鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

鎌倉城の範囲 9

2020年07月28日 | 大鎌倉城
城、又は要塞の大きさですが、、
現北京城は8.5㎞×8,5㎞の大きさですが、元の時代は7.6㎞×6.8㎞の四角形でした。
元の城壁は明の時代に代わった時点で破壊されたとの事です。
「世界一大きい城、要塞」とググってもプラハ城以上の大きなモノは無い。
南京城、北京城は、カウントされて無い様です。
鎌倉城は、東西13㎞南北12㎞の大きさで、面積は微妙ですが、当時の鎌倉城はある意味北京城より大きい。
その当時で世界一大きい城と言えるのです。

鎌倉城と当時の北京城を比較してみましょう。
緑のラインが、鎌倉城の境界。
ブルーのラインが北京城の大きさ7.6㎞×6.8㎞の四角形を想定した大きさです。
北京城の外郭は、ほゞ取り壊されている様子で、古地図から確定する必要が有る。
でもね、
鎌倉城には未だ切岸の痕跡は大分残って居るし、宅地造成でも隠し切れない段差として存在し、上図を見れば確認できると考えます。
鎌倉の調査をした学者?が鎌倉自体を知らなかった。調べれば痕跡があるが、文献に頼り自らは調べなかった。
他人の本を参考に知識を蓄え「鎌倉の研究者!」という学者が大半。知識だけで自分の考えは無い。自前の調査研究をしていないのが「鎌倉を語る研究者!」と言う訳です。

古文献は鎌倉炎上で灰になる! 在る文献は幕府終焉の数十年後に書かれた太平記や梅松論で確実性に欠ける。それを根拠に鎌倉を語れば憶測の話に成る。
鎌倉の話の根拠を示せ! となると、資料が無いから議論に成らない。
結果は、
臆測であろうが間違っていようが、自説を公開すれば反論が無いから定説に成る!
定説は疑う事も無く信じ込む! 伝言ゲームとも、風評被害とも言います。
鎌倉城を調べた人は幾多も有るでしょうが、、、、、
この広さを意識して調べた人は無かった様です。
鎌倉の情報は、土地の遺構が語る部分が大半で、広すぎる遺構は調べる人が無かった!
鎌倉を世界遺産に! する価値は有るでしょうが、、、
広大な鎌倉城を自覚せずに計画を推し進めた! 
「武士の都 鎌倉」で有った様な、、武士の拠り所の戦う城の認識は無く、
世界一の要塞と言う考えも湧かなかった様で、、、 
視野の狭い学者に城遺構は無視され調査もされなかった。
スタッフの無知より生じた税金の無駄使いでした。



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鎌倉城の範囲 8

2020年07月25日 | 大鎌倉城
万里の長城は、実質防禦するだけの兵員を揃える事は出来ず、形だけの塀です。

「ギネスブック」によると、最も古くて大きい城は、プラハ城(チェコ )で、 敷地の広さは東西430メートル、南北70~140メートルで細長い形をしており、長さは約570m、平均の幅は約130mである。
 
鎌倉のこの広大さで、、、プラハ城は狭小過ぎで、比較にならない狭さです。
世界最大と考えられるのは、フビライ・ハンが北京に造った北京城と考えられます。
北京城が鎌倉城と比較に成る大きさと考える訳です。

上の図を見て、如何でしょうか鎌倉城の境界を理解できるでしょうか?
申し訳ないが、私自身がこの境界を詳細に調べた訳では無いのです。
「部分的には知っています!」 その程度の理解の仕方です。
現地を調べても、グリーンのベールに隠れたり、住宅地になったりしています。
傾斜が強い部分は黒っぽく描かれている! 山裾が黒っぽく縁取りされた地形 それが根拠です。
国土地理院の地図情報は、 10年前とは比較にならない程精度が高く、表現が豊富です。
人力でしらべる以上に 全体を把握する情報が引き出せます。
  次は、
世界最大の城の今は無い北京城と比較です。

