鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

鎌倉城と蒙古襲来 7

2017年03月19日 | 巨城対モンゴル



 この二枚は、由比ガ浜より見越しの嶽を見た図です。
 甘縄神明宮、日本文学館等の在る山です。
 上の地表だけのバーチャル3D地図と、樹木と家に遮られた山の比較をしました。
 人工的に削られた山肌は、樹木に隠されて判らない。
 これが、鎌倉城を理解する時の困難と障害です。
 既存の山城の解説書に書かれた知識で鎌倉城を見ないでください。
 山城の原点が鎌倉城ですから!


私の鎌倉に関してのデーターは、、、
鎌倉について、小学生の頃より自転車で鎌倉、玉縄を走り回り、十代は金沢八景、朝比奈、大仏、化粧坂等の切通を走り、20代は鎌倉の海で遊び、60年間鎌倉に関わった情報の集積ですが、、、
マトメルに当たり、色々な本を読んで納得したり、異論が有るのを承知で私の見聞きした根拠を優先して書かれたモノです。
本を書かれた著者よりも私の情報の方が深く知っていたり、他との関連から私の情報が矛盾しない事が多いので、衆知された常識は無視してこのブログを書いています。
そんな訳で、反論が有っても当然と思っています。
情報は有っても、それをマトメて結論を出すには、一段深い詳細が必要になる。
 決定的に調査不足で、結論を出せる一部の情報を概略で書いているにすぎません。
更に、、詳細な資料をお持ちの方は、このブログに書かれた間違えを指摘できるものと思います。
ご遠慮なく、反論のコメントを下さい。
意見の交換が困難な方も居られますが、矛盾に満ちたり 文章を理解できない人のコメントは、非公開にさせていただきます。
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鎌倉城と蒙古襲来 6

2017年03月18日 | 巨城対モンゴル

  上は、地表の凹凸をリアルに表した見越し嶽の3D地図です。

  上の地表だけのバーチャル3D地図と、樹木と家に遮られた山のBing概観図です。
  樹木に覆われ、建築に塞がれて砦遺構の観察は出来ない。
  更に、別次元に巨大な城は 城郭専門家には、本丸も曲輪も堀も土塁も無い山
  にしか見えない!

鎌倉幕府滅亡の後、鎌倉で数度の戦いが有りました。
当然、一氏族の人数で守るのは無理な巨大な鎌倉城です。
鎌倉市内の武家屋敷は、三方を山に囲まれ、他の一方は、段として土塁が築かれた地形をしている。
武家屋敷自体が攻撃を受ける想定で造られている砦です。
古文献を読めば、その攻防は武家屋敷での攻防で有り、鎌倉城の攻防では無い
 これを間違えて、鎌倉城での攻防と判断した研究者が居る。文献を知らないのか?文献の読解能力に問題があるのか? 誤解をしているわけですが、、、
「新田義貞鎌倉攻め」の七口を結ぶ城郭とは別の市内の武家屋敷で起きた戦いです。
資料が無く、文献の解釈等の問題を抱え憶測で出した結論と考えています。
詳細は、
当ブログ「■日本城郭大系1」
http://blog.goo.ne.jp/mementosmori/e/ea7114b3d3fa9c738378c6683dfe5e67
を参照ください。

[日本城郭大系1]に書かれた鎌倉城は、後年に名越の大切岸は石切り場痕跡と判明する失態でした。
発刊後 この記事が尾を引いて、数十年後には「鎌倉に城は無い!」話しにまで発展した。
鎌倉の歴史を、大きく歪曲させた記事の原点が[日本城郭大系]の鎌倉城の記事でした。
現在、鎌倉城について書かれた研究書の大半は、同様な問題点を抱えている。
結局『調査範囲が広くて資料を集められない! よって結論を出せない。』
日本城郭大系を 批判した著書の結論も「結論を出す資料が不足し憶測が入り込む!」
現地を調べず資料も無く、机上の考えで結論を出したら、、、[日本城郭大系]の二の舞の過ちを犯す訳です。
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鎌倉城と蒙古襲来5

