鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

大鎌倉城  隠された切通し編 3

2013年02月27日 | 切通し
上の地図は明治15年の迅速図・・・現北鎌倉女学園グランド
「鎌倉軍は武蔵路を守る為天神山に陣を張った。」
「新田軍は化粧坂を攻める為に、州崎(天神山)を攻めた。」
そして、、、
州崎を落とした新田軍は、天神山の脇を通り武蔵大路(倉久保の谷戸)に侵入した!
其処で、新田軍を待ち構えていたものは、、、
切通しを埋めて、雛壇状にした砦でした。
それは、単純は雛壇ではなく、攻められたら、倍返しで反撃できる構造をしていいた。
明治の地図は精度が粗雑で、砦の構造を読み取る事は不可能!
「東山道相模路11」地図の×印周辺に、海蔵寺裏の大堀切土橋をナゾった形状の堀切が存在する。
×印の周辺で道を隠したと考えられる場所です。
その場所は、北鎌倉女子学園のグランドのある場所です。
土橋から外に向かってナダラカで、内に向かって切り立った崖で最上部は定番の土橋です。
ナダラカな理由は「他の切岸より登り易い場所である」っと敵を誘う構造で、なお且つ守るに優位な構造をしており、切岸の様に登るのを拒否した崖では無い、
この場所を切り通すと瓜ヶ谷に抜けられ、、、海蔵寺裏の大堀切へ入ることが出来る。

この話で迷う事は、本当に古代東海道や武蔵大路が鎌倉の市内を通り抜けたのか?
そんな基本的で素朴な疑問でしょう。
鎌倉を大道が通り抜けた根拠を示しましょう。
一、鎌倉の御成小学校のグランドからは、鎌倉郡衙の遺構が出土している。
  郡衙の周囲に駅路は付き物です。
二、鎌倉市内に武蔵大路と呼ばれた場所がある。
三、鎌倉市内に入れず、相模大路周辺を桐生三郎が主人の生首を持ち歩いた記述がある。
  七口の内にも外にも武蔵大路は存在した。と言う根拠です。
  その武蔵大路は明確に分断されている事が文面から伝わる。
四、朝比奈切通しは7mの道幅があり、「大化の改新東海道駅路」の痕跡と考えられる。
五、一~四により、朝比奈切通しに対応する道幅の切通しが鎌倉の西に隠されていると考えられる。
六、平塚の「構之内遺跡」で見つかった道路跡は幅が約9mで、この道の方向は鎌倉を向く。
  駅路の直進性と平塚駅家より厩牧令の30里(約16km)の距離に鎌倉郡衙がある。

考古学で鎌倉の東海道を語る時、未だに「大和武尊伝説」を根拠にしたり、茅ヶ崎より北上して海老名の国分寺より武蔵国府より常陸に向かう「延喜式古代東海道」で言い換えて、鎌倉の駅路に口を噤むのが現状です。
「大和武尊の蛮族平定の道」「大化の駅路」、「延喜式の駅路」等の時代を混同し、首尾一貫しない話が多い。
目先の木を見て納得し、森を見なければ、、、巨大な鎌倉を理解し語る事は無理である!
一~六を正当に評価したなら、、、鎌倉を平塚「構之内遺跡」の道幅9mの古代東海道が通り抜けた事が確信できるでしょう。
鎌倉の東は、朝比奈峠の切通しと考えられますが、、鎌倉の西は何処を切り通したのでしょうか?
鎌倉幕府が消し去り、以後 誰も語る事が無い切通しを探し出すには、、、、
「鎌倉の西に切通しが存在した」と確信する事から始まる。
巨大な鎌倉城の理解も大変ですが、、、その上に飛鳥時代から鎌倉時代まで、時間軸の重層的な変化が絡む。
武家の鎌倉程度の底の浅い話じゃ収まらない。
その辺りの困難が、理屈っぽい文章になる基です。
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大鎌倉城 隠された切通し編 2

2013年02月19日 | 切通し
話の本筋は、古代駅路です、
頼朝が、鎌倉城を作るに際して、、、古代駅路を消し去った!

 消した理由は、、、
路面9mの駅路は、鎌倉に攻んだ敵の勢いを止められない! 防衛出来ない訳です。
結果は廃路ですが、通行不可にした上で、軍隊が攻め込んだ時に通れない構造が必要です。

問題は、
そんな古代の大道が「鎌倉には無い」と学術的には考えてない。
鎌倉市周辺で語られるのは、3m幅の鎌倉期の道を東海道や、武蔵路の痕跡と考えている様子です。
理由は
江戸東海道は宿場では約10mが、箱根の石畳は約1.8mの幅です。
この例から古代東海道や武蔵大路の道幅9mは、山地では狭いと考えた結果が3m幅の道です。
この道幅なら、七口の道に相当しますから、それが古代東海道や武蔵大路であると考えたようです。
古代東海道は中路幅(路面9mの巨大な道)が鎌倉を突き抜けたと考えることから一般常識と対立するのです。

