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⑧の場所は東は横須賀線西は切岸です。
英勝寺の敷地内の様です。
そして英勝寺の先ですが、、
⑨は、今小路から離れて西側に入った場所の切岸です。
鎌倉の山はこの様な特徴が在ります! なんてね、、
これで木が無ければ、人手で造成した崖なんでしょうが、、
鎌倉の周囲の山裾は総てこの様な状態でマトモに山の上に上がれない!
其処から「故意にこの崖を作った」意味を問われるのです。
土木の重機が無い時代に、
この様な大掛かりな土木を誰がやったのか?
権力が無ければこの様な土木はできない。
このトンネルの寿福寺側⑥です。
この非常に狭い峰を登り、源氏山に行く道⑦が在ります。
手前に一人、中程に三人、そして上に一人!
上の一人は異常に狭い道を通ります。更に上から弓で狙い撃ちをされたら、、、
大人数で攻めても、困難な訳です。
この道の他に源氏山に登る道は??
基本的にはこの周囲には無い。
今小路から外れて、
刃稲荷から寿福寺のトンネルを潜ります。
先ずは、④の刃稲荷です。
源氏山からこの峰の南側は、その昔は正宗谷戸と呼ばれ広大な谷戸は正宗所有の土地で有ったそうな!
正宗谷戸の西は佐助隧道があり途中には正宗の使用した井戸があり、東の刃稲荷周辺では「たたら製鉄」で生じるカナ糞が多量に出土したそうです。
次は、⑤の寿福寺のトンネル
問題は、このトンネルの在る峰の不自然さに有ります。
この峰は、一様な傾斜で八坂神社へ向かい、その方向は六浦道を向く。
私が、古代東海道の痕跡と考え、道の境は不要になれば両側の地主の境界と成り、この様に削られた何て言う創作物語と憶測の世界に成る。
その様に、この峰は人工的に作られている。
更に、寿福寺のトンネルの右は下の写真に成り、その先端は八坂神社です。
そんなに土地が欲しければ、この峰をすべて削り取ればよい!
それをしないのは、防御に好都合である、、、この発想は、この場所は城の壁と言う理由から生まれます。
鎌倉の街から周囲の山を見て、どの様に感じるか?
物の見方や考え方で 感じ方は変わる。
大概は、自分で考えずに常識や書かれた情報に依存する。
それに従えば、鎌倉に城は無いという説を本や講習で習うと、、、
「本当に無いのだ!」
等と、本気で信用します。それが常識なのですが、、、
物事の現象に、専門外の更に重大な要素を知らない事が有る。
多種な理論、多様な考え方の組み合わせで世の中は動く。
単純な理論で説得力のある研究をされても、広い見識が無い研究は現状と合わない。他のモット重大な要素を理解してない為です。
頭で考えた理屈と、現実(遺構や古文献が証明するモノ)が合わないのを机上論と言います。
鎌倉幕府を語るなら、古文献と鎌倉の地形を考慮に研究すべきとおもいます。
> みうら サン
> 2015-03-11 09:09:46
> 前略
> すみませんが、初心者でも分かるお城のあとを教えてください。
> 歩いてみたいので
800年間放置された城跡で、荒廃した城は、自然に帰り緑のベールが掛けられた。しかし、その下には、鎌倉城の切岸が眠っている。
山林の放置と樹木伐採禁止で必要以上の繁殖となり、城壁の切岸は緑に隠された。その様な変化を思考力で取り去る必要が有る。
②の写真の紹介です。
今小路から路地の奥を見ると駐車場が在るのですが、、、
更に先の駐車場③です。
観光客は、、こんな遺構の知識は無く見ようとはしません。
レストランの紹介をされた観光案内片手に、食べる興味が主の様です。
巽神社やはちみつやの在る周囲です。
鎌倉の歴史には古代からの経過が在りますが、
東山道の分岐が在る。新田郡衙の東山道(下新田ルート)は、武蔵路が分岐し鎌倉へ向けて痕跡が在る。
その延長は、海蔵寺裏の大掘割(切通し)と続き、武蔵大路とも呼ばれ、今小路に名前を変えて鎌倉郡衙の在った御成小学校へと続く。
今小路自体は歴史の片鱗も感じない道ですが、、、
道の脇には、トンデモ無い遺構が在ります。
駅を出て、四つ角を右に曲がると今小路です。
昔の9m幅の駅路は、無駄に大きい為に平安時代は、6mや3m幅の道路に作り替えられた。
そんな道を散策する訳です。
しかし、この様な歴史を感じない道の脇を覗きながら歩いてみましょう。
その①は古我邸です。
①の古我邸の詳細は、武家屋敷跡としてこのブログにも書きました。参照してください。
基本は、三方を山で囲み、一方は海や土手で遮る。
その一方の海から攻め寄せるのが元寇の蒙古軍です。
そんな訳で、
外部から侵入を防ぐと考えられた切岸と呼ばれる城壁が鎌倉市街に向けて在るのですが、この矛盾した城壁の観察をするコースです。
新田軍を防御する為に七口を塞いだまま、明治近くまで放置され通行不能の鎌倉街道ですが、、
それでも朝比奈峠など、江戸時代に封鎖された切通しは現状の様に、通り易く工事をしたと石碑に記録されている。
大仏切通しは、文献によると初めから封鎖を解かずに脇道を作って人力車を通したが、すれ違いが不可の為に道幅を広げた記録が有る。
現在は途中の道路が地滑りで通行不可の場所を 観光の為に道を作りオリジナルとは違ってしまった。
古代は、
北から東山道が入り、東西に東海道が貫く交通の要所で在り、産業は古代から鉄で栄え、政治的には東北を鎮圧する軍を置いたと考えられる鎌倉群衙の在る場所です。
東海道や、東山道は路面幅9mの巨大な道でその痕跡の場所はこのブログに示した通りで、このブログを調べ直すのは温暖化の植生繁茂で結構困難な状態になりました。特に市営プール上の崖を横切る「稲村路」の痕跡は、雑草とツルに覆われて、近付く事が困難での上、現地を見ても雑草で写真に収める事が無理。
金を使って組織でやれば、簡単な事ですけどね、、、
鎌倉城や古代道の記述は成本には無く、このブログだけの見解です。
現在でっも、鎌倉の歴史に詳しい人は稀だと考えています。
知っていても狭い視野での詳しい人です。
何で断言できるか??
