鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

鎌倉の古代 9

2011年06月29日 | 鎌倉の古代
[鎌倉の古代 8]の図は、新野脇屋遺跡群から東の上遺跡へ向かう赤いラインの先の鎌倉ですが、空気が良ければ新宿が見える天園(太平山)です。この天園の下に有る谷がイタチ川の深田製鉄遺跡の場所です。
東山道武蔵路は、最初からこの鉄の産地と染屋太郎(東八箇国の総追捕使)の軍事目的で道を作ったのであろう!
そう考える根拠です。

イタチ川沿いの古代遺跡が語る事は、
青銅器文化を駆逐する、、、渡来人の存在と鉄器文化です。
農業用の鍬や鎌として、防衛の刀、槍、矢じり、これらは国力の基盤となるのです。
東海道だけでなく、東山道支道まで鎌倉へ造る重要さは、この辺りではないかと、、、
ぼ輔は想像するのです。
イタチ川沿いは、鉄器文化の幕開時代と政治の後押しで作られた事を想像するのです。
都から離れた鎌倉で、遺構の規模の大き、道路の整備を根拠に、ぼ輔はそう考えるのです。

> 深田製鉄遺跡(横浜市栄区上郷町555番地)
> 無数の「たたら」跡が発見された上郷、深田製鉄遺跡の発掘現場。
> 現在遺跡の主な部分は舞岡上郷線の道路の下になっています。
> 昭和61年の発掘調査により規模の大きな古代の製鉄遺跡であり、
>  神奈川県教育委員会の説明には、
> 奈良、平安時代の大規模な製鉄遺跡で。製鉄の原料は遺跡の周辺に
> 砂鉄を含む堆積層があり、この砂鉄が使われた。

っとあるのが、お役所の公式見解です。

写真は、鉄器文化を示す「白山社」の入り口昇竜橋と登りの階段。
    「鎌倉の古代3」の三品さんの写真はこの場所の下。
    とても、、ピンボケですが、朝の4時で薄明かりの中です。  
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上の道、下の道 5

2011年06月25日 | 東山道~鎌倉

  上の道,下の道 の巻 終り

上の道、下の道 の種明かしは,既に書きましたが、、
視点を変えれば、、、

太平記は、作者は不詳であるが、反鎌倉幕府の立場の記述と考えられる。
     講談的な話の誇張があり、戦後の又聞きの文章と考えられる。
吾妻鏡は、幕府中枢で書かれた鎌倉幕府公式見解的な本の様です。
     リアルタイムで書かれた当事者の文章。
梅松論は、鎌倉寄りの文人が、滅亡後に書かれた様で戦いの傍観者の様です。

武蔵大路を「上の道」と書く太平記の根拠です。
鎌倉幕府側から、この路を「上の道」と呼ぶのは無理で、、
タテマエはドウでも、鎌倉にとって、平塚箱根の西方向が奈良や京の都で上ですから、、
鎌倉幕府から見れば、武蔵に向けた路は、山間僻地へ向かい奥州征伐に使用した様に未開の場所に行く感覚です
頼朝の鎌倉では、
鎌倉幕府は政治や経済の中心で、京都を従えて政治を行う都です。
鎌倉から出た道は総て下る道で鎌倉幕府に「上の道」は無い。
吾妻鏡で書かれた下の道は、太平記で書かれた「上の道」という訳です。

武蔵大路を前時代の東山道武蔵路の延長と考えれば、、オノズトその答えは出る。
東山道武蔵路は都に行く道=上の道となるのが朝廷の立場です。
鎌倉幕府では上を無視し下の道としても、反鎌倉幕府派には「上の道」となる。
ですから、、
平城京の「大和三道」とは成り立ちが違い、上下の意味も中身も違うし、立場で解釈が違う。
太平記、吾妻鏡、梅松論の記述は、幕府側か反幕府側かの視点で呼称が変わる。
更に、武蔵大路を防衛上の都合で破壊の後、本来の鎌倉街道が大路の脇を「いざ!鎌倉」の先陣争いの道が各氏の数だけ、、、、複数作られた。
 武蔵大路は消えて、結果は細い鎌倉街道が同じ方向に何本も在るのが現状です。
その様な訳で、鎌倉幕府が作った上の道、下の道の実態は無い。在るのは、「いざ!鎌倉」の先陣争いで使う直線道路で、6m幅や、9m幅の道路遺構は、古代の官路であろう!
  これが呼称の混乱についての考察です。
以前の研究者がソレゾレの説を主張しているのを承知で、ぼ輔流の説をデッチ上げました。
反論して頂けると嬉しいのですが、、、、

