鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

鎌倉城と蒙古襲来 3

2017年02月21日 | 巨城対モンゴル

    京浜急行「金沢八景駅」脇の切岸痕跡。
1281年5月。元軍は二手に分かれ日本に向かう。東路軍4万人と江南軍10万人です。
台風により、全面戦争には成らず、神風が吹いた!と言われた。
元寇が実際に在り、対抗する為に鎌倉に巨大な城を造った理由です。
更に言えば、関東の武士が元寇の為に九州に向かう形跡も無い訳です。
その前の時代は、防人と言う制度が有り、鎌倉からも行く話がある。
■ 記 2007年09月10日 奈良時代の文献 1
http://blog.goo.ne.jp/mementosmori/e/642827a399e4ebf4123baa19c54ed7a5
〉奈良時代の希少な文献で、万葉集というのが有ります。
〉地方から、大和国防衛軍として九州に旅発つ人が歌を詠む
〉そんな防人の歌が多く載った本です。
〉その中に鎌倉で詠まれたモノがあり 問題にしたい歌の紹介です。

〉本文: 可麻久良乃、美胡之能佐吉能、伊波久叡乃、伎美我久由倍伎、己許呂波母多自、
〉読み: かまくらの  みこしのさきの   いわくえの   きみがくゆべき  こころはもたじ
その前の時代は、九州が決戦の場であり、大宰府を守る為に水城が有った訳です。

鎌倉時代に成り、元寇では 何故関東武士は、九州で待機しなかったのか??他国に日本が侵略される一大事です。
何故関東武士は九州に行かなかったのか?
その答えは「鎌倉を決戦の場と考えていた」というのが、
鎌倉の巨大過ぎる城郭遺構を根拠にした私の推測です。
文献は無いが、巨大な城郭遺構が残り、調査もされずに宅地化等で消失しつつある。

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鎌倉城と蒙古襲来2

2017年02月17日 | 巨城対モンゴル

 片瀬の龍口寺から金沢八景まで、、、鎌倉城の可能性を考えます。
素朴な疑問さんのコメントのお陰で、、、
鎌倉石を使った土塁が存在し、元寇防塁相当なものが有り、、、
異常に防御的な海側に出入り口の有る屋敷の存在を文書から確認できました。
それらの造られた年代が今回のテーマです。

「有隣」平成15年9月10日 第430号
〉13世紀の後半期には、山稜部に要害遺構もつくられ、
〉由比ヶ浜南遺跡の大規模な建物も建てられた。

頼朝が鎌倉に入るときに、要害の地として築いたの
ではなくて、もっと時代が下がった13世紀の後半に
〉なって初めて鎌倉の山に人工的な手を加えて、要害
〉遺構をつくったということが、今回わかったわけで
〉す。

この文面には、何度も「要害遺構が山稜部につくられたのは13世紀後半!」と書かれている。
具体的には西暦1250年から1300年の間と言う事です。
元寇の年は、文永の役が1274年と言う訳ですから、、年代的にも整合します。

この年代に、
  山稜部が要塞化の工作がされた。
  海には「異様に防御的に造られた生活臭のない屋敷」が作られた。
  屋敷の東と西には鎌倉石を使った大規模な土塁か築地があります。
これで、一応は鎌倉の街を守る防備準備は出来た訳ですが、、、
海の防備が破られた時には、街の内側にある切岸が次の防衛ラインに成る訳です。
鎌倉市街に向けた崖は、住宅用の平地確保の為ではなく、切岸であり、峰に登らせない為の一貫した工作が峰の内側(鎌倉市街地に向き。)にされているのが根拠です。
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コメントより 3

2017年02月09日 | 巨城対モンゴル
意見交換をするには、前提が有ります。
今回は下記の「有隣」の記事を読んだ事が前提に成ります。

> 有鄰 平成15年9月10日  第430号
> ○座談会 中世鎌倉の発掘 (1)  仏法寺跡と由比ヶ浜南遺跡をめぐって
> http://www.yurindo.co.jp/static/yurin/back/430_2.html
> 
> ○座談会 中世鎌倉の発掘 (2)  仏法寺跡と由比ヶ浜南遺跡をめぐって
> http://www.yurindo.co.jp/static/yurin/back/430_3.html
> 
> ○座談会 中世鎌倉の発掘 (3)  仏法寺跡と由比ヶ浜南遺跡をめぐって
> http://www.yurindo.co.jp/static/yurin/back/430_4.html


