基本が専守防衛の戦国時代以降の城とは違い、、鎌倉城は有利に戦える砦と、攻撃の出撃基地的な考え方で作られていると この台峰曲輪を調べて感じます。
馬繋場はこの台村曲輪で終わらず、周囲には幾つもの馬繋ぎ場が考えられ、、、
馬繋場はこの台村曲輪で終わらず、周囲には幾つもの馬繋ぎ場が考えられ、、、
1km先には長窪の馬繋場があり、2㎞先には笠間中央公園遺跡とその隣に 切り立った平地があり、倉久保谷戸にも平地があり、同様な用途と考えます。
当然他の七口にも馬繋場が考えられます。
攻撃されれば、他の馬繋ぎ場から寄せ手の背後を騎馬隊が襲う連携が考えられる。現在の鎌倉城跡は住宅と、樹木が繁茂した山に成っているのが鎌倉で,漠然と眺めても城の認識は出来ず、樹木の茂った山と住宅地が目に飛び込みます。
でも、
樹木に隠れた 手付かずの切岸は調べきれない程多く残り、この城遺構を認識すると、、、見るべき価値の物が、樹木の裏や宅地の裏庭から浮き出てくる!
「るるぶ」片手の観光ではなく、、街に面した山裾は鎌倉城の城壁です。
台村の馬出曲輪は以上ですが、
省略した部分も有りますが、ご質問が有れば、コメント欄へどうぞ!
決して、城郭に詳しい訳では無いのです。
地形の使用法を考えると、、私ならこんな作戦を立てた!
っと言う 現地の図面を根拠に私なりの考えを作文しました。
更に、その根拠が どの程度の正確性が有るのか?古文書から裏頭けを取って書いて見ました。
城造りの思想や構想 攻撃や防御の構造。それを遺構から垣間見て楽しんでいる訳でこの書かれた事が正解と言う訳ではありません。
見方が変われば、別の解釈が生まれると思いますが、、
私の記述を叩き台にして、鎌倉城の認知と城の解明が進めば嬉しく思います。
鎌倉城を調査した研究者は数多存在したと考えますが、、、
巨大過ぎて単なる山にしか感じられなかった訳ですね。
馬出曲輪で最大と言われる諏訪原城の曲馬出曲輪は50m×25mで、小さい!
諏訪原城は、守りの城ですが、鎌倉城の台峰曲輪は出撃基地の色合いを持っていると感じます。