鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

稲村崎成干潟事のマトメ 4 google Earth

2022年06月24日 | 稲村ヶ崎伝説

.由比ヶ浜から 霊仙崎より 稲村ケ崎迄の全体図でこの地域の地形を把握する図面です。
.現在は「google Earth」の画像がトテモ緻密に成り空中写真と遜色なくなっています。
.そんな「google Earth」の画像です。

.空中写真ですと、高低差に極端な変形が在り、トテモ急な坂に見えますが、水平方向からの画像は、見ての通り、老若男女も取り敢えずは伝え歩きで通過できる傾斜と成ります。
.現実の坂は、関東大震災の為海側が崩れて、幅40㎝の道が残っており、崖上迄続いて居ましたが、、平均台の上を歩く状態で、伝え歩きをする状態でした。
.再度訪れて写真を撮る考えでしたが、、植物の繁茂が年々ヒドクて真冬でも現場迄 草刈道具が必要で、更に道路遺構にも蔦が繁茂して写真も撮れない現状です。
.下図は、一番右に由比ヶ浜の海岸がみえて、稲村路と干潟に成った場所(現在の埋め立て地)の位置関係を示す図です。


.この画像を2D(平面図)で示すと下図の様です。

.七里ヶ浜から極楽寺に向けた点線が急角度で南に向かう地点が針摺橋です。


太平記より、
>「二十一日の夜半許に、片瀬・腰越を打廻り、極楽寺坂へ打莅給ふ。明行
>月に敵の陣を見給へば、北は切通まで山高く路嶮きに、木戸を誘へ垣楯を
>掻て、数万の兵陣を双べて並居たり。南は稲村崎にて、沙頭路狭きに、浪
>打涯まで逆木を繁く引懸て、澳四五町が程に大船共を並べて、矢倉をかき
>て横矢に射させんと構たり。誠も此陣の寄手、叶はで引ぬらんも理也。」
新田軍は極楽寺坂の偵察を出した状況が書かれており。七里ガ浜より極楽寺切通しへ向った際、道路の分岐点に立った状況を書かれていると考えられる。
〇これが七里ヶ浜より極楽寺に向かう際=七里ヶ浜の砂浜なら、稲村ケ崎は東ですから、極楽寺坂の様子が窺えるギリギリまで進んだ状況で偵察をした。
〇その場所は、針摺橋辺りが妥当と考えるのです。.
〇更にその場所は南が「稲村ケ崎」=稲村路 でして、
〇稲村路は、霊仙崎と稲村ヶ崎に挟まれた状態で在り、岩場を降りる稲村路の痕跡も現存すると言う訳です。

.偵察で針摺橋迄侵入すると、道は二手に分かれており 北は極楽寺、南は稲村ケ崎!と成っていた。 
後ろを振り返り「後ろは七里ガ浜で稲村ケ崎!」と理屈じゃ書きませんから、道の分岐点での記述と解釈できる。  古文献の記載に矛盾が無いのですが、現代の鎌倉研究者は現地と対比して研究した痕跡も無く、他者の研究本を信用して間違えの上塗りをしています。

以上が稲村路を地形から 広い視野での説明です。

参照記事 カテゴリー:稲村ヶ崎伝説  稲村崎成干潟事 上巻 をご覧ください。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

稲村崎成干潟事のマトメ 3 空中写真

2022年06月19日 | 稲村ヶ崎伝説

下は2014年写で、崖の岩肌は、温暖化により殆ど隠れています。道路痕跡は目立たぬ様にピンクでプロットして在ります。

 

下の写真は、2007年で多少は岩肌が見えます。(CKT20072-C26-56)

 道路遺構が、崖を横切る状態で写っています。
PC画面で作図しているので、スマホでは画像が荒いかもしれません。
興味のある方は、国土地理院の空中写真閲覧にて(CKT20072-C26-56)を調べて下さい。
下の写真は1964年で、崖には緑がホトンド無い時代です。

