鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

下大槻から関本へ14 補足

2018年05月30日 | 古代東海道

2019-05-05 22:25:39

写真8
赤い車の有る場所が登り口です。
脇にある二本の石塔は、栃窪神社の案内です。
戦前に郡道で在った更に以前、、江戸時代は小田原道として栄えたとの事です。


写真9
登り口から道に入ると、軽四が一台通れる道ですが通り抜けは不可の道です。
問題は、この道の狭さを街道と認識するか?田舎の農道と思うか?
鎌倉時代以降大正時代まで作られた道は国道1号線以外は、幅2m程の道でした。
箱根の石畳の東海道でも、その程度の道幅であるのを、歩いて確認してください。
現代の道路基準ではなく、、70年前の道路基準が必要なのです。
更に、幅9mの道と言えば、当時は見た事の無い巨大な街道となる訳です。
困難な地形を避け出来る限り、直線的な9m幅の道を作る事が使命として有った道造りです。
現代の重機を使い橋脚や土手の構造物を手軽に作った道とは見た目から違います。


写真10
これは、渋沢方面に行く道が中学校造成で寸断された痕跡です。
昔は同等の道幅と思えますが、使わなければ両側から畑が押し寄せて、、更に狭い道に成る。


道幅は狭く、古代東海道とは思えませんが、、、秦野大道から富士見塚に行く 頼朝が富士の巻狩りで通った鎌倉時代の道幅と考えれば妥当と考える。
では、古代東海道は? この周辺に在ると考えるのですが、、、
取り敢えず、、上まで登りましょう!

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下大槻から関本へ14

2018年05月28日 | 古代東海道
写真4
古道趣味の方は、こんな祭られた物を見ると、古道の証と考えるのでしょうが、、
古代駅路(1300年前から平安時代)の根拠には成りません!
道の右側は広い道幅が想定できる場所です。


写真5



写真6
一段堀切られた処に道路がありますが、
右手の上は広い道路が設定できる幅が在ります。


写真7
一段上がった場所は、畑で広い道路が設定できる幅が在ります。
この様に堀切られた道の理由が不明で、珍しい道です。



次回はスイッチバック的なZ型の登り口の写真8~10です。
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下大槻から関本へ13

2018年05月25日 | 古代東海道
さて、秦野寄りの登り口で栃窪と呼ばれる場所です。

3D画像の矢印は写した場所と方向です。

写真1
この道は下っています更に先には小川を渡ります。


写真2
白いガードレールは川の土手です。


写真3
道の右手は、無駄に平地が有ります。道幅を取れる可能性=古代駅路の可能性です。


以上 1~3の写真ですが、、、
この農道扱いの道は、戦前は郡道で有ったそうな、、道幅2m前後の道です。
これが、古代の東海道の痕跡??
そうではなくて、
この場所に古代東海道が存在したと考えられるが、、、
その後千年以上経過した後にこの状態になったと言う訳です。
千年前の痕跡が有るとすれば、、、 この周囲に有るはず!!

それが問題なのです。

次回は5~8の写真です。
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下大槻から関本へ12

2018年05月14日 | 古代東海道
「下大槻から関本へ11」の地図を3Dで表示しましょう。

とても、理解し易い画面でしょ?
秦野市街の大道方面から見るとこの様な地形です。
これが、バーチャルな世界の真実に迫る表示と、
樹木にサエギラレて真実が確認できない現実の違いです。
バーチャルでも、現実以上の真実に迫る事が出来る。

実地にその場を歩いたら、、、どの様か??
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下大槻から関本へ11

2018年05月12日 | 古代東海道
明治地図の次は、現代の地図です。
道幅は1.5~3mとなっています。

この様な図面を見てもピンとは感じない。
ここに傾斜部分は色濃く表示した地図がある。

如何でしょうか?
栃窪から山に登る際、電車のスイッチバックの様なZの形の場所が理解できるでしょうか?
エラク掘り込まれた道に表示されています。
荷物の運搬を含めた普通な街道はこの様に作りません!
何故なら荷車が通りにくいのです。
この辺りが古代道の定番かもしれません。
何故か?
松田側の登り口もこの様なZ型の場所が在ります。
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下大槻から関本へ10

2018年05月10日 | 古代東海道
明治の迅速図です。
古代道を探すときに、明治時代の地形図が一番古い地形と道路を確認できる手段です。
青い丸をした場所は、これから考察する道路です。

 明治時代は、大住郡と言われた場所で在り、この青い道は「郡道」で有った場所です。
道幅は2m以上の3m未満の地図表示です。、当時の街道の定番の様です。よって矢倉沢街道も同じです。
よって、この道の上を通っても、古代道の道幅はない。
在るとすれば、古代道の一部を使ってみたり、その周囲に沿って別ルートが在ったり、、
何が在るか、,、解らない。
箱根の石畳ですら、、これは「江戸時代からの石畳!」なんて思っては間違える。
関東大震災で半分は土砂で埋まり、、新しく作り直した石畳の上を歩く事になり、よく見ると、脇に半分以上埋もれた旧道が散見する。

 次は、この青印の栃窪から山を登る道の解析です。
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下大槻から関本へ9

2018年05月01日 | 古代東海道
篠窪の明治地図です。
目立って太い道路は、点線と実線の組み合わされた2m以上を示す道路で青い色で書きました。
この道は富士塚を通ります。

明治の時代に目立った道は、この道だけである。

「下大槻から関本へ8」では、この富士塚は、矢倉沢往還である。 とか?
少なくとも谷を通る(紫色の)道には矢倉沢街道と書かれていますが明治の地図では無名です。
矢倉沢街道は道幅一間とされているそうですが、この道もその程度で現在は、農道の様です。
しかし、以前は郡道で有ったと聞いています。

掘割を示す道は、赤丸で書きました。
下の赤丸は、畑になっており掘割の特徴が不明です。
上の赤丸は、以前通った時は、トンネル道の脇に軽四自動車がギリギリで走れる道幅の道が在り、トンネルの上にでられたのです。その道に沿った脇に古代道の特徴を持つ堀切様のブッシュが在りました。
この地図を基に、古代道路を検証する訳です。
コメント (1)
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