更なる問題は、巨大道路遺構を鎌倉幕府が消し去った証拠を掴めずに今日に至る訳で、
結果は、
「海蔵寺裏の大堀切!」説明が付かずに、土橋のイワレも不明な謎の遺構と成っている。

どの様に考えても、鎌倉城の城壁を切り裂いて中へ入る為の掘割!それは、切通しと呼ばれるのが一般的です。「峰から進入した敵を止める為に作られた!」なんて説明も有りますが城を知らない人の戯言。
巨大道路を交通不可にした痕跡です!
巨大道路を消し去った理由は、
防衛の為、敵の侵入を防ぐ目的であり、城壁としての切岸で鎌倉の街を囲ったのです。
更に外側には、敵を排除する為の砦を作った。

 他に消滅させた道路が在るのか? という話になりますが、、、
その駅路を消滅させた形跡は大道の数だけある筈です。
はて??
鎌倉を突き抜けた大道は、古代東海道だけ!
なんていう考えの方は、最初から読み直してください。

東の上道路遺構の南陵中学校から南側はどの様に成っていたか?ご確認ください。
大船駅の近く、笠間中央公園遺跡の道路遺構の行く先は?どの様でしょう?
町田の「「野津田上の原遺跡」の武蔵府中方向は、どの様に成っていたでしょう?
これらの道路遺構は断ち切られ断崖となる。道路として使用できないのです。

では、鎌倉城の周辺は、どの様な通行不可の構造を作ったのか?
その疑問の代表が「海蔵寺裏の大堀切」です。
特徴は、
一、切通にあたる部分に工作をしてある。
二、土橋がある。
三、鎌倉の内に向けては、断崖であり
四、外に向けてはナダラカな坂である。
代表が在るからには、それに似たものが他にも在ると言うことです。

それも化粧坂周辺に数箇所も在る!
しかし、その痕跡は在っても語られた形跡は「海蔵寺裏の大堀切」以外にはない。

七口の峰を回って「これは城では無い!」と言ったら、鎌倉の理解は浅すぎる。
城で有るから、大道を消し去った。
消し去った証拠は、遺構として残るが「海蔵寺裏の大堀切」を見ても謎と言う言葉で誤魔化し、トレンチをしても数メートル掘って止めている。海蔵寺裏を見れば、その底部の深さは簡単に推察出来るのですが、、、

地図は、googleアースの画像です。
南稜中学の東山道道路遺構から、府中、瀬谷の海軍道路、中の宮北遺跡、江ノ島に向けて見事に直線です。
これが、「大化の改新駅路」の東山道相模路である根拠です。
武蔵国衙の為に東山道武蔵路を造ったのが定説ですが、、道は鎌倉に向かって造られている!
武蔵国衙は、単なる通過点。
今も昔も権力者の利益の為に道は作られる。武蔵国衙にメリットは有ったか??
当時の権力者は、鎌倉の鉄に魅力を感じたと想像するのです。


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富士山中に東海道 序 1

2013年02月12日 | 古東海道 足柄、箱根、富士
古代駅路の文献で最古は、西暦646年 大化の改新であった。
『日本書紀』の大化2年改新の詔(天皇の命令)は、、、
  駅馬・伝馬を置き、鈴契(駅馬・伝馬に使用)を造る。
  七道を造り、土地を整備する。
問題は、大化の改新に細かい経路や、駅家の名、場所等詳細は無い!
結果は、古代東海道を語る時、詳細が書かれた「延喜式(927年に成立)」の駅路を根拠に語る傾向にある。
「大化の改新駅路」から280年経過した延喜式の時代には、道幅や経路は変化した事が知られているが、その詳細の大半が未発掘で 語られる時に延喜式の経路をもって古代東海道の解説をする。
その混乱は、
其の一、時代に合わせ道路は変化するが、あたかも「大化の改新駅路」「延喜式駅路」は一つの様に語られた間違え。
其の二、駅路と伝路の区別が無く語られる間違え。

 この場で語られる駅路は「大化の改新駅路」で路面(9m)の中路規格の駅路です。
「大化の改新駅路」より延喜式駅路までの280年間の変化で大化の改新駅路=延喜式駅路の保障は無い。
そんな前提を踏まえたはなしです。

延喜式駅路では、上図の蒲原①→沼津(長倉駅)②→横走より足柄③のルートが語られます。

話のキッカケは、「わたしのサイクリングフィールド」のバロパパさんからメールでした。
> 、、、、、、、、、前略 、、、、
> 富士の噴火で足柄道が不通になった時期がたびたびあったといいます。古い時代の東
> 海道は愛鷹山の北側、十里木を通っていたような線は考えられないでしょうか。

> 、、、、、、、、、後略、、、、、、

 初期の古代東海道は採算や地方の事情は無視で、朝廷の権威で目的地まで最短距離で道を作った。
そう考えた時に「古代東海道は十里木を通っていた」と言う考えは合理的と思えるのです。
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