■ごめんなさい、意味が分かりません。 (素朴な疑問)
■2017-02-07 20:09:43
■「有隣」の記事は、極楽寺坂切通し周辺の防衛遺跡を取り扱ったものです。
■しかも、土塁で囲まれた施設と明示してます。
■これは、博多湾の防塁とは完全に異なるものです。
■いう間でもないことですが、博多湾や長崎には遺構がちゃんと残っとています。
■つまり、もともと鎌倉には元寇に備えた防塁など存在しないのです。
■もうお分かりなように、元寇に備えた鎌倉城なるものも存在しません。あなたの幻ですw

■このコメントに対し私の考える事は、、、、
「有隣」の記事を見たのでしょうが、、、「全くご理解をされてない。」
通常は 文を読むことは、書かれた事を理解するために書き手の気持ちを汲みながら読む訳です。
「極楽寺坂切通し周辺の防衛遺跡を取り扱ったもの」と断じる偏った読み方をされている。
何が間違いか?
この記事の主題は「仏法寺跡」でして、極楽寺坂ではありません。
もう一つの間違えは、
この記事の主題は「由比ヶ浜南遺跡をめぐって」です。
コメントの「土塁で囲まれた施設と明示してます。」と言うのは、由比ヶ浜南遺跡の一部です。

最大な間違えは、「博多湾や長崎には遺構がちゃんと残っとています。」ですが、、、
鎌倉でもチャンと残っていたから由比ヶ浜南遺跡に記録された訳です。

意見交換に必要な事は、
有鄰の『記事を見た!』ではなく、『記事を読んで理解した!』事が前提です。
先ずは、再度 有鄰を見て理解してください。大人の意見交換に必要な最低限の事です。
自分の意見が出来上がるまで、何年でもお待ちします。この件に関してはこれにて話を打ち切ります。
コメント (11)
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コメントより 2

2017年02月07日 | 巨城対モンゴル

    由比ヶ浜南遺跡は鎌倉海浜公園内の遺跡mの場所。
じつは、コメントを出す前に次の記事を用意してありました。

〉元寇は由比ヶ浜から上陸し、鎌倉市街を抜けて敵が攻めて来る事を
〉想定しているのです。
〉それでは、、鎌倉の町は守れない!
〉でも、、
〉其処まで想定した城造りで有った訳です。
〉元寇は、船で攻めて来る! っと考えれば、
オノズカラその理由は、七里ヶ浜や由比ヶ浜から船で攻め込まれる!
〉海岸には、博多と同じ石築地(元寇防塁)が造られ街を守ったと
〉考えられるが、その遺構は有る様な無い様な、、、
〉ドノみち、数度の津波で破壊されたか埋まってしまったのか?
〉石築地が破られた事を考慮に切岸が在って当然でしょう。


  そんな訳で、
石築地(元寇防塁)の存在をウヤムヤに誤魔化すつもりでおりました。
コメントの有ったおかげで「有隣」の記事を再読し、思いの外の文面にビックリしました。
この文面を前回見た目的は、仏法寺の詳細を調べた時に目にした訳で、由比ヶ浜南遺跡は見ても眼中に無かった訳です。
オボロゲな記憶で有った訳で 改めて元寇を意識してみると石築地(元寇防塁)そのものですね!
他人からコメントをされると、自分自身が気が付かない殻を打ち破る刺激になります。

 防塁の存在は、前記しましたが、場所は、、、
〉有隣 平成15年9月10日  第430号より
〉由比ヶ浜南遺跡は鎌倉海浜公園内の遺跡です。この遺跡の発掘調査
〉は地下駐車場建設に伴う工事に先立って行われました。

 これは、、、下手をすると、
地下駐車場建設により防塁を破壊して駐車場を造った訳でしょうか?
「由比ヶ浜南遺跡」の報告書を見たくなります。

「幕府が鎌倉への直接上陸を恐れた」と言う処が重要と思います。
恐れた気持ちが、巨大な城を造る動機になる訳です。
この件は、今後の課題です。
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コメントより、

2017年02月06日 | 巨城対モンゴル
トテモ鋭いコメントをされた方が居られます。
「鎌倉に博多湾に作られた石築地(元寇防塁)は無かったのか??」
  っというコメントでした。
スグに消去されましたが、、、
その答えに当たる「由比ヶ浜南遺跡」の資料を見た事が有りません。
詳細も忘れ去っていましたが、コメントに答える為に必死で記憶を呼び起こしました。
その成果の「有隣」に書かれた文を引用させていただきます。

