鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

忘れ去られた鎌倉 城編8

2019年03月19日 | 忘れ去られた鎌倉
前回は、海蔵寺南側の十六井戸の周囲の紹介でしたが、
 
以下は、
海蔵寺北側の切岸です。
これより先は、進入禁止と書いてあるのですが、、
私道に付きとは書いてない。
 
後ほど、お寺の方に其処には登らないでください! っと言われた場所です。
 
 
海蔵寺北側の切岸の状況でした。
更に先には、大堀切が見える場所が在りますが、植生が繁茂して写真は無し。
この様に人を寄せ付けない為の一貫した切岸構造をしています。
自然の山では無く、人が登れない様に手を加えた証拠として、紹介しました。
 
この内側の切岸には 「鎌倉は土地が少ない為に、土地の所有者が切り崩した!」そんな臆測の話が在りますが、
そんな財力の必要な造成を一個人が出来ない!
更に、一貫した基準で広大な鎌倉周囲の山を総て切岸(人が登れない統一された基準の造成)にした事を、一個人の財力で個個に作ったなんて、世界中探しても例は無い規模でやっています。
更に、石切り場の痕跡等言うのはモッテノホカです。
 
此処迄観察したらその先は、、
化粧坂から 大仏向け、、、
銭洗いから鎌倉へ、、、、
銭洗いから葛原ヶ岡から、大堀切より北鎌倉へ、、、
等、色々と行く先をアレンジできます。
鎌倉の見方が変わって頂けると良いのですが,,,
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忘れ去られた鎌倉 城編7

2019年03月16日 | 忘れ去られた鎌倉
鎌倉城の城壁は、別名「切岸」と呼ばれています。
城の意味では、生活空間を守る総構えの城と考えられる。
国内の反抗勢力から鎌倉を守る為、三方山で一方は海で街を囲んだ防禦し易い構造です。
そして、「新田義貞の鎌倉攻め」で、この切岸は攻撃に耐え城壁の役割を果たした。
 
敗因は、異常な自然現象が始まり稲村の海が干上がり、城壁の無い無防備な場所から鎌倉に攻め込んだ。
城でなければ、、何だ!となれば、、
元寇対策の砦となり、蒙古軍が海から押し寄せる訳です。ですから、直接鎌倉の街が攻撃対象に成ります。
街の守りを捨ててでも蒙古軍に勝利する必要が有ります。
それが、今回紹介している山の内側に在る切岸であり、
生活空間を守る事は放棄して、蒙古軍をせん滅するする為の砦になる訳です。
 
上記の説明で、砦と城の違いをご理解頂けると良いのですが、、、
 結果は、鎌倉城は、、、砦と城の二面性が在り、通常の城とは異質です。
以降戦国時代に多数の城が造られた基に、鎌倉築城の経験と技術で地方の城を作ったと考えるのです。
 
さて、次は海蔵寺周囲の紹介です。
 
先ずは丸10の写真です。
如何にも鎌倉らしいタタズマイの家と言われの在る洞穴です。
 
丸11の写真です。
民家の裏には隠し様の無い切岸が在ります。
 
丸12の写真です。
海蔵寺の駐車場です。
 
丸13の写真です。
海蔵寺の正門です。 左に曲がると16井戸です。
 
丸14の写真です。
拝観料も払わずにこの様な場所が在ります。
 
丸15の写真です。
十六井戸の場所です。
周囲は総て切岸です。
 
これ等の切岸が、連続的に切れ間が無く続いている訳です。
切れ間が在るとすれば、近年の工作であったり、寿福寺の源氏山への登り口出あったり、
化粧坂の様な街道が考えられます。
 
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忘れ去られた鎌倉 城編6

2019年03月04日 | 忘れ去られた鎌倉


⑧の場所は東は横須賀線西は切岸です。

英勝寺の敷地内の様です。


そして英勝寺の先ですが、、


⑨は、今小路から離れて西側に入った場所の切岸です。






鎌倉の山はこの様な特徴が在ります!  なんてね、、
これで木が無ければ、人手で造成した崖なんでしょうが、、
鎌倉の周囲の山裾は総てこの様な状態でマトモに山の上に上がれない!
其処から「故意にこの崖を作った」意味を問われるのです。
土木の重機が無い時代に、
この様な大掛かりな土木を誰がやったのか?
権力が無ければこの様な土木はできない。

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