■日本城郭大系1 記 2015-06-22
「日本城郭大系」と言う本の鎌倉城に関しての記事です。
日本城郭大系と言う本は城郭研究者にとても権威が有る様子ですが、、、
しかし、、
鎌倉城に関しての記載は 城に対しての認識不足や内容に矛盾が有り、絶対的な調査不足の上で書かれた記事で、学術的な価値は無い。
写真より、
源頼朝が鎌倉に幕府を開いたのは、鎌倉が源氏ゆかりの地であったと共に、三方を馬蹄形の連丘に囲まれた理想的な都城の地形であった。
このことは以前から知られていたらしく、『保元物語』の「為義降参の事」には、保元の乱の戦いに敗れた源為朝が、父の為義に東国に下向して関東の武士を召集し、平将門にならって関東に新しい国家を建設することを提言しているが、その本拠地として鎌倉を挙げている。また、「吾妻鏡」には石橋山の合戦に敗れて房総に逃れた頼朝に対し、
千葉常胤は『鎌倉が要害の地であるので本拠地とする』ことを提言している。※1
さらに鎌倉時代に入ると、京都では鎌倉を城郭とみて居り、
『九条兼実の日記「玉葉」には、源頼朝が木曽義仲追討のため、「鎌倉城」を出発したという記事がある。』※2
この鎌倉城の範囲は、稲村ヶ崎から極楽寺切通、大仏切通、葛原岡、亀ケ谷切通、巨福呂坂切通、鷲峯山、朝比奈切通、天台山、名越切通を経て飯島崎にまで連なる丘陵に東・西・北の三方を囲まれ、南は相模湾に面する地域内である。鎌倉にある七か所の切通は、平時には鎌倉に入る入口として利用されているが、新田義貞の鎌倉攻めでは七口を土塁で閉鎖した。
このことは以前から知られていたらしく、『保元物語』の「為義降参の事」には、保元の乱の戦いに敗れた源為朝が、父の為義に東国に下向して関東の武士を召集し、平将門にならって関東に新しい国家を建設することを提言しているが、その本拠地として鎌倉を挙げている。また、「吾妻鏡」には石橋山の合戦に敗れて房総に逃れた頼朝に対し、
千葉常胤は『鎌倉が要害の地であるので本拠地とする』ことを提言している。※1
さらに鎌倉時代に入ると、京都では鎌倉を城郭とみて居り、
『九条兼実の日記「玉葉」には、源頼朝が木曽義仲追討のため、「鎌倉城」を出発したという記事がある。』※2
この鎌倉城の範囲は、稲村ヶ崎から極楽寺切通、大仏切通、葛原岡、亀ケ谷切通、巨福呂坂切通、鷲峯山、朝比奈切通、天台山、名越切通を経て飯島崎にまで連なる丘陵に東・西・北の三方を囲まれ、南は相模湾に面する地域内である。鎌倉にある七か所の切通は、平時には鎌倉に入る入口として利用されているが、新田義貞の鎌倉攻めでは七口を土塁で閉鎖した。
『「大平記」によれば、鎌倉をめぐる攻防戦は常に各切通を中心にして戦われた。』※3
攻撃を受けて応戦する砦は七口から更に離れた場所である。
『名越切通の外側(逗子市側)の東翼に約800mにわたって現在も残る
切岸は、その代表的な防禦施設として、三浦氏の攻撃に備えた北条氏が鎌倉時代に築いたものである(「神奈川県文化財調査報告書」 第三十四集)。』※4
攻撃を受けて応戦する砦は七口から更に離れた場所である。
『名越切通の外側(逗子市側)の東翼に約800mにわたって現在も残る
切岸は、その代表的な防禦施設として、三浦氏の攻撃に備えた北条氏が鎌倉時代に築いたものである(「神奈川県文化財調査報告書」 第三十四集)。』※4