有隣 平成15年9月10日  第430号より
〉由比ヶ浜南遺跡は鎌倉海浜公園内の遺跡です。この遺跡の発掘調査
〉は地下駐車場建設に伴う工事に先立って行われました。
〉鎌倉市内では一番海に近い地域を10,000平方メートルの広さが調査で
〉きたことで大きな成果がありました。
〉検出されたのは大きな礎石建物を持つ屋敷を中心とした小規模な建
〉物群とそれに前後する埋葬人骨群です。
   中略
〉異様に防御的に造られた生活臭のない屋敷
〉大きな礎石建物と屋敷は13世紀後半になって造られます。
〉この屋敷と建物の特徴は、北側が敷地外で調査されていないので判りま
〉せんが、屋敷の入り口である門が南の海に向かって造られていることです。
門の両側には塀がありますが、その塀の板が造られた当初は線路の枕木
みたいに太い角材を使っています。
屋敷の東と西には鎌倉石を使った大規模な土塁か築地があります。

   中略
〉この土塁と強固な塀で囲まれた屋敷と建物は、鎌倉でこれまでに見つかっ
〉ている屋敷にくらべて異様に防御的に造られていると思います。防御的な
〉屋敷の門が海側にしか無いということも不思議な点です。
〉出土している遺物には生活臭がありません。かわらけという灯明皿として使
〉う素焼きの皿は多いんですが、例えば、生活する鍋、釜とか碗、皿類や燃焼
〉施設のかまどなどは全くありません。居住性がほとんど感じられない。
〉それと、何回も建て直されてないこともわかりました。


 以上が抜粋なのですが、、、
元寇防塁と同様な作りで有れば、、、
元寇対策で鎌倉城は作られたと言う根拠に成るのでしょうが、、
もし宜しければ、再度同じコメントを頂けると嬉しく思います。
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鎌倉城と蒙古襲来

2017年02月06日 | 巨城対モンゴル

  寿福寺南岩壁より峰に上がる道。
鎌倉城は三方を山に囲まれた要害で「外敵から鎌倉市街を守る為」とネットでは書かれている。
しかし、
鎌倉城の切岸は、その様に出来てはいない。
鎌倉市内から外に出たくても、簡単に外に出れない様に成っている。
その原因は、鎌倉市内に向けて切岸が在るのです。
七口の出入り以外では、兵の出入りの為の道が有りますが、、
特徴的なのは、寿福寺の南岩壁から源氏山に抜ける道が有ります。

元寇は、鎌倉時代に元(ジンギス・カンの孫フビライ・ハン、当時世界最大の超大国と、最強の軍隊である。)とその属国高麗が日本侵攻した話です。
文永の役(1274年)で元寇が有り、4万の兵と900艘の軍船を見せつけられ脅威を感じた!
対馬の西岸佐須浦を襲い、1週間にわたり残虐の限りを尽くし、島民を惨殺し博多湾に攻め入り、幕府軍は大宰府の水城まで後退した。
文永の役の翌年,元の使者が来航。外交使節の杜世忠は、腰越の龍ノ口において斬首《注※》した。
これが、元寇に対抗する城造りの大きな動機となった筈です。
文献にも残り、実際に見られる砦としては、、文永の役に懲りて、博多湾に石垣を造った。
2~3mの高さの石垣を20㎞の長さで造り、その跡は大宰府の水城と共に現存している。
関西の武士の力でこの石垣を作った様で、九州に領地を持つ一部の関東武士が加わった様です。
この石垣造りに大半の関東武士は関わった様子が無い。
関東の武士は、その間何をしていたのか??  その文献を私は知らない。

博多湾の石垣工作の規模から推測すれば、
鎌倉に元襲来が有る事を覚悟し、関東武士は博多以上の規模で鎌倉で決戦をする城を造った!っと推測するのです。
(城を造った文献は無いが異常に巨大な城遺構は存在します。)
それも、外国の巨大な敵ですから、国力を挙げての総力戦に成る。
国中の武士を動員して守る城の規模です。
以上が
大規模の城を鎌倉で造った根拠と時代背景です。
そして、痕跡は幾らでも在り、一貫性のある考えで切岸と言う名の城壁が鎌倉を取り巻き、
土塁の一段上にある平場が戦う砦としての機能する。

天然の要害が、鎌倉の町を守る????
鎌倉城の遺構が示すモノは、そんな常識を木っ端微塵に砕けます。
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三方を山に囲まれた自然の要害? 3

