上は、戦前の江の島稚児が淵の絵葉書で見る波蝕台です。
6000年前より海面は安定し2~3m程度の変化と思われます。
特異なのは関東大震災で、1m程隆起した事です。
波蝕台がこの様に平らな面をしている事は、6000年間海面の大きな変化は無かった事を示しています。
古墳時代の海水面水位の話ですが、一般的に考えられている事は、
〉根拠不明なまま、憶測で古墳時代の海水面は今より高い位置にあり、
〉「海岸線は陸地に入り込んでいた!」と考える方が多々居ります。
鎌倉の海岸においても、この墓の標高を根拠に現代とサホド変化が無かったと結論できます。
長谷小路石棺の標高6.8mは、台風の高波等を考えれば、妥当な高さと思えます。
更に関東大震災以前を考えれば、長谷小路石棺の標高5.8mです。
何を言いたいか?
新田義貞の稲村渡渉の話が絡みますし、
古代東海道の平塚から鎌倉までの砂地絡みの土地は、標高が4〜5mの場所で、縄文海進が5m以上もあり海岸線が陸地に入り込んでいたと推測されると、新田義貞稲村渡渉は、空想の話。
平塚の古代駅路の遺構も、成り立たなくなる。
この説に反論する決定的な証拠として石棺墓の標高が証明している訳です。
波蝕台っと言う現象があります。
著明なのは、江ノ島の岩屋に行くと、海面より一段上がって岩が平坦に成っています。
この平坦な岩は波の力で侵食された場所で、海面の高さで浸食され出来上がった岩です。
以上を根拠として、江の島鎌倉周囲の1000年程の海水面の増減は殆んど無いと結論します。
ちなみに、関東大震災時に1m程湘南海岸は隆起した事が知られています。
ですから、この長谷小路石棺の明治時代の標高は、5,8mです。