それは、既刊本を見ても知識の受け売りは在りますが、自分で見て感じて考えた記述は、鎌倉に関しては稀です。
それを書いてあっても、断片的だし全体像は無い。
それ程 鎌倉は奥が深いし面白い上に広大です。
文献は少なくても、物的証拠が満載の鎌倉です。
でも、それを調べた人が限られ、広大な面積を個人が調べるには限界が有るのです。
狭い地域でも、調べられているだけで価値は在ると思います。
歴史には古代からの経過が在りますが、それを抜きに「武家の古都鎌倉」なんて歴史を無視し過ぎです。
そんな訳で、
外部から侵入を防ぐと考えられた切岸と呼ばれる城壁が鎌倉市街に向けて在るのですが、この矛盾した城壁の観察をするコースを紹介しましょう。
鎌倉駅西口を降りて、今小路を歩き海蔵寺大堀切に向けて歩くのです。
紫色のラインがルートです。
理屈の世界ではなく、ご自分の目で見て確かめる話です。
次回は、このルートの見所です。
今回の写真は、特大です!画面に収まらない! 画面下のスクロールバーを使って下さい。
規格にコダワルのが嫌いな ぼ輔の性格の結果です。
鎌倉湖のダムの下が問題のある崖です。
切岸の存在です。
この様な山奥まで細工をした跡があるのです。
鎌倉城の城壁と「ぼ輔」が考える切岸です。
水の流れで断崖が出来た?、、、そんな水量はありません。
周囲の状況から道路を作る為とか、畑を作る為でもありません。
石切り場の痕跡でもありません。
住宅化の波が及ばない場所では、この様に切岸が残っている。
此処で「今泉編1」の写真を見直して下さい。滝ではなく切岸として見ると、、
その構造ですが、、、、
切岸の高さや垂直の状態そして、平地から山に登る取っ付きに切岸があります。
私には、共通の物を感じます。
一つの考えに基づいた工作物=外部からの攻撃を抑える城壁=切岸という事です。
切岸の状態を見たければ、今泉を起点に六国見山に登り獅子舞谷→鎌倉宮→報国寺→お猿畠の切通し→名越え→小坪へと切岸巡りができます。
一貫した切岸の痕跡を見れば、、近年流行の鎌倉城など無いとか、防衛施設など無いとノタマウ輩は参考文献を調べても、、、鎌倉の地理や構造を自分で見て無い非科学的ない似非研究者である! ぼ輔はそう考えるのです。
■切岸と石切り場の違いは何か??
人工的に作られた岩壁という意味では、、違いは無い。
しかし、
商業的に石を必要とすれば、採掘しやすい場所から可能な限り石を採り続け、崖の高さは防御に必要な高さ以上に、、無意味に高くなる。それが石切り場です。
切岸は、
人を侵入させない為の高さで良い。その幅は守る為の場所を囲み作られる。結果は長い距離を必要とします。手間をかけて過剰な高さは作れない。
そこには、一貫した高さの基準がある訳です。
非科学的な学者が発信した権威を持つ胡散臭い情報と、実際に見て感じる落差は自身で判断して下さい。それが大人のお遊びと言うものです。
この鎌倉湖の正体は、明治の初め作られた農業用水の池が始めです。
でも、、この周辺に似合わない大きな規模です。
「これを見たいから直ぐに行こう!!」等と思わないで下さい。
もう少し系統立てて見るべきものがあります。
鎌倉城としての城壁跡と考えられる切岸が小坪まで断続的にあるのです。
次回は、今泉にある切岸です。