2017年02月02日 | 巨城対モンゴル
2017-02-02 記
   由比ガ浜より見た住吉城(小坪方向)の切岸。
三方を山に囲まれた要害?
それは守りたい場所が在る前提の話で 守る場所の三方を山に囲む訳です。
鎌倉の都を守る為なら、内側の切岸は不要です。
内側の切岸の在る理由は、鎌倉の都を守る為ではない!
   鎌倉城は、
『元寇と鎌倉で決着する為に城を造った!』と言う訳です。
元寇は船で攻めて来る!
っとなれば海岸から襲来する訳ですから、、、
陸伝いに攻めて来る訳では無いっと考えていた事を想像できます。
鎌倉の都を守る目的は、この時点で亡くなり、元寇退治が最優先します。
元寇を都内に入るのを防ぐために、海岸に防御壁を作った遺構も出土しています。
防御壁が破られたら都に侵入する。
鎌倉市街にいる元寇を三方の山で防ぐ為の切岸となる訳です。

中央アジアからトルコ迄の国の広さは広大で、世界一の武力を持ったモンゴル帝国(大元朝)です。
世界史上最大の艦隊が日本に攻め寄せる訳です。
日蓮が「国難!」っと騒いだだけでなく、
Wikipediaでは、
〉鎌倉には南宋より禅僧が渡来しており、これらの南宋僧侶
〉による進言や、大陸におけるモンゴル帝国の暴虐などの報
 〉告もあったとされる。
鎌倉幕府第8代執権北条時宗が鎌倉城を当時世界最大の軍隊に対峙する城が遺構として有る。
根拠は、

対国内の反幕府を相手の城では大き過ぎで、国を二分する戦いでも七口を繋ぐ防衛ラインに兵を配置するのが限界の兵力数で有った様子が伺える。
とは言え、城として優れ、新田軍60万騎に対し、鎌倉軍14万騎で正面攻撃を持ちこたえたのです。
負けた原因は、異常気象で潮が異常に引いた為!
鎌倉城は、対モンゴル帝国に作った城と考えられ、日本の数ある城の中でも特別な城であった訳です。
隣の領主からの攻撃に対処する、、、なんていう国内規模の城ででは無く、
世界一強大な軍隊と日本が対等に戦う城であった訳です。
巨大なモンゴル船団には、日本国中の兵士が力を合わせて戦う必要が有った。
■その為に、巨大な城に成った。
■船団は海から攻めてくる為、由比ガ浜から攻撃が始まる事を覚悟した。
船団は、由比ガ浜と並行して金沢八景の貿易港から攻め入ると考えるのは、当然な話です。
金沢八景の周囲も城郭構造が有ったと考えるべきでしょう。
今から思えば1960年代の金沢八景には奇妙な切岸に相当する物が有ったのですが、、、
この東京湾に面した六浦港の切岸を加えたら 鎌倉城は、更に巨大になる。

その様な訳で、
現在の鎌倉周囲の山を見て、鎌倉は三方を山に囲まれた『天然の要害』等と言うのは、
机上論であり、鎌倉の切岸の全体図を示す調査資料は無い上、鎌倉の地形を調べもしない無知な研究者が憶測で書いた本が風評と成り拡散したものと考えています。
鎌倉山の実態を調べられる鎌倉市民が「鎌倉に城は無い」っと口に出すのは自分で見て考える能力が無いのです。本の権威に縛られ自分の考えを持たない方でしょうね。
必要なのは知識ではなく、常識を疑う 自分なりの視点と考えを持った教養と言う訳です。
物事を理解し、解決するには基礎的資料集めと 統一された思考法と洗練された価値観や知識を矛盾無くマトメル必要が有る。
知識の質、重要性、真偽、等に対して、自身の思考が試される訳です。
教養とは、その様な知識の問題に対して、考えが「無理が有る」とか「嘘だ!」と言う独自の判断ができる。
鎌倉の問題に対し、基礎資料も無いのに判断を下す似非専門家が多いのですが、、、
教養が有れば、資料不足で結論が出せない話になる。
研究者として、根拠の薄弱な結論を出せば、取り返しのつかない汚点になるのですが、、
私の立場?
  「素人で暇つぶしのブログです。 肩書は有りません!」
 書いていることが間違っていたら、、修正すれば問題無かろう~~~!
無責任だ!等と思われる方は、、、 ぜひコメントから非難をしてください。 
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