古い空中写真は画素が荒くて1m程度の道幅では画像に出にくい。

垂直に近い崖は空中写真を真上から撮ったら殆ど写らない!
季節により植生が変わり崖の見え方が変わる!
近年の空中写真は画素が緻密で詳細まで写るが、緑が侵食し始め、道路痕跡は隠れる!
冬枯れも殆ど無く、伐採覚悟の草刈道具持参でないと道路痕跡を確認できない。

プールの有る場所は、明治の時代に大潮の時は平らな干潟に成った場所で、関東大震災で1m程隆起し、埋め立てて現在に至ります。 これも歴史の一部なんですがね、、

視野の狭い科学的な研究発表しても、モット重大な要素を無視したら、それは非科学的な嘘になる。 事の起こりは明治の研究者大森金五郎が稲村ケ崎を渡渉し定説になり、稲村ケ崎には石碑迄作られ誰も疑問に思わなかった! でも、古典に書かれた事とは符合しないでしょ??

視野が狭ま過ぎて問題が有る専門家が多いのは残念で、過去の研究書を読み漁って確認もせずに妄信する、自分で考える事もせずにマスコミに拡散する事態に成っています。

この道路痕跡が示すのは、岩の高い場所を狭い砂浜に向かって降りる道で、強い干潮の時は干潟が沖に向かって100m程浮き上がり、古典の記載と矛盾しない場所です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

稲村崎成干潟事のマトメ 2 干潮の時刻

2022年06月16日 | 稲村ヶ崎伝説

誰でも、、、、稲村ガ崎の突端に行けば、、、
「この海が干上がり鎌倉に歩いて行けた!」 それって本当???
 根底にその疑問が有るので実証しよう!! っと徒渉実験が行われた。

引き潮の時なら、、、軽装で腰ぐらいの処まで浸かり、稲村ヶ崎を回り込む事が出来る。
しかし、其処は洗濯板状態の侵食された岩場であり、次の一歩は胸までの深さになり慎重に足場を探りながら渡渉となります。
人は膝から上に水が来ると途端に行動が鈍り船から横矢の絶好な標的になる。
その上、甲冑(足軽、雑兵の胴巻きで10㎏ 刀1㎏)を着け転倒したら溺れます!
稲村ヶ崎の突端では、潮が引いても船が沖に避難する必要は無い。よって鎌倉軍は船から渡渉する新田軍を狙い横矢を射れる。
その様な観点から、、
稲村ガ崎の突端を徒渉した説は机上の理論であり、実戦には役に立たず 太平記や梅松論の記述とも合わない空論と言えます。(関東大震災以前は 現在より更に1m深かった!)
問題は
腰まで波に浸かりながら歩く干上がり方では無く、数万の兵士が由比ガ浜に向かい浮き上がった岩礁の上を歩ける干上がり方であったのです。【2010ぼ輔記 未掲載】

稲村崎成干潟事とは、普段海中の中の岩礁が潮が引いて海水面から浮き上がった状態を干潟と言います。『干潟』の意味を知らず、誤解したのが従来説です。干潟は由比ヶ浜より霊仙崎の前に向け 長さ1㎞(10町) 幅100mの干潟の出来る場所が在り、現在は市営プールの在る埋立地です。

攻込む場所を間違え、稲村ケ崎の突端と解釈した。これは稲村路の場所を調べなかった間違えです。

更に如何でも良い日時や時間迄、、、科学的な感違えに発展するのだが、何故に古来より月の満ち欠けで日にちが決まった太陰歴の情報を太陽暦に換算する必要が有るのか?? 専門家の視野の狭い詳細な研究は、より重大な要素を無視した誤りを犯した話です。

#####その他の 勘違い研究者の記事#######
新田軍が鎌倉へと攻め入った日を
「太平記」では 元弘三年五月二十一日 
1915年に小川清彦(「古天文学」の創始者)が
潮汐の計算をすると、この日は干潮では無い。
新田義貞は干潟でなく海を渡渉と見解を出しま
した。
これに対し1993年 石井進((専門は日本中世
史。文学博士)の研究では、5月18日の午後
であり、太平記が間違いと結論をだした。
更に2009年『海洋調査』協会報No.95号
「稲村ヶ崎の干潟伝説は本当だった」山田 秋彦
にて渡渉報告が在る。
###################################