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鎌倉城の範囲 7

2020年07月20日 | 大鎌倉城
鎌倉城の北の範囲ですが、、、土地開発が進みご覧の状態です。
大船駅から、笠間 イタチ川沿いに 上郷、朝比奈インターへ、、、
その辺りが今判別できる境界と思われます。
其れとは別に、金沢八景の海を囲む、釜利谷、能見台方面に切岸は伸びて居ます。
更に北に向かい武相トンネル上より円海山に向けた峰が金沢八景の海より侵入した元軍の防衛線に成っていると考えます。



例によって、赤は埋め立てた場所、青は山を削り取った場所です。

巨大鎌倉城はこの様に宅地造成により破壊された訳です。
さて、この鎌倉城の全体像は如何に?
その前に、世界最大の城は何処にあり、どの程度の大きさなのか??
各々調べて欲しいものです。
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鎌倉城の範囲 6

2020年07月20日 | 大鎌倉城
金沢八景の地図です。
赤いラインは、朝比奈峠を通る六浦道です。
六浦湾は、鎌倉時代の海外貿易に使用した港で在り、船で鎌倉攻撃をする時一番最初に船を乗り付けると考える場所です。
ご覧の通り半円形の切岸が六浦を囲っています。
更に海との間に切岸が在るようですが、大半は大規模宅地造成で平らにされています。

上の拡大図です。

下の図の赤い部分は埋め立て地、青い部分は切り取った造成地。

巨大な城は、この様な造成のされ方をした。
50年前に金沢八景周辺をバイクで走ると、異様に切り立った崖=切岸が目に付いた
当然宅地には邪魔な訳でして、、造成された訳です。
逆に、此れだけ造成されても見るべき切岸が広範囲に残って居る!

次回は横浜側(鎌倉の北)です。
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鎌倉城について考察の変遷

2020年07月13日 | 大鎌倉城
■■2018年09月16日 に記載■■
このブログは、、
鎌倉に関しての古代道路と、それに絡む鎌倉城の記載です。
確定したものを書いている訳ではなく、私自身の頭脳が理解し情報を積み重ねる過程を書いています。
情報次第で、理解の中身が変わる、、、過程の記録です。
日付けが古いものは、情報量が少なく、考え方も狭小です。
新しいものは資料も多くなり、考え方も範囲が広く考える事が出来ます。
とは言え、鎌倉幕府の生の記述は「鎌倉終焉」と伴に灰塵と成った訳です。
文献からの研究は限られた本「太平記」「梅松論」等が参考と成りますが詳細は不明です。
古典の中身は 著者の誇張や又聞きの記述です。 真実の情報は、鎌倉の土地に刻まれた遺構に語らせる他は無い。
 
例えば鎌倉城遺構ですが、
私の書かれた時期により、情報量と頭脳の理解範囲や視点が段々に広がっていきます。
 このブログ初期は、
頼朝が石橋山の合戦破れ千葉に逃げた時に、千葉常胤氏が
鎌倉は、要害の地で源氏の因縁が有る場所です。其処に居を構えたら如何でしょうか?」から始まります。
この時点では、源平合戦の延長である「要害の地」と考えられます。
自然の要害の地とは、書かれていません。
三方が山に囲まれもう一方は海の外部で攻め込みにくい場所=要害の地と言う意味です。
初期は、鎌倉城に障害になる巨大な官路(駅路)が鎌倉に入り込んでいた。
東山道武蔵路より相模の国に入り 海蔵寺裏の大堀切と言う切通の跡から鎌倉に入ったと考えられる。
古代東海道の西出入口は梶原団地の谷戸より化粧坂から鎌倉に入ると考えられ、東の出入り口は朝比奈峠が有ります。
平安時代は、これ等の官路は機能しており、鎌倉に官路から安易に出入り出来たと考えられます。
(当時は山には切岸は無く、自然な状態で在ったと考えられますが、、、
   現在の鎌倉山中の遺構は人工的な切岸で総て囲まれている。)
 
城にするには、この官路を塞ぐ必要が有ります。
この時点で 初期の当ブログは、、
鎌倉山中の遺構は、鎌倉の町を守る為の遺構と考えて書かれています。
鎌倉城の範囲は 七口を結ぶラインを考えて居り、このブログ初期の考え方です。
 