鎌倉城が合戦によって攻められた記録は『太平記』によれば三回ある。最初は、正慶2年(元弘3、1333)の新田義貞による鎌倉攻めで、これにより北条高時以下は奮戦ののち自殺し、鎌倉幕府は滅亡した。この時、切通の防備は非常に厳重で破ることができず、新田義貞の軍勢は稲村ヶ崎の海岸を通って鎌倉城内に乱入した。
つぎは、建武4年(延元2、1337)、後醍醐天皇の綸旨を受けた北畠顕家が、北条時行・新田義興らと共に、鎌倉にいた足利義詮を攻めた時で、この時、杉本城を守っていた斯波三郎家長が朝比奈切通を破って攻め込んだ北畠勢の攻撃を受けて討死し、鎌倉城は落城している。
最後は、文和元年(正平7、1352)、新田義興・脇屋義治らが鎌倉にいた初代鎌倉公方足利基氏を攻め、鎌倉城は落とされている。しかし、足利尊氏が笛吹峠を越えて鎌倉に向かったことを聞き、新田義興・脇屋義治らはすぐ鎌倉を引き払っている。
中略
『以上、三回の戦いで、鎌倉城は三回とも守備側の敗北に終わっている。』※5
『平安時代には理想的な都城であった鎌倉城も、鎌倉時代後期から南北朝時代に至ると、
戦法の変化から強固な防禦施設とはいえなくなり、』※6
以後、鎌倉城をめぐる攻防戦は行なわれなくなった。 (日本城郭大系)
つぎは、建武4年(延元2、1337)、後醍醐天皇の綸旨を受けた北畠顕家が、北条時行・新田義興らと共に、鎌倉にいた足利義詮を攻めた時で、この時、杉本城を守っていた斯波三郎家長が朝比奈切通を破って攻め込んだ北畠勢の攻撃を受けて討死し、鎌倉城は落城している。
最後は、文和元年(正平7、1352)、新田義興・脇屋義治らが鎌倉にいた初代鎌倉公方足利基氏を攻め、鎌倉城は落とされている。しかし、足利尊氏が笛吹峠を越えて鎌倉に向かったことを聞き、新田義興・脇屋義治らはすぐ鎌倉を引き払っている。
中略
『以上、三回の戦いで、鎌倉城は三回とも守備側の敗北に終わっている。』※5
『平安時代には理想的な都城であった鎌倉城も、鎌倉時代後期から南北朝時代に至ると、
戦法の変化から強固な防禦施設とはいえなくなり、』※6
以後、鎌倉城をめぐる攻防戦は行なわれなくなった。 (日本城郭大系)
※印1~6は問題の在る文章です。
更なる問題は、この本をとても信頼性のある本と思われた方々が居り、その信頼を裏切られた反動で「鎌倉に城は無い!」と唱えられた方々が居たのでは?
と憶測するのです。
「鎌倉に城は無い!」派の方々の
『九条兼実の日記「玉葉」には、源頼朝が木曽義仲追討のため、「鎌倉城」を出発したという記事がある。』
この根拠を否定する事から始まる本の元ネタは、、この「日本城郭大系」が出典と理解しました。
反論を戴きそれを根拠に返答をすれば憶測が無いのですが、何と言っても反論が無い。
情報は現地を見れば手に入るが、現地を調べれば莫大な情報になるのが鎌倉です。
部分的な遺構は、相互に関連し合い一つの考えで、まとめ上げられ城と言う防衛施設を作る。
しかし、全体を見極めるだけの調査と研究はされず「鎌倉を世界遺産に!」との計画は、調査不足で頓挫した。
しかし、全体を見極めるだけの調査と研究はされず「鎌倉を世界遺産に!」との計画は、調査不足で頓挫した。
研究の本筋は、鎌倉城の遺構を調査する事から始めるのが本筋でしょ?
