■■2018年09月16日 に記載■■
このブログは、、
鎌倉に関しての古代道路と、それに絡む鎌倉城の記載です。
確定したものを書いている訳ではなく、私自身の頭脳が理解し情報を積み重ねる過程を書いています。
情報次第で、理解の中身が変わる、、、過程の記録です。
日付けが古いものは、情報量が少なく、考え方も狭小です。
新しいものは資料も多くなり、考え方も範囲が広く考える事が出来ます。
とは言え、鎌倉幕府の生の記述は「鎌倉終焉」と伴に灰塵と成った訳です。
文献からの研究は限られた本「太平記」「梅松論」等が参考と成りますが詳細は不明です。
古典の中身は 著者の誇張や又聞きの記述です。 真実の情報は、鎌倉の土地に刻まれた遺構に語らせる他は無い。
例えば鎌倉城遺構ですが、
私の書かれた時期により、情報量と頭脳の理解範囲や視点が段々に広がっていきます。
このブログ初期は、
頼朝が石橋山の合戦破れ千葉に逃げた時に、千葉常胤氏が
「鎌倉は、要害の地で源氏の因縁が有る場所です。其処に居を構えたら如何でしょうか?」から始まります。
この時点では、源平合戦の延長である「要害の地」と考えられます。
自然の要害の地とは、書かれていません。
三方が山に囲まれもう一方は海の外部で攻め込みにくい場所=要害の地と言う意味です。
初期は、鎌倉城に障害になる巨大な官路(駅路)が鎌倉に入り込んでいた。
東山道武蔵路より相模の国に入り 海蔵寺裏の大堀切と言う切通の跡から鎌倉に入ったと考えられる。
古代東海道の西出入口は梶原団地の谷戸より化粧坂から鎌倉に入ると考えられ、東の出入り口は朝比奈峠が有ります。
平安時代は、これ等の官路は機能しており、鎌倉に官路から安易に出入り出来たと考えられます。
(当時は山には切岸は無く、自然な状態で在ったと考えられますが、、、
現在の鎌倉山中の遺構は人工的な切岸で総て囲まれている。)
城にするには、この官路を塞ぐ必要が有ります。
この時点で 初期の当ブログは、、
鎌倉山中の遺構は、鎌倉の町を守る為の遺構と考えて書かれています。
鎌倉城の範囲は 七口を結ぶラインを考えて居り、このブログ初期の考え方です。
このブログ中期は、
頼朝が鎌倉入りした後は、国内の反幕府勢力に対抗するために、
本来 鎌倉市内を突き抜け六浦に向かったであろう古代東海道を塞ぎ、七口を結ぶラインに防衛線を作ったであろう、、、と考えられます。
そのライン上には、東山道武蔵路の延長である相模路の大切通が海蔵寺の裏にあります。 この切通を塞ぎ土橋にした「大堀切」と称する遺構が含まれる。
この切通を塞いだ痕跡は、初期の鎌倉城を作った時の遺構と考える訳です。
同様に、古代東海道の切通を塞いだ痕跡が有る訳です!
その痕跡は疑い出すと鎌倉の西側には幾つも在ります。
古代東海道の東の出口に当たる朝比奈峠も この時期に古代東海道を鎌倉城に改造する時に手を付けなかった古代東海道の痕跡と考えられる遺構が残って居り、記載しました。
「いざ鎌倉!」と言う言葉が有る。
詳細は「鉢の木」と言う話に成っているが、
何故、事が起きたら先陣争いをして鎌倉に集合させたのか?
当時の城は鎌倉だけにあり、鎌倉幕府に対抗する勢力から鎌倉を守るためには、、
七口とその峰に兵を置くと関東一円の武士で守る必要が有るほど大きい城でした。
太平記に書かれ攻防の有った場所が鎌倉城と考えた訳です。
この時点では「元寇の考え」は全く考慮されずに書かれています。
古代東海道の遺構と考えられる梶原の谷戸から朝比奈峠より六浦に抜ける道と鎌倉城の関連を主体に考えて居た時期です。
鎌倉の城は、国内の反幕府対策で防衛の為と考えた時期です。
この時の矛盾は、
鎌倉市内より外へ出ようとした時に、内側にも切岸が有る矛盾!
