2017-02-02 記
由比ガ浜より見た住吉城(小坪方向)の切岸。
三方を山に囲まれた要害?
それは守りたい場所が在る前提の話で 守る場所の三方を山に囲む訳です。
鎌倉の都を守る為なら、内側の切岸は不要です。
内側の切岸の在る理由は、鎌倉の都を守る為ではない!
鎌倉城は、
『元寇と鎌倉で決着する為に城を造った!』と言う訳です。
元寇は船で攻めて来る!
っとなれば海岸から襲来する訳ですから、、、
陸伝いに攻めて来る訳では無いっと考えていた事を想像できます。
鎌倉の都を守る目的は、この時点で亡くなり、元寇退治が最優先します。
元寇を都内に入るのを防ぐために、海岸に防御壁を作った遺構も出土しています。
防御壁が破られたら都に侵入する。
鎌倉市街にいる元寇を三方の山で防ぐ為の切岸となる訳です。
中央アジアからトルコ迄の国の広さは広大で、世界一の武力を持ったモンゴル帝国(大元朝)です。
世界史上最大の艦隊が日本に攻め寄せる訳です。
日蓮が「国難!」っと騒いだだけでなく、
Wikipediaでは、
〉鎌倉には南宋より禅僧が渡来しており、これらの南宋僧侶
〉による進言や、大陸におけるモンゴル帝国の暴虐などの報
〉告もあったとされる。
鎌倉幕府第8代執権北条時宗が鎌倉城を当時世界最大の軍隊に対峙する城が遺構として有る。
根拠は、
対国内の反幕府を相手の城では大き過ぎで、国を二分する戦いでも七口を繋ぐ防衛ラインに兵を配置するのが限界の兵力数で有った様子が伺える。
とは言え、城として優れ、新田軍60万騎に対し、鎌倉軍14万騎で正面攻撃を持ちこたえたのです。
負けた原因は、異常気象で潮が異常に引いた為!
鎌倉城は、対モンゴル帝国に作った城と考えられ、日本の数ある城の中でも特別な城であった訳です。
隣の領主からの攻撃に対処する、、、なんていう国内規模の城ででは無く、
世界一強大な軍隊と日本が対等に戦う城であった訳です。
巨大なモンゴル船団には、日本国中の兵士が力を合わせて戦う必要が有った。
■その為に、巨大な城に成った。
■船団は海から攻めてくる為、由比ガ浜から攻撃が始まる事を覚悟した。
■船団は、由比ガ浜と並行して金沢八景の貿易港から攻め入ると考えるのは、当然な話です。
金沢八景の周囲も城郭構造が有ったと考えるべきでしょう。
今から思えば1960年代の金沢八景には奇妙な切岸に相当する物が有ったのですが、、、
この東京湾に面した六浦港の切岸を加えたら 鎌倉城は、更に巨大になる。
その様な訳で、
現在の鎌倉周囲の山を見て、鎌倉は三方を山に囲まれた『天然の要害』等と言うのは、
机上論であり、鎌倉の切岸の全体図を示す調査資料は無い上、鎌倉の地形を調べもしない無知な研究者が憶測で書いた本が風評と成り拡散したものと考えています。
鎌倉山の実態を調べられる鎌倉市民が「鎌倉に城は無い」っと口に出すのは自分で見て考える能力が無いのです。本の権威に縛られ自分の考えを持たない方でしょうね。
必要なのは知識ではなく、常識を疑う 自分なりの視点と考えを持った教養と言う訳です。
物事を理解し、解決するには基礎的資料集めと 統一された思考法と洗練された価値観や知識を矛盾無くマトメル必要が有る。
知識の質、重要性、真偽、等に対して、自身の思考が試される訳です。
教養とは、その様な知識の問題に対して、考えが「無理が有る」とか「嘘だ!」と言う独自の判断ができる。
鎌倉の問題に対し、基礎資料も無いのに判断を下す似非専門家が多いのですが、、、
教養が有れば、資料不足で結論が出せない話になる。
研究者として、根拠の薄弱な結論を出せば、取り返しのつかない汚点になるのですが、、
私の立場?
「素人で暇つぶしのブログです。 肩書は有りません!」
書いていることが間違っていたら、、修正すれば問題無かろう~~~!
無責任だ!等と思われる方は、、、 ぜひコメントから非難をしてください。