鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

新田軍は化粧坂に 3

2018年10月23日 | 大鎌倉城
「新田軍は化粧坂に2」の地図の様に、、
地形を知れば洲崎で勝利した新田軍が山之内に向かった目的は明確と考えますが如何?
水堰橋から真正面の大手道に攻める手段もあるし、大手道の葛原を南と北から挟み撃ちの攻撃も有る。

新田義貞は、鎌倉城の一番の弱点で攻撃し易い場所と考えたのが鎌倉城の大手道の水堰橋から台峰を通り葛原から化粧坂に向かう道と考えた。
それほど鎌倉を囲む他の場所の切岸は攻撃困難な崖に作って有った訳です。
鎌倉側の考えも、一番弱みの大手道を固めて応戦したと考えられるのです。
その根拠は?
文献には在りませんが遺構が証明する訳です。

貴方なら、この新田軍が侵攻するのを止めるには、どの様な砦を作りますか?
新田軍が攻め上がれない様に崖を作り、その上に平場を作って崖を登ってくる敵を弓矢で狙い撃ちにする。
それが、当時の戦法である訳です。
この図から、その様な平場を探せますか?
その様な作業を鎌倉の研究をする方は無視した訳です。


注1 :一方には堀口三郎貞満を上将軍とし、大嶋讚岐守々之を裨将軍
    として、其勢都合十万余騎、巨福呂坂へ指向らる。

最大の疑問の、
何故この葛原で戦いになり、、化粧坂に攻め込む事が出来なかったのか? その解答です。
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新田軍は化粧坂に 2

2018年10月20日 | 大鎌倉城


新田軍は「化粧坂に向けて進軍した!」
しかし、 戦った場所は、洲崎で戦いとなり、新田軍は橋を作って柏尾川と湿地を越える工作をし、川を挟んだ戦いが洲崎の戦いが主であったと考えられる。
山之内に入った記述から!向かう先は何処でしょうか?
大半の方が巨福呂坂へ向かったと考えるのではないでしょうか?
 しかし 
巨福呂坂は既に堀口三郎貞満を上将軍の十万余騎が攻撃をしています。(注1)
 新田義貞の主力軍は初めから化粧坂に向かう目的ですから、「台峰や海蔵寺裏の大切岸を攻撃する為に、山之内から瓜ヶ谷に入った!」鎌倉城の大手道の北側から攻め化粧坂に向かう作戦と考えられる。
更に
葛原にて戦った記述から、梶原団地の下の谷を通り進軍し、鎌倉城の大手道の南側から攻める主力軍が居たと考えられる。
既に巨福呂坂は別動隊が行っていますから、、、主力軍が山ノ内に入る目的は鎌倉城の大手道を片側から攻める目的と考えられるのです。

鎌倉城の一番の弱点であり、攻撃をヤリ易い場所と考えたのが鎌倉城の大手道の水堰橋から台峰を通り葛原から化粧坂に向かう道です。
鎌倉側の考えも、一番弱みの大手道を固めて応戦したと考えられるのです。
その根拠は?
文献には在りませんが遺構が証明する訳です。


注1 :一方には堀口三郎貞満を上将軍とし、大嶋讚岐守々之を裨将軍
    として、其勢都合十万余騎、巨福呂坂へ指向らる。

最大の疑問は、
何故この葛原で戦い、、化粧坂に攻め込む事が出来なかったのでしょうか?
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長窪の砦2

2018年10月12日 | 大鎌倉城
この二つの切通は、高野地区に有ります。
よって「高野の切通」と呼ばれると、どちらの切通? っと迷います。
高野地区と大船地区の境界に有るのが高野の切通と呼ばれますが「大船の切通」とも言います。
長窪に行く為の道を「長窪の切通」と言いますが、高野地区に在り 脇は高野公園です。
混乱を招く呼称で注意が必要です。
正確な切通の呼称で有るか? 俗称なのかは不明です。

上記地図の緑色の点線は切通です。


近年の長窪砦です。
傾斜量図と空中写真の合成図です。大船高校と、宅地造成後 家が建った状態です。


1979~1980年頃の長窪砦です。
大船高校(1983年開校)と宅地造成中です。
この状況では、高校でも宅地でも自動車が使えない場所です。この時点で初めて自動車が入り込める道路が造られた。
その道はどの様な道で有るのか?
鎌倉で一番大きな陸橋を作って対処した。
緑の砦痕跡に対し、大規模な造成工事で地肌が土色に現れた場所が確認できる写真です。
この長窪砦は、北の大船高校と南の長窪とが表裏一体で一つの砦として機能していると考えて居ますが、その表と裏の境界に切岸が在り、宅地造成で切岸は消滅した。
そんな理由で、、、
以後は表と裏の区別は無くなった。


1974~1978年頃の長窪砦です。
造成をされる前の状態であり、大船高校と長窪の間には切岸が在り、長窪には登れない地形でした。
大船高校の敷地は、鎌倉城特有な陣構で、
一方向から登って広場に立った敵を三方から弓で攻める馬蹄形の陣地に成っています。
屋敷を作るなら、守りとして三方を山に囲まれた屋敷を作り、
蒙古襲来で由比ヶ浜に上がった蒙古軍を、攻撃戦術として三方の山から襲う考えです。
それが、鎌倉城の根底にある戦術と遺構から推測するのです。
この馬蹄形の構造は、色々な場所で見られます。
その他に、谷の奥に向かいひな壇状になった構造も見受けられます。


1945~1950年頃の長窪砦です。
この当時の切岸の状態は、ステレオ写真として空中写真があり確認する事が出来る。
馬蹄形の砦構造が雛壇状に成っています。
台峰にもある砦形式です。
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長窪の砦1

2018年10月08日 | 大鎌倉城
前にも同じ長窪の事を書いた!
何を今更蒸し返すのか? 何てね、、、
 以前の記事で、鎌倉に対しそんな見方も有るのか?
程度の認識は芽生えたと思いますが、
城としか思えない資料を! 誰でも調べられ確認できる資料提示しよう。
  と言う訳です。

この地図は、国土地理院です。
〈https://maps.gsi.go.jp/#13/35.337697/139.534931/&base=std&base_grayscale=1&ls=std%2C0.77%7Cslopemap%7Crelief_free&blend=01&disp=111&lcd=relief_free&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0f0&d=vl&reliefdata=20GB4B5B3GAGF1FFBAG14GE2FC85G1EGB0FA5CG28GA2F739G3CG6AED23G50G2BCC5EG64G02CF28G78G06B345GG02823D〉
 でアクセスできます。

凹凸が無い場所では、黒いラインは一切ありません。傾斜が強い場所に黒いラインは表示されます。
結果は、長窪を黒いライン(切岸)が切れ間無く囲っている。
この切れ間の無い処が人工的に作った根拠です。
東西に1.3㎞、南北に1㎞の規模の砦です。
鎌倉城に対して、1/50程度の狭い場所ですが、
一般的な山城と比較すると これでも大きい城と思います。
鎌倉全体が、この状態で切岸を作って有った訳で、
長窪の紹介は、鎌倉城を理解する為のモデルケースです。
個人レベルでは、調査をやり切れないのが巨大な鎌倉城です。
個人レベルでも全体を把握できそうなモデルケースの紹介です。


この図が有れば、現地を確認するに便利です。
普通な道路地図と傾斜表示の地図を合成しました。

鎌倉の住宅に埋もれた長窪の紹介です。
歩く目的ならば、2,3時間で終わります。
興味を持って細部を確認しながら歩けば、数日掛かる場所です。
  次は、更に長窪の、近年の変化です。
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