大半の方は、建物の平地を確保する為にが崖を作ったと思うでしょうが、、、
個人の住宅では、大掛かりな土木工事はしないし、鎌倉の街を囲む山の内外が総て同じ基準で切岸状態なのです! そこから想定できるのは、
政治力で、山の内側に大掛かりな切岸を作り上げたと考える訳です。
市内に向けた切岸から、街を守るだけでは無い鎌倉城の機能が有ると感じたのです。
このブログ後期には、
現地を見ても巨大過ぎる鎌倉城の実態は把握できなかったのですが、
国土地理院の地図が詳細に整備され、地図上に傾斜を表示し、赤色立体地図も使えるように成り、
樹々や建物に邪魔されない土地の表示ができるので、
本来の鎌倉の地形の全体像を理解でき、城全体が把握出来るようになった。
関東武士だけでは守り切れない巨大さを考えると、、、
日本武士の総力を挙げて対抗する敵は何か????
それは、外国の軍隊と言う事に成る。
この辺りから、、、
現在残る鎌倉城の遺構は、蒙古襲来が起きた事による、、、、
元寇対策の日本の総力を挙げて守る城と言う考えに成ったのです。
対国内の反幕府勢力に対抗する為に作られた鎌倉城は、
国外の敵に対抗する城として、作り直されたと考えられるのです。
鎌倉終焉では、 新田義貞の鎌倉攻めとなります。
台峰と脇にある倉久保谷戸の砦構造が確認できる事と、鎌倉城大手と考えられる化粧坂、葛ヶ原、北鎌倉女子高校のグラウンド、水堰橋までは、台峰の上を通っている。
化粧坂に行くには大手道が唯一の侵入経路です。
化粧坂が決戦の場ではなく、この大手道を占拠する事で化粧坂に入れるのです。
古文献では、新田義貞の主力軍は化粧坂から鎌倉に攻め入る事を考えたのだが、、、
洲崎にて、鎌倉軍との戦いになった。
洲崎とは、化粧坂と柏尾川の間の土地全体を総称して洲崎と言うのです。
洲崎の戦いを終えると、次には、、、
山之内に兵を進めた!
山之内は大手道の水堰橋が有る場所で在り、瓜ヶ谷より台峰を攻撃できる場所です。
別ルートで、深沢、梶原、六本松ルートで葛原ヶ岡を攻撃できます。
葛原ヶ岡を乗り越えないと、化粧坂には行けないのです。
新田義貞の主力部隊は、化粧坂を攻めに行きましたが、、、
化粧坂の手前の葛原ヶ岡で攻防があり、これを打ち破れなかった。
決して、、、化粧坂で戦われたのでは無い。
化粧坂に攻め込む為、台峰から葛原ヶ岡に続く峰道を攻めた。 っと古文献より考える。
その後、新田義貞主力部隊は葛原ヶ岡を落とせずに稲村ケ崎を攻めた!
この様に太平記や梅松論に書かれています。
結論は、
洲崎の戦いに勝ったが、山之内から葛原ヶ岡を落とせず、、化粧坂に入れなかった。
梶原団地から葛原ヶ岡に行くルートも撃破出来なかったし、
倉久保谷戸から台峰に登る事も不可で有り、、
小袋谷の水堰橋側から台峰に登るのも不可で在り、化粧坂に行く台峰上の大手道へ入り込めない。
大手道に登れない砦構造が台峰に在った訳です。
この七口から張り出した峰が鎌倉城の戦う砦として強固で、
守る鎌倉幕府軍三万騎
攻める新田軍五十万騎
十倍以上の攻撃に台峰の砦は持ち耐える事が出来た。
、、、この戦う峰が七口に存在し、台峰は 巨大な鎌倉城の一部でしかない。
■■2020/07/13 記載■■
台峰の攻防も、化粧坂へ通じる鎌倉城の大手道の話であり、幕府軍は兵力が少なく 直接七口に絡まない峰には兵が配置された形跡は無い。
城が巨大過ぎて、総ての峰に兵を配置する事は出来ず、最小限の七口の守りで戦った訳です。
国土地理院の地図の性能が上がり、傾斜部分の強調が表示され、単なる等高線の表現より リアルで直感的な視覚の表現が出来る様になり、現地を見なくても切岸の存在を調べる事が出来る上に全体像を把握出来るように成った。
結果は、切岸が何処迄あるのか? を図示出来る様に成った訳です。
すると、単なる鎌倉の街を囲って守るだけの切岸では無い程の広範囲な切岸が造られている事が示される。
此れでも、、飽くまでも何処迄が城の範囲なのか?? の調査思考の途中で経過の話です。