 このブログ中期は、
頼朝が鎌倉入りした後は、国内の反幕府勢力に対抗するために、
本来 鎌倉市内を突き抜け六浦に向かったであろう古代東海道を塞ぎ、七口を結ぶラインに防衛線を作ったであろう、、、と考えられます。
そのライン上には、東山道武蔵路の延長である相模路の大切通が海蔵寺の裏にあります。 この切通を塞ぎ土橋にした「大堀切」と称する遺構が含まれる。
この切通を塞いだ痕跡は、初期の鎌倉城を作った時の遺構と考える訳です。
同様に、古代東海道の切通を塞いだ痕跡が有る訳です!
その痕跡は疑い出すと鎌倉の西側には幾つも在ります。
古代東海道の東の出口に当たる朝比奈峠も この時期に古代東海道を鎌倉城に改造する時に手を付けなかった古代東海道の痕跡と考えられる遺構が残って居り、記載しました。
 
「いざ鎌倉!」と言う言葉が有る。
詳細は「鉢の木」と言う話に成っているが、
何故、事が起きたら先陣争いをして鎌倉に集合させたのか?
当時の城は鎌倉だけにあり、鎌倉幕府に対抗する勢力から鎌倉を守るためには、、
七口とその峰に兵を置くと関東一円の武士で守る必要が有るほど大きい城でした。
太平記に書かれ攻防の有った場所が鎌倉城と考えた訳です。
 
この時点では「元寇の考え」は全く考慮されずに書かれています。
古代東海道の遺構と考えられる梶原の谷戸から朝比奈峠より六浦に抜ける道と鎌倉城の関連を主体に考えて居た時期です。
鎌倉の城は、国内の反幕府対策で防衛の為と考えた時期です。
 
この時の矛盾は、
鎌倉市内より外へ出ようとした時に、内側にも切岸が有る矛盾!
大半の方は、建物の平地を確保する為にが崖を作ったと思うでしょうが、、、
個人の住宅では、大掛かりな土木工事はしないし、鎌倉の街を囲む山の内外が総て同じ基準で切岸状態なのです! そこから想定できるのは、
政治力で、山の内側に大掛かりな切岸を作り上げたと考える訳です。
市内に向けた切岸から、街を守るだけでは無い鎌倉城の機能が有ると感じたのです。
 
 このブログ後期には、
現地を見ても巨大過ぎる鎌倉城の実態は把握できなかったのですが、
国土地理院の地図が詳細に整備され、地図上に傾斜を表示し、赤色立体地図も使えるように成り、
樹々や建物に邪魔されない土地の表示ができるので、
本来の鎌倉の地形の全体像を理解でき、城全体が把握出来るようになった。
 
関東武士だけでは守り切れない巨大さを考えると、、、
日本武士の総力を挙げて対抗する敵は何か????
それは、外国の軍隊と言う事に成る。
この辺りから、、、
現在残る鎌倉城の遺構は、蒙古襲来が起きた事による、、、、
元寇対策の日本の総力を挙げて守る城と言う考えに成ったのです。
 
