育委員会 生涯学習部 文化財課
文化財探求講座「古代の道」


◎◎◎◎コメント◎◎◎◎
Unknown (T.M.@横浜)
2007-11-02 20:59:27
>国家体制が整わない時代のローカルな田舎道の痕跡
>など、周囲の道に紛れて確定仕様が無い。
>例え在ったとしても日本武尊の東征路である!っと
>いう証明をするのは、現時点の技術では不可能な事。
>不可能な事が、、、この道が日本武尊も通った古代
>東海道と紹介される怪!
ぼ輔さん、明快な解説ありがとうございます。
私の頭の中で、モヤモヤしていた霧が晴れてスッキリ
した感じです。
 ただ、古事記(や日本書紀)の日本武尊を、私は、
フィクションだと考えています。登場人物は
フィクションですが、地名は実在するもの
(現代の小説も同じです)だと考えています。西から東
へのルートは、フィクションを考えた時代のルート
が反映されていると思います。
 ですから、「この道は、日本武尊が通った道だ」と
いうことは、「この道は、月光仮面がバイクで走った道だ」というのと同じような気もします。
>理由は時代設定の混乱を避ける為と、巨大道路の見
>つけ易さが前提にあります。
>(古代後期の東海道は道幅3~6mに縮小され、経
>路の変更もあり、特定に困難。)
古代東海道を論ずるぼ輔さんの手法は、”古文書”ではなく”客観的にわかる事実”を集めて、論証してゆくわけで、科学的な手法のように思いました。
穿った言い方をすれば、”歴史科学”でしょうか。


科学的 (ぼ輔)
2007-11-04 08:19:12
> 古代東海道を論ずるぼ輔さんの手法は、”古文書”ではなく”客観的に
> わかる事実”を集めて、論証してゆくわけで、科学的な手法のように
> 思いました。
> 穿った言い方をすれば、”歴史科学”でしょうか。
ぼ輔の考えていることを的確に理解してもらっていると感じ、、、
とても、嬉しく思います。
学術的 = 科学的 = アカデミック とぼ輔は考えているのですが、、
自由に議論する場の無い、権威、権力に支配される学術的な世界を感じます。
その様な状態が、もし有ったなら科学的ではないですね。
ぼ輔の仕事の医療の世界でも同じで、医療機器は科学的に進歩しましたが、
それを扱う医師は非科学的な考え方で動く事が多い。
情報量が多すぎて、全体を把握できる人が少なくなる。
専門にコダワッタ為に全体を見る事を忘れた医療の世界を感じています。
ぼ輔は医師ではありませんが、、、

Unknown (「毘」)
2007-11-05 08:31:38
ぼ輔さん、ひさびさです。こんにちは。
職場の異動やら親族の不幸やらあり、すっかりご無沙汰しておりました。
昨日、ぼ輔さんの未読ブログを通読させていただきました。@横浜さんと凄い話が展開中ですね。
自分の浅薄な知識が何やら恥ずかしく感じられます。
私は、情緒的ですが、鎌倉街道の痕跡や古代・中世遺跡などを眺めて、
その面白さを紹介できればと思っております。

情緒的 (ぼ輔)
2007-11-08 16:17:07
大人の遊びですから、、、
間違っていたって、、本当は構わないのです。
自分の考えや、感じたものを表現できれば良い。
ぼ輔のブログだって、書きっぱなしで、
「反証された事の無い記録」ですから、、、、
何処まで正しいいのか??
自分では判らない。
間違った処はその時点で訂正すれば良い!
そんな風に思って書いています。
そんな中で、 (T.M.@横浜)さんの突っ込みコメントは嬉しく思っています。

不自然な武相国境 (横浜の風間)
2014-06-04 07:15:21
皆さんと7年遅れで話題を追っています(苦笑)
1897年までは朝比奈町、東朝比奈町は相模国にあった。
それまでは、分水嶺に沿っているはずの武相国境が大きく東に張り出す特異な状況だった。
平安海進期は六浦周辺の海岸線はこの辺まで切れ込んでいる。
付近の三艘という地には、唐船3艘が着いたという伝説があり、良港であったことが伺える。
以上のような状況証拠は、古代東海道がが771年以前、古代朝比奈切通を越え六浦の港津から上総へ渡海した、というぼ輔さんの説を補強するのではないか、と思うのですがどうでしょう?