「太平記」 元弘三年五月二十一日 は西暦1333年7月3日
「梅松論」 元弘三年五月 十八日 は西暦1333年6月30日
   ドチラが正しいか?!どちらも正しい!! モノの見方や考え方で左右されます。

さて、潮が大きく満ち引きするのは大潮ですが、月と太陽の位置で決まります。
大きく潮が引いたなら、それは新月か満月の日(1~2日ズレる)です。
基本は旧暦の話で、月の満ち欠けで日は決まる。更に大潮の日も、、、
新月の時は1日で、、、、15日は満月です。(一五夜は毎月満月と決まっています。)
よって大潮は1日と15日(1日2日遅れる事が有り)です。
「梅松論」5月18日と 「太平記」5月21日は大潮には無関係です。

初めから、異常な引き潮であり、新田義貞が鎌倉へ入る前に大館次郎宗氏が由比ヶ浜へ少人数で侵入出来たが、幕府軍の反撃で討ち死にした。その知らせを受けた新田義貞は、化粧坂より稲村路侵攻に切り替えた、っと太平記の記述がある。
依って、新田義貞が黄金の太刀を海に投げ込む前から潮は引いており、戦いが終わるまで潮が引いていたと梅松論には記述が在る。

太陰暦を太陽暦に変換する必要の無い科学的研究の間違え古典の無理解による見落としです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

稲村崎成干潟事のマトメ 1

2022年06月10日 | 稲村ヶ崎伝説

「稲村路」と言う記載が古典には有ります。
●海道記(1223年頃)
「稲村と云う所あり。険しき岩の重なり臥せる狭まを伝いいけば、岩に当りてさき上る波、花の如くに散りかかる。申の斜めに、湯井の浜におちつきぬ。」
  ぼ助訳)高い岩の
(険しき岩の重なり臥せる)狭い道を降りれば(狭まを伝いいけば)浪打際に出る(岩に当りてさき上る波、花の如くに散りかかる。)
●太平記「南は稲村ヶ崎にて、沙頭路狭きに、浪打ち際まで逆茂木を繁く」  (ぼ助注)極楽寺に向かい敵が攻撃しないギリギリの場所まで近寄って偵察した状況で、
針磨橋の辺りの状況と考えらえれる。依って稲村ケ崎=稲村路と解釈できる。

●梅松論では、「浪打際、石高く道細くして」
  (ぼ助訳)波打ち際を通るのだが、石の高い処を細い道が通っている。

稲村路の特徴は、、、
「梅松論」より 石高く道細くして=石の高い場所を通っている。
「海道記」より 険しき岩の重なり臥せる狭まを伝いいけば=岩の高い場所を降りれば、波打ち際の道に成る。
上記の結果は、高い岩の上から浪打際に降り 其の後広い由比ヶ浜に出る道です。
「太平記」より、稲村路は波打ち際に降りる迄 逆茂木でバリケードを作って有った。

通説の稲村ケ崎の水際に稲村路の痕跡等無いのは、見れば理解できるでしょう。
更に、古典に書かれた「高い場所から降りる路」を作る場所も稲村ケ崎には無い訳であす。

如何でしょうか? 稲村路の痕跡が確認出来ますか?


赤紫のマークした場所です。
古典に書かれた状況と合致する場所に成ります。

下図の明治迅速図の青で①のラインは俗に言われた稲村ヶ崎の渡渉の場所。

上記赤い②の場所は、稲村路と想定するルートです。

埋め立て地は、関東大震災で1m浮き上がった岩礁の上であり、新田義貞が岩礁の上を攻め込んだ故事と矛盾しない場所に成ります。

次回は、この場所の公的な写真=国土交通省の空中写真と成ります。

詳細は、 カテゴリー「稲村ヶ崎伝説」をご覧ください。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

稲村崎成干潟事 干潟の状態は、、、

2022年06月06日 | 稲村ヶ崎伝説

―――干潟の状態―――
●【太平記・稲村崎干潟事】
誠に龍神納受やし給ひけん。その夜の月の入に前々更に干る事も無かりける稲村崎、俄に二十余町干上って、平砂渺々たり。横矢射んと構へぬる数千の兵船も、落ち行く塩に誘はれて、遥の沖に漂へり。不思議と云ふも類無し。
【平沙】広々とした砂原。へいしゃ。
【渺渺】 広くはてしないさま。遠くはるかなさま
●【梅松論】「北条氏の滅亡」
爰にふしぎなりしは、稲村崎の浪打際、石高く道細くして軍勢の通路難儀の所に、俄に塩干て合戦の間干潟にて有し事。かたがた仏神の加護とぞ人申ける。
干潟=干潮の時・・土地が現れる 現象