対国内の反幕府勢力に対抗する為に作られた鎌倉城は、
国外の敵に対抗する城として、作り直されたと考えられるのです。
 
 鎌倉終焉では、  新田義貞の鎌倉攻めとなります。
台峰と脇にある倉久保谷戸の砦構造が確認できる事と、鎌倉城大手と考えられる化粧坂、葛ヶ原、北鎌倉女子高校のグラウンド、水堰橋までは、台峰の上を通っている。
化粧坂に行くには大手道が唯一の侵入経路です。
化粧坂が決戦の場ではなく、この大手道を占拠する事で化粧坂に入れるのです。
古文献では、新田義貞の主力軍は化粧坂から鎌倉に攻め入る事を考えたのだが、、、
洲崎にて、鎌倉軍との戦いになった。
洲崎とは、化粧坂と柏尾川の間の土地全体を総称して洲崎と言うのです。
洲崎の戦いを終えると、次には、、、
山之内に兵を進めた!
山之内は大手道の水堰橋が有る場所で在り、瓜ヶ谷より台峰を攻撃できる場所です。
別ルートで、深沢、梶原、六本松ルートで葛原ヶ岡を攻撃できます。
葛原ヶ岡を乗り越えないと、化粧坂には行けないのです。
新田義貞の主力部隊は、化粧坂を攻めに行きましたが、、、
化粧坂の手前の葛原ヶ岡で攻防があり、これを打ち破れなかった。
決して、、、化粧坂で戦われたのでは無い。
化粧坂に攻め込む為、台峰から葛原ヶ岡に続く峰道を攻めた。 っと古文献より考える。
その後、新田義貞主力部隊は葛原ヶ岡を落とせずに稲村ケ崎を攻めた!
この様に太平記や梅松論に書かれています。
結論は、
洲崎の戦いに勝ったが、山之内から葛原ヶ岡を落とせず、、化粧坂に入れなかった。
梶原団地から葛原ヶ岡に行くルートも撃破出来なかったし、
倉久保谷戸から台峰に登る事も不可で有り、、
小袋谷の水堰橋側から台峰に登るのも不可で在り、化粧坂に行く台峰上の大手道へ入り込めない。
大手道に登れない砦構造が台峰に在った訳です。
この七口から張り出した峰が鎌倉城の戦う砦として強固で、
守る鎌倉幕府軍三万騎
攻める新田軍五十万騎
十倍以上の攻撃に台峰の砦は持ち耐える事が出来た。
、、、この戦う峰が七口に存在し、台峰は 巨大な鎌倉城の一部でしかない。
 
■■2020/07/13 記載■■
台峰の攻防も、化粧坂へ通じる鎌倉城の大手道の話であり、幕府軍は兵力が少なく 直接七口に絡まない峰には兵が配置された形跡は無い。
城が巨大過ぎて、総ての峰に兵を配置する事は出来ず、最小限の七口の守りで戦った訳です。
国土地理院の地図の性能が上がり、傾斜部分の強調が表示され、単なる等高線の表現より リアルで直感的な視覚の表現が出来る様になり、現地を見なくても切岸の存在を調べる事が出来る上に全体像を把握出来るように成った。
結果は、切岸が何処迄あるのか? を図示出来る様に成った訳です。
すると、単なる鎌倉の街を囲って守るだけの切岸では無い程の広範囲な切岸が造られている事が示される。
此れでも、、飽くまでも何処迄が城の範囲なのか?? の調査思考の途中で経過の話です。
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鎌倉城の範囲 5

2020年07月13日 | 大鎌倉城
金沢八景の前に、、
鎌倉城の範囲4 の拡大図を!
下図の海岸中央は葉山御用邸でその下の岬は長者が崎です。
画面の中央から上の切岸の為山裾が黒く成っている状態と、
中央から下の傾斜がナダラカナ山裾の違いをご覧ください。


下の図は、横須賀駅から横須賀中央駅にかけての海岸です。

これ等の境界も、宅地造成工事で不鮮明に成っているし、更に大きく作られていたのかも、、、
それでも明確に区別できる範囲の線引きです。
画面より上は、徹底して切岸が造られていますが、、、下方はマダラです。

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鎌倉城の範囲 4

2020年07月12日 | 大鎌倉城
私が城の境界と考える場所を紫ラインを引きましょう!
例によって宅地開発された場所は赤丸で囲みました。

鎌倉城と便宜上呼んでいますが、その防衛施設の性格は異色で、
総構えの城とも考えられますし、
砦が集まり都市を囲んだ要塞ともかんがえられますし、、、
城塞としては、要塞の部分が大規模で主体が要塞の様にも見えます。
城郭都市 の型をした要塞辺りが適当なのかもしれませんが、、、
この様な巨大な防禦施設を備えた城郭都市は世界を探しても、希少でしょう。
紫ラインの内側と外側の違いをご覧ください。
画像を拡大して見て下さい。
切岸としての山裾の黒さでその違いを見分ける事が出来る訳です。
鎌倉城を創り出す根拠としての「切岸」が広大であると、国内の反幕府勢力に対抗する為の城では無い事が理解できると考えられます。
何故なら、此れだけ巨大ですと、守るに兵隊の数が必要で、日本国中の兵が集まる必要が有る。
天下分け目の鎌倉幕府と新田義貞の戦いでも、七口の囲いに兵を配置するだけで目一杯で在った訳ですから!
次回は、鎌倉東の金沢八景側の鎌倉城の境界です。
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鎌倉城の範囲 3