武相国境の例外 (ぼ輔)
2014-06-04 21:46:18
> 分水嶺に沿っているはずの武相国境が大きく東に
> 張り出す特異な状況だった。
言われて、、納得の話です。
鎌倉郡衙=鎌倉駅家=平塚より16Kmの駅屋に相当する場所=六浦の港も鎌倉で管理したであろう。
それが、、武蔵国では都合が悪いはず!
こんな突込みが、この記事を新鮮にする訳です。
現に、古い記事を見直して細かく修正し始めました。
カテゴリーでマトメて読みやすくしようと思います。

古代東海道の直線 ((ぼ輔)
2014-06-04 21:57:40
古代東海道は直線的に作られた!
始から、、六浦や、鎌倉を目的に作られたとすれば、、、
六浦(鎌倉)から足柄峠の矢倉岳へ直線を引くと、、、
平塚の道路遺構、辻堂の四谷にある大山道などが直線に乗るのです。
途中は山を避ける為微妙に曲がりますが、、、

直線の不思議 (横浜の風間)
2014-06-06 07:03:07
線をもう少し東に伸ばして、矢倉岳と上総国の天前駅比定地をお繋ぎ下さい。
田村通り大山道は少し外れますが、高麗山、鎌倉郡衙含め、良い感じで並びます。
歴史ロマンのレベルではありますが、面白いですね(笑)
ご参考まで。 (横浜の風間)
2014-06-06 19:54:49
ちなみに、771年より前の古代東海道が存在した頃の海水位はこんな感じだそうです。↓
西暦700年頃の相模湾 7.0m
http://k-rondo.usss.kyoto-u.ac.jp/jinbun/sagamibay/slide/sagamibay-7_0m.jpg
出展:京都大学宇宙総合学研究ユニット 宇宙計画研究室

海水面 (ぼ輔)
2014-06-18 10:18:21
> 西暦700年頃の相模湾 7.0m
これは、、私の実感とは合わない。
海蝕洞とか海蝕台と言うモノが、江ノ島や稲村ガ崎にあります。
波打ち際で、波の力で岩が削れる訳ですが、、恐らく数千年の単位で侵食されるのだと考えています。
江ノ島の岩屋前の海蝕台はとても広く、それが作り上がる間は、其処が海面の時期が長い間在った根拠です。
古代道が作られた時期は、今の水面より、2~3m程度と考えるのが私の実感です。
藤沢は遊行寺前の境川まで砂地で、ある時期は海がそこまで在った根拠ですが、、、
問題は、ある時期とは何時か?
この問題は深く考えずにいましたが、本気で調べる時期が来たようです。

■以下はより引用
南極やグリーンランドの氷床コアや堆積物中の有孔虫化石などの酸素安定同位体比を調べると、過去の相対的な気温、海水温変化がわかります。全世界で8000~5000年前くらいに緯度にもよりますが現在より0.5~2度程度高かったとされています。高緯度地方ほど上昇は大きい傾向があり、シベリアでは5度以上高かったとするデータもあります。また花粉分析などでも気候の変化が分かりますが、それでも同じような傾向が認められています。

この温暖期は4000年ほど前に終わり、2000年ほど前に現在よりやや寒い寒冷期に入ります。1000年ほど前にはやや温暖化しますが、その後500年ほど前から再び寒冷期となり小氷期とまで呼ばれることがあります。この時期には隅田川やテムズ川が冬に凍った記録があります。ここ100年ほどは気温が上昇する傾向にあるのはご存知のとおりです。

お詫び (横浜の風間)
2014-06-19 07:29:56
ややこしい話題を振ってしまったようですみません(苦笑)
ですが、高い海水位だと、
①元々相模国だった旧・峠村(朝比奈町、東朝比奈町)が古代の六浦港に直結。鎌倉郡衙の外港という説を補強できる。
②定説の古代東海道ルートで、当時は海面下となる場所が出てくる。例えば、逗子市の御浦郡衙(?)から鐙摺切通を通って葉山へ抜ける部分など。
…というような、ぼ輔さん説を裏付ける情況証拠も出て来るのですが。。。
どうなんでしょう!?

海水面 (ぼ輔)
2014-07-01 15:51:47
2014-06-30 14:25:33
海水位の問題は、当初からありまして、、
東海道線藤沢駅から平塚駅まで砂地であり、古くは太平洋の波打ち際でした。
これが波打ち際だと、、古代東海道は海の中。
その根拠に江ノ島の海蝕台が出来上がるのに数千年掛るであろうというオボロゲな推測で、関東大震災で1m浮き上がったという考えをしていました。
でも、確実な根拠ではないのです。
本気でそれを裏付けを考えています。
海蝕洞は、古代の人が住んだ遺跡があります。それで年代を特定できる。その内マトメタイと思います。
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