古典では海水面より上に干潟が出来上がったと書かれています。
更に太平記では具体的に『二十余町干上って、平砂渺々』と書かれ、実際に当てはめれば、
坂ノ下から鎌倉市民プール迄の埋め立て地迄が干潟と成り、明治時代にその干潟を写した写真も存在する。更に関東大震災で1m隆起し、埋め立て地にする計画が始まった。

その実態は、10町在り、崖下の稲村路から100m程沖まで干潟が出来たと考えれば「横矢射んと構へぬる数千の兵船も、落ち行く塩に誘はれて、遥の沖に漂へり。」となり、、矢は200m程飛んでも、狙い撃ちは30m程ですから、効果は無かったと考えられます。
決して、古典の読解力が無い研究者が稲村ケ崎の脇の渡渉実験の様に水に漬かりながら歩いた訳では無く、霊仙崎1キロの波打ち際で幅100mが水面から浮き上がり、その上を由比ヶ浜に攻め込んだ と読みとれます。稲村路の場所が問題と成ります。
次は、稲村路の痕跡の話です。

詳細と写真は、カテゴリー「稲村ヶ崎伝説」をご覧ください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

稲村崎成干潟事 干潮の時刻は、1

2022年06月04日 | 稲村ヶ崎伝説

■ 記 2010年08月07日稲村崎成干潟事9
異常潮位に就いては、上記に記した有ります。

その「稲村ヶ崎が干上がった!」干潮の時刻は??
その時刻を正確に科学的に解説した方が居ます。
その日時が干潮であろうと、満潮でも、、、如何でも良い事!!  机上の科学的と現実は違っていたのです。
何故なら、、、
『太平記』や『梅松論』に記された言葉は、潮位が異常に低くなった!
と書かれている。

新田義貞が黄金の太刀を海に投げ入れ無くても数日前から潮は引き大館が稲村路の逆木を避けながら浮かび上がった岩盤の上を少人数で由比ヶ浜に入れた!
それを新田義貞が知り、正攻法の化粧坂から一部の兵を搦手の稲村ケ崎に送り、自ら指揮をした!
更に 梅松論には合戦が終わるまで潮は引いたままであったと、書かれている。
依って
 異常潮位であり、通常の干潮の時刻を問題にすること自体が見当違い!
異常潮位はどの程度の割合で起きるのか?
それも記事にしてあり、結構頻繁に(年に一度や二度あり、詳細はグラフをご覧ください)有ります。違った立場の異なる『太平記』や『梅松論』の著者が、同じように異常な干潮を記載しているのを無視した。数少ない古文献の重大な記載を信用せずに、平常の潮汐観測資料 で語った間違えを犯している。

#####その他の 勘違い研究者の記事#######
新田軍が鎌倉へと攻め入った日を
「太平記」では 元弘三年五月二十一日 
1915年に小川清彦(「古天文学」の創始者)が
潮汐の計算をすると、この日は干潮では無い。
新田義貞は干潟でなく海を渡渉と見解を出しま
した。
これに対し1993年 石井進((専門は日本中世
史。文学博士)が計算の結果、5月18日の午後
であり、太平記が間違いと結論をだした。
更に2009年『海洋調査』協会報No.95号
「稲村ヶ崎の干潟伝説は本当だった」山田 秋彦
にて渡渉報告が在る。
###################################

恐らく、古文献を見て無いのか?難しくて読み切れなかったのか?  古文を解釈出来ないママ史実を誤認した研究者のレポートに成りますが、余りにも初歩的な間違えです。渡渉(水の中を歩く)の必要も無く平らな岩礁が浮き上がりその上を由比ヶ浜まで歩けた訳です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする