鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

大鎌倉城 5

2012年10月07日 | 大鎌倉城

土石盛りの七口を塞いだバリケードを作った期間は、
> 新田殿退治の沙汰計也。同九日軍の評定有て翌日の巳刻に、金沢武蔵守貞将
> に、五万余騎を差副て、下河辺へ被下。是は先上総・下総の勢を付て、敵の後
> 攻をせよと也。一方へは桜田治部大輔貞国を大将にて、長崎二郎高重・同孫四
> 郎左衛門・加治二郎左衛門入道に、武蔵・上野両国の勢六万余騎を相副て、上
> 路より入間河へ被向。


この時から、作り始めたなら9日の期間で、、、、
 15日分配河原で負け時に危機感を持ったと考えれば、18日には洲崎戦いが始まった。その数日でバリケードを作ったと考えるのですが、、、
速成バリケードの規模の問題です。

最低でも、4~5mは有ったと考えます。
その根拠は、大仏の切通でも、その残骸は目測で4m以上はある。

朝比奈切通の現状では、脇に有るヤグラから推し量れば、元の路面は2mほど下と考えられる。

 この土盛バリケードを切り崩し何度となく道路修理した結果でも、、現状の高さで、土石を基の路面まで排除できないで現代まで盛土を残している。
壁が巨大過ぎて取り去れない訳です。その辺りを考慮に入れれば、更に数メートルは高かったであろう土石の壁で、最低でも4mは有ったと考えます。
これぞ「武家の鎌倉」の武力の力を具体的に表した証拠と遺産と歴史ですね!
その様な歴史の土石を綺麗に排除したら、、歴史の価値観なんて、笑ってしまうのだが、、、冗談であってほしい。

> 小袋坂ー1851年には鶴岡八幡宮寺の岩瀬一学が峰の
> 高さを約3m掘り下げる
これも、土盛バリケードを取り除き、昔の切通の路面に戻そうとした結果と考えるのです。

> 亀ケ谷切通ー現在のものは後世深く且つ広く改修したもので、
> 当時は現在の切通の上の方を狭い切通路が通っていたもの。

ですから、切通は土盛バリケードで封鎖され不通であったのを、近世に土盛を取り除く改修で、イクサ以前の街道に戻して人が通れる様にした。
考え方が違えば、同じ物を見ても書き方がこの様に変わります。
 亀ケ谷切通が、とても綺麗に土砂を取り除いた様に見えるのは舗装の結果でして、1960年代は、土石を岩船地蔵側の路面に上乗せした様でして、、、あの急坂で砂利含みの土砂では車輪付きの物はブレーキが効かず、路面は雨でエグレ、通れるのは歩行者と馬だけでした。
当時の感想はひどい道で、本当に亀でも登れない坂だな~!程度の考えでしたが、昭和の時代に土盛バリケードを排除工事した土砂なら、当然の雨水に依る道路のエグレ(歴史の浅い路面の荒れです。)と考えられます。
歴史のある街道のシッカリとした路面(源氏山に見られる三和土の路面)とは別物の雑な工事路面でした。

写真は
 再掲載の散在ガ池下の切岸ですが、、、
 攻め寄せるる敵に有効な守備の高さを鎌倉幕府は、この高さと考えていた訳です。
 立っている人物からその高さを推測してください。
参照
 「さて朝比奈切通し!」2006-06-30
 「大仏切通しの最大の問題点!」2006-06-25

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大鎌倉城 4

2012年10月02日 | 大鎌倉城
新田義貞鎌倉攻めで 七口の切通を封鎖した。
        どの様に封鎖したのか??

> (北道倶楽部より)
> 小袋坂ー1851年には鶴岡八幡宮寺の岩瀬一学が峰の
> 高さを約3m掘り下げる普請を建長寺に申し入れ許可

> 鎌倉市史(考古学編)には
> (北道倶楽部より)亀ヶ谷坂切通し----
> 当時は現在の切通の上の方を狭い切通路が通っていたもの。
> これは前方に逆茂木を並べ切通上に陣を敷いて待ち構えて
> いたら、通る事は出来なかったろう。
> (「鎌倉市史(考古学編)」p178 )

同じく、朝比奈の切通、大仏切通でも江戸、明治時代に道路補修が行われた。

新田軍来襲で七口総べてを封鎖し、この封鎖の土壁で通行不可になった。
この七口封鎖の土壁は、鎌倉幕府敗戦の為に放置され江戸時代に補修されるまで続いた様です。  なぜなら、、
廃墟となった鎌倉の町で、出入りは人の足だけ!の交通困難な土地。
馬や車も困難な七口封鎖です。
財力が無いのに誰が道路工事をやるのでしょうか?
江戸時代に民間人が歩ける程度の補修をした。
明治の時代に人力車を通せる道は大仏切通だけで他は徒歩だけで通り抜けたと考えられる。
「七口封鎖のバリケード」の残骸は明治の時代まで通行の障害となっていた。
結果 一般人は 封鎖の残骸で通りにくい七口の他に、鎌倉時代の兵士移動用峯通し道を日常使い、峯の道が鎌倉街道の様に記された書籍が見受けられる。
明治迄の鎌倉人が日常でよく使う道と、七口は別物であった。

赤字は、私の憶測!!

太平記に「行く月に敵の陣を見ると、北は切通まで 高く路険しい、木戸や垣楯を造り、数萬の兵陣を並べて居た。」 と極楽寺坂偵察の結果で書かれた。
極楽寺の坂に木戸を作り閉鎖した????
そんな低いレベルの閉鎖では無いのです。
土石を盛って壁を作った!
問題は、どの程度の壁を作ったら防御に有効か???
2mでは、槍やナギナタで攻撃できる高さで、守る兵は足元を狙われるし、チョッとした台が有れば登れる。ーーーこれでは不可ですね。
3mか、、、それ以上の土砂を盛り上げた訳です。

写真は
 新田軍がこれから洲崎を攻めようと言う位置から洲崎を望む。
 右手にモノレールが見えその下に洲崎古戦場の碑がある。
 アパート郡は、高台の上に立っている。
 手前の平地は、柏尾川の沼地か田んぼであったのでしょう。
 それ以前の古墳時代は大きな湖であったと言う話もあります。
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