.由比ヶ浜から 霊仙崎より 稲村ケ崎迄の全体図でこの地域の地形を把握する図面です。
.現在は「google Earth」の画像がトテモ緻密に成り空中写真と遜色なくなっています。
.そんな「google Earth」の画像です。
.空中写真ですと、高低差に極端な変形が在り、トテモ急な坂に見えますが、水平方向からの画像は、見ての通り、老若男女も取り敢えずは伝え歩きで通過できる傾斜と成ります。
.現実の坂は、関東大震災の為海側が崩れて、幅40㎝の道が残っており、崖上迄続いて居ましたが、、平均台の上を歩く状態で、伝え歩きをする状態でした。
.再度訪れて写真を撮る考えでしたが、、植物の繁茂が年々ヒドクて真冬でも現場迄 草刈道具が必要で、更に道路遺構にも蔦が繁茂して写真も撮れない現状です。
.下図は、一番右に由比ヶ浜の海岸がみえて、稲村路と干潟に成った場所(現在の埋め立て地)の位置関係を示す図です。
.この画像を2D(平面図)で示すと下図の様です。
.七里ヶ浜から極楽寺に向けた点線が急角度で南に向かう地点が針摺橋です。
太平記より、
>「二十一日の夜半許に、片瀬・腰越を打廻り、極楽寺坂へ打莅給ふ。明行
>月に敵の陣を見給へば、北は切通まで山高く路嶮きに、木戸を誘へ垣楯を
>掻て、数万の兵陣を双べて並居たり。南は稲村崎にて、沙頭路狭きに、浪
>打涯まで逆木を繁く引懸て、澳四五町が程に大船共を並べて、矢倉をかき
>て横矢に射させんと構たり。誠も此陣の寄手、叶はで引ぬらんも理也。」
新田軍は極楽寺坂の偵察を出した状況が書かれており。七里ガ浜より極楽寺切通しへ向った際、道路の分岐点に立った状況を書かれていると考えられる。
〇これが七里ヶ浜より極楽寺に向かう際=七里ヶ浜の砂浜なら、稲村ケ崎は東ですから、極楽寺坂の様子が窺えるギリギリまで進んだ状況で偵察をした。
〇その場所は、針摺橋辺りが妥当と考えるのです。.
〇更にその場所は南が「稲村ケ崎」=稲村路 でして、
〇稲村路は、霊仙崎と稲村ヶ崎に挟まれた状態で在り、岩場を降りる稲村路の痕跡も現存すると言う訳です。
.偵察で針摺橋迄侵入すると、道は二手に分かれており 北は極楽寺、南は稲村ケ崎!と成っていた。
後ろを振り返り「後ろは七里ガ浜で稲村ケ崎!」と理屈じゃ書きませんから、道の分岐点での記述と解釈できる。 古文献の記載に矛盾が無いのですが、現代の鎌倉研究者は現地と対比して研究した痕跡も無く、他者の研究本を信用して間違えの上塗りをしています。
以上が稲村路を地形から 広い視野での説明です。
参照記事 カテゴリー:稲村ヶ崎伝説 稲村崎成干潟事 上巻 をご覧ください。