今の様な宅地化が無い戦前に、柳田国男(民俗学者)が著書「武蔵野の昔」で書かれた事は
 「この辺りの村々で老人などのよくいふ鎌倉路という古道である。此名が残って居れば必ず昔の奥州街道の宿場であったやうに決定してしまふが、第一それでは奥州街道が何本あっても足らぬ上に、単に鎌倉路といふだけでは、何処からのといふことが分からぬ筈である。」

古道探しが現在より数段楽な時代でも、この様であった。、
武蔵大路なんていう立派な道は土に埋もれ、細い鎌倉街道と呼ばれる路が多数存在する、しかし伝承は地元の生活道路であり鎌倉方面に行く道、鎌倉街道の痕跡の保障は無い訳です。
放射状に成るべき鎌倉街道が、伝承を元に地図に書き込むと網の目の状態になる理由は生活道で 江戸時代の伝承が大半の為に起きた現象と考えるのです。
上、中、下の道も根拠が曖昧のまま憶測で語られ風評と成り、その脇に在る幾多の鎌倉道の特徴を持った直線的な路が話題にされる事も無く、宅地化で消えていく。


 写真は、北鎌倉女子学園グラウンドの脇の土橋路の状況です。
「上の道、下の道4」とは逆方向の化粧坂から大船に向けた方向で写した写真です。
下の平地は北鎌女子グランドで、土橋の壁と異質な岩壁を撮ったものですが、植物に覆われて 岩壁は隠れてしまいました。要は、この岩壁は、海蔵寺裏の大堀切と同じパターンではないか?と考えるのです。
そして、土橋の柵が曲がったところが、前回の写真の矢印です。
岩壁と土橋の道の造りが関連するのです。
ぼ輔は、何を考えているのか??
海蔵寺裏堀切が武蔵大路痕跡の切通しとすれば、鎌倉最大の切通しですが
この場所が切通しであれば、海蔵寺以上の切通しとなります。

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東山道相模路8

2011年06月04日 | 東山道~鎌倉

鎌倉を基準に考えれば、、、どの様になるでしょう??
鎌倉の都を上とすれば、鎌倉から地方へ行く道は総て下りです。
地方から鎌倉へ行く道は総て上りです。上りの道とは言わずに、鎌倉道と地方では言われた。
鎌倉から地方へ行く道をあえて「下り」と言わないのですが、
古来東海道の常陸に向かう道を下の道として呼ばれたと考えられる。
その他、特別に下の道と言われた道があります。それが太平記で「上の道」と書かれた道であったのです。
同じ道を、太平記では上の道! 吾妻鏡では下の道! これは矛盾です。
挙句が、奥州街道や武蔵大路等と呼ばれ、、、それだけでなくその実体が無い!
有るのは、武蔵府中に向かう道である事です。

それは、、、何故!!
さて、、、「鎌倉の古代1~7」を読んで頂ければ、、、
古代の鎌倉から武蔵国府への道は、東山道武蔵路の上の道に当たります。
鎌倉時代になり、鎌倉の都を考えれば、、京へ下る「下の道」となる訳です。
京を蔑む心を隠せば、下を使わず「奥州街道」や「武蔵大路等」と呼ぶでしょう。
大路は鎌倉を守るには、不都合な道となり、、、この写真の道が作られたと考えるのです。
この様な考えをすると、鎌倉の上、中、下の道の区別は中身の無い話に成ります。
実際に、鎌倉の上、中、下の道の話は、確信を持って実体を示せる人は皆無です。
 鎌倉前と天下を取った幕府では上記の理由で道の呼称は変わったと思われる、、「年代の違いで呼称が変わる問題。」
幕府内の人と、倒幕派の人でも呼び方は変わる人の「モノの見方、考え方の違い。」
幕府成立で防衛上に問題のある大路は消滅し、代わりに鎌倉街道と呼ばれる馬一頭が疾走できる道が多数作られた。
鎌倉周辺の鎌倉街道は狭く、旧大路脇を通れば下の道、上の道と呼ばれ「道の成り立ちの違い。」
これらが絡み合い、上の道、中の道、下の道は、定義が曖昧となる。
その道筋を正確に示したなら、、、それは強引過ぎるか、説明不足の話です。 
 地方の鎌倉街道は防衛に無関係でしょうから、、、、
奈良平安時代の幅が広い道も多数残って、これも鎌倉街道!

写真は、、
水堰橋から、化粧坂に向かう途中の北鎌倉女子学院グラウンドです。
 下の道は時代によって、東京府中市、町田市、座間の星谷寺、海老名国分寺、横須賀水道と重なり、
鎌倉へ向かう道も在り、古代の武蔵国衙と鎌倉郡衙の道(品格の有る、直線的で幅の有る道で、俗に言われる鎌倉街道とは区別する。)は、一つではなく複数考えられると「ぼ輔」の資料から想定している。
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