鎌倉城の七口の周知事項を、、、
鎌倉城の七口を峰で結んだ道は、「大鎌倉城1」の地図に黄色ラインで書き込みました。今はハイキングコースとなり、この道を観察して、鎌倉城を云々するのは、話の根本が違います。
黄色ラインは、押し寄せる敵に対し、兵を移動する峰通しの道と考えられる。
城の実態は、このハイキングコースの足元にある切岸とその規模です。
防御壁の全体を把握する事で、何故 新田義貞が鎌倉城を正面突破出来なかったのか?の疑問の答えとなるでしょう。
部分的情報は在るが、新田義貞は鎌倉城の西側半分を攻めたのです。
そのラインは4Kmも及びますが、唯一入り込む隙間は、城壁を作れない浪打際だけでした。
それ程、強固な切岸を作ったが、、それを調べた研究が無い。
三方を山に囲まれた天然の要塞都市ではなく、
「三方の山を人為で長大な切岸を作った要塞都市」です。
防衛ラインの切岸は、実践に耐えた強固な城壁で、北側と、西側を含めると12Km以上の切岸が在る訳で、それは鎌倉城の一部です。
他には、七口から張り出した峰を使い押し寄せる敵を待ち受け攻撃する砦構造が有り防御ラインだけでなく、面としての広がりを持った防御施設である事に注目するべきです。
それが理解できれば、峰の数だけ兵を送る尾根路があり、鎌倉街道とは異質の作りで区別が付くのです。
兵を送る尾根路は道幅が狭い、曲がりが多い、アップダウンが有る等の街道に適応しない尾根道です。
街道も、新田勢来襲で七口の切通を封鎖した。
どの様に封鎖したのか??
具体的に書かれたモノは無い。
いや、このブログで既に書いてあるのですが、
「さて朝比奈切通し!」2006-06-30 |
「大仏切通しの最大の問題点!」2006-06-25
この封鎖の残骸が、峰の道と街道道の区別を混乱させた基と考えています。
この七口は、乗り越えるのに困難を極め、、、江戸時代に道路を補修した記録もある。
> (北道倶楽部<www.ktmchi.com/>より)
> 小袋坂ー1851年には鶴岡八幡宮寺の岩瀬一学が峰の
> 高さを約3m掘り下げる普請を建長寺に申し入れ許可
> 鎌倉市史(考古学編)には
> (北道倶楽部より)亀ヶ谷坂切通し----山ノ内に入った敵軍は、長寿寺手前から
> 長寿寺の脇を経て亀ケ谷坂に侵入する事が出来る。この道が尾根を切り通したも
> のが亀ケ谷切通である。現在のものは後世深く且つ広く改修したもので、
> 当時は現在の切通の上の方を狭い切通路が通っていたもの。
> これは前方に逆茂木を並べ切通上に陣を敷いて待ち構えていたら、通る事は出来
> なかったろう。 (「鎌倉市史(考古学編)」p178 )
同じく、朝比奈の切通、大仏切通でも江戸時代に道路補修が行われた。
要は、七口総べてが封鎖された。 江戸時代に一部道路を補修した。 しかし明治の時代でも人力車を通す道は大仏切通だけで「七口封鎖のバリケード」は残骸として残り、通行の障害となっていた。
七口の封鎖は、どの様な規模で在ったのか? 想像出来ますか?
15日分配河原で負けて、18日には戦いが始まった。その数日でバリケードを作った速成バリケードは、どんな規模であったか?? 考えてみて下さい。
写真は
洲崎古戦場の碑。この道路が無ければ、敵を迎え撃つ断崖と成っていた場所です。
鎌倉城の七口を峰で結んだ道は、「大鎌倉城1」の地図に黄色ラインで書き込みました。今はハイキングコースとなり、この道を観察して、鎌倉城を云々するのは、話の根本が違います。
黄色ラインは、押し寄せる敵に対し、兵を移動する峰通しの道と考えられる。
城の実態は、このハイキングコースの足元にある切岸とその規模です。
防御壁の全体を把握する事で、何故 新田義貞が鎌倉城を正面突破出来なかったのか?の疑問の答えとなるでしょう。
部分的情報は在るが、新田義貞は鎌倉城の西側半分を攻めたのです。
そのラインは4Kmも及びますが、唯一入り込む隙間は、城壁を作れない浪打際だけでした。
それ程、強固な切岸を作ったが、、それを調べた研究が無い。
三方を山に囲まれた天然の要塞都市ではなく、
「三方の山を人為で長大な切岸を作った要塞都市」です。
防衛ラインの切岸は、実践に耐えた強固な城壁で、北側と、西側を含めると12Km以上の切岸が在る訳で、それは鎌倉城の一部です。
他には、七口から張り出した峰を使い押し寄せる敵を待ち受け攻撃する砦構造が有り防御ラインだけでなく、面としての広がりを持った防御施設である事に注目するべきです。
それが理解できれば、峰の数だけ兵を送る尾根路があり、鎌倉街道とは異質の作りで区別が付くのです。
兵を送る尾根路は道幅が狭い、曲がりが多い、アップダウンが有る等の街道に適応しない尾根道です。
街道も、新田勢来襲で七口の切通を封鎖した。
どの様に封鎖したのか??
具体的に書かれたモノは無い。
いや、このブログで既に書いてあるのですが、
「さて朝比奈切通し!」2006-06-30 |
「大仏切通しの最大の問題点!」2006-06-25
この封鎖の残骸が、峰の道と街道道の区別を混乱させた基と考えています。
この七口は、乗り越えるのに困難を極め、、、江戸時代に道路を補修した記録もある。
> (北道倶楽部<www.ktmchi.com/>より)
> 小袋坂ー1851年には鶴岡八幡宮寺の岩瀬一学が峰の
> 高さを約3m掘り下げる普請を建長寺に申し入れ許可
> 鎌倉市史(考古学編)には
> (北道倶楽部より)亀ヶ谷坂切通し----山ノ内に入った敵軍は、長寿寺手前から
> 長寿寺の脇を経て亀ケ谷坂に侵入する事が出来る。この道が尾根を切り通したも
> のが亀ケ谷切通である。現在のものは後世深く且つ広く改修したもので、
> 当時は現在の切通の上の方を狭い切通路が通っていたもの。
> これは前方に逆茂木を並べ切通上に陣を敷いて待ち構えていたら、通る事は出来
> なかったろう。 (「鎌倉市史(考古学編)」p178 )
同じく、朝比奈の切通、大仏切通でも江戸時代に道路補修が行われた。
要は、七口総べてが封鎖された。 江戸時代に一部道路を補修した。 しかし明治の時代でも人力車を通す道は大仏切通だけで「七口封鎖のバリケード」は残骸として残り、通行の障害となっていた。
七口の封鎖は、どの様な規模で在ったのか? 想像出来ますか?
15日分配河原で負けて、18日には戦いが始まった。その数日でバリケードを作った速成バリケードは、どんな規模であったか?? 考えてみて下さい。
写真は
洲崎古戦場の碑。この道路が無ければ、敵を迎え撃つ断崖と成っていた場所です。