2020年07月08日 | 大鎌倉城
鎌倉より南東の三浦方面の鎌倉城境界は何処か?
その場所を、この地図から予測して欲しいのですが、、、
傾斜を黒く強調した地図ですが、、、如何でしょうか??
そんな訳で、次回は私の考えた境界を書き加えてみます。
これ等から、何が判るか?
鎌倉幕府に敵対するのは、世界最大の広い国土と兵力を持ったフビライハンの軍隊で、どの様に迎え撃つか?
文献が一切無い鎌倉城の構成が浮かび上がり、幕府の覚悟が浮かび上がってくるわけです。
  国内の隣国との争いでは有りません!
攻めてくる敵は、韓国、中国、イラン、イラク、アフガン、モンゴル等の国力を合わせた世界最強の軍隊が押し寄せるのです。
日蓮が「国難」と叫ぶ以前に、幕府は中国渡来の禅僧より、モンゴル兵の話は聞いており、元の勅使の首を切り、覚悟を決めると、、
、、博多湾に関西の武士に20㎞に及ぶ元寇防塁を作らせた。
元寇対策は、それだけでは無く、鎌倉を攻めるであろう! っと考えるのは当然です。
関東の武士は何をして居たのか?  文献は有りません。
その遺構は鎌倉に残って居る訳ですから、文献が無いなら遺構にかたらせるのが筋です。

結果は、神風が吹いて、、日本は守られた! っと言う落ちです。
  肝心の鎌倉幕府が立てた元寇対策は歴史から忘れ去られたのです。
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鎌倉城の範囲 2

2020年07月06日 | 大鎌倉城
[鎌倉城の範囲1] の地図に境界の紫ラインを書きました。
紫の鎌倉内側が鎌倉城想定域で、外側は城外です。
その内外の違いは、
鎌倉城には、切岸が在る事が前提です。
地図に傾斜地を黒く強調させた地図ですから、山裾に在る切岸は黒い為ゲジゲジの様な山に見えます。
紫ラインの外側にもそのゲジゲジ様な場所が有り、青丸で囲っていますが、その場所は、二伝寺砦、村岡城、玉縄城の在る場所であり、切岸に相当する傾斜が人工的に作られた場所です。
紫ラインの内側にゲジゲジ様な場所が消えた場所が在ります。それは大規模な宅地造成が行われた場所で切岸は消えました。
宅地造成箇所は、赤い丸で囲みました。

鎌倉城の西側の地図ですが、この様に示せば、紫ラインの内外の差でハッキリと切岸の有無が理解できると思います。
この範囲の切岸を確認するだけで調査の範囲や距離を考えれば、個人の調査能力の限界を超える訳です。
結果は、鎌倉城の実態を知る方は今までには無かったし、調査された資料を私は知らない。
もちろん部分的な調査は有ったでしょうが、、鎌倉城の全体像を知っている人は皆無と考えて居ます。
  次回は鎌倉の東側の境界です。
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鎌倉城の範囲 1

2020年07月05日 | 大鎌倉城
通常考えられているのは、鎌倉七口を結ぶラインが鎌倉城の範囲と思われている。
そうでは無いと主張するからには、証拠が必要です。
鎌倉の城の特徴は「切岸」に在ります。
城を離れた場所は、その切岸の特徴が無い訳です。
上の地図は、国土地理院の地図に傾斜部分を黒く強調させた地図です。
右側は、鎌倉の城で、切岸は急傾斜の為 山裾は黒くなっています。
右下は江の島~七里ガ浜~稲村ケ崎~由比ヶ浜があります。
この図より鎌倉城の範囲を推定するのです。

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