2017年03月13日 | 巨城対モンゴル

   鎌倉市内に向けた切岸の例
   (中央にある峰は、見越しヶ嶽と言われる鎌倉文学館の在る峰)
鎌倉城は、国内の勢力争いに使う目的では、大きすぎる。
国中の兵士が終結し、砦に配置されて機能する城です。
この様に巨大な城郭が有りながら、調査も無く資料も無い。
地方の氏族が勢力争いで造ったローカルで小規模の城跡が総て(日本城郭大系で書かれたモノについて、)ですから、
専門的に調べる研究者程、この鎌倉の巨大な城郭は想像外で有った訳です。
最大の城は、江戸城と考えています。
江戸城でも、国内の勢力を抑える城で、外国へ向けた城では無い。
良く解釈して、七口を結んだラインが城と解釈されている。

元寇と呼ばれる世界最大の国が日本を攻めて来た。
当然それに対抗するのは、世界的巨大な城が必要となる。
鎌倉城がそれ程大きい城とは誰も考えなかった。

『吾妻鏡』で千葉介常胤は、
『当時の御居所はさしたる、要害な地にあらず、また、御嚢跡(先祖由縁の地)にもあらず。速やかに、相模国鎌倉に出てしめ給う可し』と勧めたと言います。
この言葉の暗示は現代まで生続け常識となっている。
現実の遺構を見ないで、文献に頼った机上論が現代まで続いている訳です
更に、
白村江で敗戦し、唐・新羅軍の脅威から水城を造り、国を挙げて防衛を考えた。
万葉集に防人の歌が有り、鎌倉からも防人に九州まで出向いた訳です。
この様に鎌倉以前に大宰府に前例が在ります。

九条兼実が日記『玉葉』の中で源頼朝の本拠地を「鎌倉城」と記している件でを研究され
 城=戦闘用ではなく、住居であると解釈する話がある。
平安の時代以前から在る大宰府を守る水城は無視して結論は出された。
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鎌倉城と蒙古襲来 4

2017年03月06日 | 巨城対モンゴル

鎌倉城の範囲をピンク色のラインで囲みました。
「コメントより 3」に投稿されたコメントですが、、、
> (英)さん 
> (個人的には、初期の記事から貫かれていた、
> 頼朝による大規模な地形改変の話との整合性は気になりますが。)

頼朝時代にも要害遺構が有ったと考えますが、、、
対国内向けには、東海道や東山道の出入り口を塞ぎ、七口を囲む程度の城郭で事が足りたと思います。
新田義貞を迎え撃つ体制の時は、洲崎で戦ったとの話ですが、守勢に入った途端七口の防衛ラインに後退した。
「イザ!鎌倉。」の言葉の様に、七口の防衛ラインだけでも、巨大な城であり関東一円の武士が集まらないと守れない大きさです。(この時点で鎌倉城は元寇対策という考えは、ぼ輔に全く無かった訳です。)
現在の遺構は更に上回る土木工作をされた元寇対策の城遺構であり、頼朝時代の遺構はこの時点で大幅に改造され、頼朝時代の城郭痕跡は消えたと考えています。
 頼朝時代にも要害遺構が有る と考えれば堰水橋から化粧坂に向かう途中の北鎌倉女子高のグランド上の土橋や、海蔵寺裏の大堀切の土橋等が考えられる。