調査も無しに精神論だけで「鎌倉城は有りません!」は非科学的の極みです。
警察だって状況証拠の不安定さより物的証拠を重視するんですが、、、
調査も無しに精神論だけで「鎌倉城は有りません!」は非科学的の極みです。
警察だって状況証拠の不安定さより物的証拠を重視するんですが、、、
素人でも、鎌倉の山際を散策すれば切岸の存在は理解できる。
鎌倉の住民がそんな基本もせずに鎌倉を知らない御偉いサンの講義に納得して「鎌倉には、城が無いのだ!」と納得した訳です。
「鎌倉を世界遺産に!」の協議会の方も、「鎌倉に城は無い!」派の方も遺構を調査せず、非科学的な行動と理論を展開したのです。
結局は「鎌倉に城は無い!」の反論は皆無です。
科学的に反論が出来ない為でしょうが、理不尽な反論でも当方には貴重なのです。
反論をヒントに、違う視点で考え掘り下げ考える必要が有るからです。
「七口を結ぶ峰の下の切岸を根拠」に鎌倉城が在ると市民が騒げば、役所はその方向で切岸を調査をする切っ掛けに成ります。
その前に、雇われ講師に反論するだけの下調べと知識を市民の身に着けて欲しいものです。
地元民のご活躍を祈うとともに、反論を戴ければ喜ばしい限りです。
■日本城郭大系2 記 2015年06月26日
上記は、日本城郭大系の鎌倉城です。
鎌倉城の範囲は七口を結んだ範囲と書かれているのに、示された鎌倉城は『お猿畠』と呼ばれる大切岸でした。
この時点で、書かれた内容に一貫性が無く、学問的には不備のある信用できない文章となる。
現地は 無駄に高い岩壁で、壁下の敵を狙い打ちにする事は無理で、砦には不適切な壁です。(砦は守る事以上に、相手より有利に戦い打撃を与える事が主体です。)
挙句は、三浦側は過剰に防御できても、西の鎌倉側からの攻撃の防備とバランスが取れない。
調べたのは、「逗子市文化財調査報告」(注)とあり、公式の調査と考えられるが、現実は石切り場の跡であった訳です。
最大の問題点は「縄張り図」が無い事です。
この調査したチームが鎌倉城を理解していない証拠です。
日本城郭大系に記載された城は必ず縄張り図が示されている。
鎌倉だけ、、、、非常に不可解な扱いです。
戦国時代やそれ以降の小規模の城の理解を越えた巨大な城ですから、、
調査した方の理解を越えて居たと想像をしますが、、情けない事です。
(注)三浦氏の攻撃に備えた北条氏が鎌倉時代に築いたものである(「神奈川県文化財調査報告書」 第三十四集)
「三浦氏の攻撃に鎌倉幕府が怯えた??」モシ三浦氏の態度に問題が有れば、三浦氏は一挙に潰されたハズです。
この文章は、赤恥モノの臆測に満ちた文ですね!
「鎌倉城は無い!」派は、
この権威の有る本を否定する事で鎌倉に城は無い根拠にしたのではないか?
独自の研究はせずに、成書の弱点を非難するのは、研究者にあるまじき態度と思います。
この文章の基は、『太平記』『吾妻鏡』『梅松論』『玉葉』等から引用された文章と考えられますから、これ等の古文献を否定するのが筋と言うモノです。
一部の本を否定しても、他の本と折り合いが付かなければ筋は通りません。
何故か?
化粧坂を攻めていた新田軍主力部隊が『化粧坂は落とせないから稲村路から攻める!』
と書かれたのは『太平記』『梅松論』です。
この『太平記』『梅松論』を否定して初めて「鎌倉城は無い!」っと証明できるのですが、、、
その様な、『太平記』『梅松論』を否定したら、鎌倉時代の歴史文献は無いも同様になる。
その様な、『太平記』『梅松論』を否定したら、鎌倉時代の歴史文献は無いも同様になる。
「日本城郭大系」で鎌倉城の項目は、中途半端な調査と資料不足で鎌倉城を解説をしており、文章には矛盾を含み、不完全な記述で評価や、研究の対象に値しない文献です。
不備な文献にクレームを付けて、文献が間違えだから、書かれた物は総て嘘だ!それは理論の根本が間違っていませんか??
「鎌倉城は無い!」と説を造るなら、私の調べた以上に鎌倉の切岸を調査して、私の提示した城壁の切岸や砦跡を論理的に否定する。若しくは、古文献の間違えを提示する事で自説を造って欲しいものです。
未知な新事実を明らかにし系統立てる基礎研究が正攻法の研究で、資料不足を補強する研究調査をするのが筋と考えます。
なぜ、この『お猿畠』と呼ばれる大切岸が鎌倉城とされたのか?
又この『お猿畠』は石切り場跡で城跡では無い! よって鎌倉城は無い!と言う理屈になったのでしょうか?
そこに潜む心理に問題を感じる訳です。
でも、、あまり面白くないでしょう??
リクエストが有れば、この先をもっと書けます。コメントして下さい。
上記は憶測で書いたものですから、間違いを正すにヤブサカではありません。