土石盛りの七口を塞いだバリケードを作った期間は、
> 新田殿退治の沙汰計也。同九日軍の評定有て翌日の巳刻に、金沢武蔵守貞将
> に、五万余騎を差副て、下河辺へ被下。是は先上総・下総の勢を付て、敵の後
> 攻をせよと也。一方へは桜田治部大輔貞国を大将にて、長崎二郎高重・同孫四
> 郎左衛門・加治二郎左衛門入道に、武蔵・上野両国の勢六万余騎を相副て、上
> 路より入間河へ被向。
この時から、作り始めたなら9日の期間で、、、、
15日分配河原で負け時に危機感を持ったと考えれば、18日には洲崎戦いが始まった。その数日でバリケードを作ったと考えるのですが、、、
速成バリケードの規模の問題です。
最低でも、4~5mは有ったと考えます。
その根拠は、大仏の切通でも、その残骸は目測で4m以上はある。
朝比奈切通の現状では、脇に有るヤグラから推し量れば、元の路面は2mほど下と考えられる。
この土盛バリケードを切り崩し何度となく道路修理した結果でも、、現状の高さで、土石を基の路面まで排除できないで現代まで盛土を残している。
壁が巨大過ぎて取り去れない訳です。その辺りを考慮に入れれば、更に数メートルは高かったであろう土石の壁で、最低でも4mは有ったと考えます。
これぞ「武家の鎌倉」の武力の力を具体的に表した証拠と遺産と歴史ですね!
その様な歴史の土石を綺麗に排除したら、、歴史の価値観なんて、笑ってしまうのだが、、、冗談であってほしい。
> 小袋坂ー1851年には鶴岡八幡宮寺の岩瀬一学が峰の
> 高さを約3m掘り下げる
これも、土盛バリケードを取り除き、昔の切通の路面に戻そうとした結果と考えるのです。
> 亀ケ谷切通ー現在のものは後世深く且つ広く改修したもので、
> 当時は現在の切通の上の方を狭い切通路が通っていたもの。
ですから、切通は土盛バリケードで封鎖され不通であったのを、近世に土盛を取り除く改修で、イクサ以前の街道に戻して人が通れる様にした。
考え方が違えば、同じ物を見ても書き方がこの様に変わります。
亀ケ谷切通が、とても綺麗に土砂を取り除いた様に見えるのは舗装の結果でして、1960年代は、土石を岩船地蔵側の路面に上乗せした様でして、、、あの急坂で砂利含みの土砂では車輪付きの物はブレーキが効かず、路面は雨でエグレ、通れるのは歩行者と馬だけでした。
当時の感想はひどい道で、本当に亀でも登れない坂だな~!程度の考えでしたが、昭和の時代に土盛バリケードを排除工事した土砂なら、当然の雨水に依る道路のエグレ(歴史の浅い路面の荒れです。)と考えられます。
歴史のある街道のシッカリとした路面(源氏山に見られる三和土の路面)とは別物の雑な工事路面でした。
写真は
再掲載の散在ガ池下の切岸ですが、、、
攻め寄せるる敵に有効な守備の高さを鎌倉幕府は、この高さと考えていた訳です。
立っている人物からその高さを推測してください。
参照
「さて朝比奈切通し!」2006-06-30
「大仏切通しの最大の問題点!」2006-06-25