不思議に思うのは、鎌倉の要害遺構の学術的調査をされていながら、、これ等の要害遺構の資料を無視して、、
何故? 「鎌倉には城が無い!」説がマカリ通ったのでしょうか??
更に、知っている者が何故反論をしないのでしょうか?
恐らく、、学者達に既知の戦国時代から江戸時代迄の城のイメージが有り、鎌倉の部分的な要害遺構が鎌倉の街を守り、「一貫した考えの巨大な城郭」とは考えていない結果だと想像します。
更に
鎌倉を守るのが七口の防衛ラインですが、元寇対策を考えた時、
三方の山と一方の海で守られているハズの海が、元寇が押し寄せる通り道となった訳ですから、、、
由比ガ浜に作った防衛遺構(鎌倉石で造られた石築地)が破れた時の対策で、
「鎌倉の街は守りを放棄して、」
それでも、元寇を打破するのが戦いという訳で鎌倉の街に向けた切岸は、この時点で造られたと考えるのです。
要害遺構の学術的調査をされていながら、反論しない元は、鎌倉の切岸を調べた資料が無い為です。資料が無ければ城郭遺構の全容は解らない訳で、何も言えないのが真面目な学者ですから。
それ以前の時代は、平安京,平城京伴にこの様な防衛遺構は無かったので日本史上初と言いたいが、
前例が有り、朝鮮半島の白村江で大敗した日本軍は、唐・新羅連合軍が日本を襲う事を恐れ、大宰府を守る水城を造った例が有ります。
負け戦の恐怖が 水城を造る動機で、元寇の時は水城に鎌倉幕府軍が逃げ込み、水城を造ってから600年後に役に立った訳です。
部外者には、根拠不明な理屈が多くて理解できない考古学の世界です
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鎌倉城と蒙古襲来 3.5

2017年03月04日 | 巨城対モンゴル

  上図は 防衛施設が掘り出された海浜公園駐車場の場所。
鎌倉の歴史は現在の考古学で収まる程、浅くないと言う事です。
なぜなら、
学術的な欠点=根拠が弱く、憶測で出された結論 を抱えた学説が多くを占めています。
歴史は人間の生活した総合的痕跡です。それを、特定分野に限定して解析し研究するので、他の大事な要素を知らず、間違った結論をだす。それが今流の専門家ですが、、、専門に特化した分は偏った情報しか集まらない。

偏った情報で議論をしても、全体像は見えない。その上 文献は少なく発掘部位も限られて概要を語るだけの情報量が無い。
鎌倉の歴史を語るに専門家の必要は無い。より多く楽しんで鎌倉を見ればよい。
情報が集まれば、専門家並みの視点は持つことが出来ると思います。
専門家は専門分野の偏った情報で、全体像を知っている訳では無い。

文献由来の知識で机上論を作っても、
生活実感を持って鎌倉を見て楽しめば、広い物の見方ができる。
一つ々は浅くても、全体を見渡せる情報の方が大事な知識と思います。

文献や頭で考えた実感の無い理論より、現物を見た実感の在る情報の方が絶対的な情報量が多い訳です。問題は、その情報をドレダケ広い視野でマトメルかと言うことです。
自分の実感がまず第一です。彼方此方を見ていくうちに、自然と視野は広がる。自身の物の見方考え方も成長する。
それができると、
既成の常識では、理屈が合わない場所が見えてくる。
早い話が、常識の嘘です。
文献に書かれた事など、微々たる情報に過ぎない。
鎌倉周囲の山は、鎌倉武士が手を加えた切岸で、見るべき物は無数にある。
切岸の下は、削った土砂を平らにした土地です。畑や宅地に好都合ですから、当然家が造られ、切岸の痕跡判らない場合が多い。表通りから家の裏庭を覗くと見るべき物が有ります。

鎌倉幕府の力で奪い取った権力は、力で奪い取られ恐怖が付きまとう。
秩序の上に立つ者からの仕返しを恐れて造ったのが初期の鎌倉城であり、他国の力を恐れて対抗した城が、現在の鎌倉城郭と考えています。

「木を見て森を見ない」ではなく、
「木を見て、森を見ても、、森全体が見えない!」意識して見ようとしても、広大過ぎて全体見るのは困難な大鎌倉城です。
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