鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

陰陽師 安倍晴明 3

2024年12月20日 | 鎌倉時代の人物

安倍晴明 嵯峨墓所
1005年(寛弘2年)9月26日に85歳で没したといわれる。

“公式”の墓所が定められて居り、場所は京都の嵐山、長慶天皇陵の脇の寿寧院に葬られたと伝えられている。この場所以外にも以外にも伝承は有る様です。

陰陽師は宮廷の御用達ですが、鎌倉に招いたのは、大江広元で在ったと考えられる。
長野県木曽郡木曽町は大江広元が育った場所の縁が有るわけで、安倍晴明の墓所が有る。
長野県木曽郡木曽町新開清博士 これは地名ですが、地元民は此処にある二基の五輪塔を晴明様と呼んで祭っています。その他にも墓所が有る様でどの墓が本来の墓かは不明の様です。

安倍晴明が鎌倉幕府の結界を張っただけでなく、建長寺の結界を張り 場所は第六天社に建長寺の四方鎮守の一つで、南の方角の守護と成る。

道路の突き当りが建長寺と成ります。

第六天社に建長寺の四方鎮守の一つで、常時鳥居の前で閉鎖されており、年に数時間だけ開放されるそうです。

例祭は毎年七月十五日から二十二日にかけて行われるが、神事は二十日前後に執り行われます。

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陰陽師 安倍晴明その2

2024年12月17日 | 鎌倉時代の人物

大江広元(ウィキペディアより) - 朝廷に仕える下級貴族官人)だったが、鎌倉に下って源頼朝の側近となり、大蔵御所公文所(後の政所)と鎌倉幕府の初代別当を務め、幕府創設に貢献した。

その様な訳で 鎌倉幕府に絡む重要人物の大半が武人ですが、中で唯一人 大江広元だけが官人であり、宮中に絡む陰陽師と関連すると思われる。 更に、大江家の領地の木曽福島には、安倍晴明の墓が存在するのです。陰陽師の安倍晴明を鎌倉に呼び寄せたのは大江広元であろう! っと推察する理由です。

大江広元の話は更に後の時代に影響していきます。その後の戦国時代は、毛利家に秀吉が水攻めをやっている最中に、信長が本能寺で死んだ話となり、鎌倉攻めに間に合わなかった薩摩は、江戸時代に迄生き残る。更に幕末には薩長連合の薩摩と長州の元が此処にある。

此処を上がると立派な墓が3ヵ所有り、毛利季光の墓、大江広元の墓、島津忠久の墓と成りますが、この毛利、島津の影響は明治維新まで影響を及ぼします。

取り敢えず、陰陽師の安倍晴明は鎌倉に結界を張るだけにトドマラズ、建長寺にも結界を張った痕跡は次回。

 

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陰陽師 安倍晴明

2024年05月23日 | 鎌倉時代の人物

陰陽師と鎌倉
「鎌倉に城は無かった!なんてね、1~8」(2016/02/24)に纏めた中の5番目の記事です。  下の写真は晴明石です。

 5番目の記事に安倍晴明の呪術の痕跡が在る事を記載しました。
何故陰陽師が鎌倉幕府に関わったのか? それが不明でした。
モッパラ、武人は精神面を南宋の僧侶から学び、特に建長寺は禅を主体に自身を作り上げる臨済宗です。
更に南宋の僧侶から、モンゴル帝国である元の侵略情報を得てモンゴル侵略の対応を真剣に考えて居た様です。

武力で事を解決する鎌倉武士に 何故陰陽師が関わったのか?
ドチラかと言えば、武力を持たない宮人が 呪術で事を解決するのが陰陽師の役目と考えるのですが、、、
実際は、鎌倉に結界を張り、防御した安倍晴明の痕跡として、北鎌倉駅近くの鎌倉街道に晴明石がある。

北鎌倉駅前を通る鎌倉街道の西側130mに「十王堂橋」が在り、その際に晴明石が街道の真ん中に在ったが、鎌倉街道改修工事で邪魔になり、八雲神社移されたのは、戦後の話です。
現在は、鎌倉街道の横須賀線踏切際に、「陰陽師 安倍晴明大神」の石碑がある。

画面右端の小さい石碑が、鎌倉街道の横須賀線踏切際に、「陰陽師 安倍晴明大神」の石碑で、石碑上部に横須賀線の架線が写っています。本来は鎌倉街道「十王堂橋」脇に晴明石が在りその橋の脇に在るべき石碑ですが、、500m八幡様よりの踏切を越した場所に有ります。

次回の話は、、、大江広元との関連です。

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