鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

忘れ去られた鎌倉 山崎切通編

2009年10月16日 | 忘れ去られた鎌倉
写真は、北から南へ腰越に向け1~4まで山崎の切通しです。
私がバイクで通った時は、暗くて両側は岩壁のトンネルと勘違いした切通しです。
現在は、見てのとおりに広くて、何の感慨も湧かない道となりました。
右手は、切通し岩壁を残してありますが、、、それも、峠以南は上の老人施設を作る際オリジナルから平面的に削った様な工作をしてあります。
写真1は、右手に喫茶店があり、、崖と調和して一休みしたくなる雰囲気で、、、店主はこの地に長く住んでいる方です。それなりの疑問を投げかけると、、面白い話を返して貰える人です。
写真2は、喫茶店脇で昔の状態を維持していると思われる場所。
写真3は、上に老人施設があり、崖を削ってある峠の一番上。
写真4は、峠から下る状態です。

手広の切通しの様な時代を超えた雰囲気を、山崎切通から感じたのですが、、今は写真の状態で何も感じる事ができません。

この切通しを道とすれば、、道でしょうが、軍事目的とすれば、とても有効な堀切と考えられます。
山崎切通を堀切とすれば、、、
海蔵寺裏の大堀切は、、鎌倉市内に容易に入り込める道路!  それを塞ぐのは、
「土の橋」となる訳で、、、土の橋上からは理解できなくても、海蔵寺の裏から大堀切を眺めれば、、、土橋で塞いだ状況が観察できます。
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忘れ去られた鎌倉手広切通し編 10

2009年10月13日 | 忘れ去られた鎌倉
写真の手前は腰越方面に行く。
写真中央の電柱の後ろにある暗がりは、手広の切通し。
更にその先には女坂の登り口があり、坂を上った分女坂の峠は高い位置にある訳です。
道路際は、写真で見る様に崖です。鎌倉では当たり前に在る崖です。
当たり前に在るので、、この場所の様に土地の有効利用と気にしなかったのですが、、、
視点を変えて、
「軍事目的の城壁としての崖であった!!」そんな目で鎌倉周囲を見直すと
七口の切通しは防衛施設の一部であり、万策尽きた最終的な防御施設で言わば本丸で防衛している様なモノと考えられる。
本格的な防衛設備は、七口の外にあり、、二の丸、三の丸に相当する砦の存在が浮かんでくる。
鎌倉の周囲を徘徊し、この様な崖を散見する内に、鎌倉城は現在考えられているより「広がりを持った大規模の防御施設であった」と私は考え始めたのです。
内堀、外堀に相当するのは、多摩川での合戦が実際に有った、分配・関戸河原や、
州崎の合戦の柏尾川です。
こう考えると、、、トンデモナい広がりを持った防衛システムであったと考えるのは、、ぼ輔だけでしょうか??

思い返すに、、、山崎の切通しと言うのが有ります。江ノ島道の一部で、その先が手広の切通しとなります。
その切通しは、現在歩くと舗装され車がすれ違える幅があり、周囲は小学校や老人施設があります。
その際にカフェがあり、コーヒーを飲みながら店の人と話をすると、この道は昔荷車が一台やっと通れる道であったそうな!!
鎌倉の行政で、この切通しの片側を切り崩し道幅を広げたそうです。
話を聞き、私はとても残念に思いました。
でも、
良く考えると、、、一度通った事に気付きました。
30年以上前にバイクでネズミ捕りに出会い、停止の指示をしている警官の脇をすり抜け小袋谷山ノ内川の水堰橋(源頼朝の軍が、鎌倉に出入りする時は、ここで隊列を整え市内に入った)から脇道に入り、. トンネルの様な場所を通り異次元の世界にタイムスリップした感じを味わい深沢に出た。数年後その道を確認したいと試みたがあのトンネルの様な場所が無い!! あれは、夢であったのか???
それから数十年経ち、この時期が、行政で道幅を広げた後であったのか~!と解決できた。
道を知らずに、江ノ島道を走っていた訳です。
それにしても、、歴史があり、時代を感じ、情緒がある道を切り崩して、、なんと言う行政か???
切通し際のカフェには、文化的価値のある場所であるから「喫茶店は建てるな!」
と言ったとか、、行政で景観を壊しておきながら、市民は不許可?結局は許可になった訳ですが、、
北大路魯山人はこの切通しが気に入り、李香蘭やイサム・ノグチがほれ込んでこの地に住んだ切通しだそうです。
世界文化遺産に登録しようなんて、片腹痛い! とぼ輔は思うのです。
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忘れ去られた鎌倉 手広切通し編 9

2009年10月06日 | 忘れ去られた鎌倉

2009-10-06 記載 2024/10修正

「手広切通し編8」の場所から、振り返った写真です。
私道ではなく、これでも昔は江ノ島道と呼ばれた道です。
雪でも降ったら、路面が斜めで、、、キット下に転げ落ちる!

とても自然を感じると思いますが、、、、
決して、放置された自然ではなく住民が小まめに手入れした自然です。
放置された自然は人の侵入を拒み、日帰りの山行き程度の装備では茨が絡み、藪漕ぎでダニのお土産が付く!
人の侵入は拒まれて、、、入り込む気にはなれないでしょう。
この場所は人を受け入れる手入れされた場所です。
現在の鎌倉は、自然保護の名の下に木は生え放題!
それも、自然に生えた樹木ではなく、戦後植林によって植えられた針葉樹が半数を占める。
最悪の例は、
50年前の源氏山は見晴らしの良い鎌倉の町を見渡せる山で、その景観が源氏山公園の価値でもありました。
現在は、樹木が生え過ぎて、、、源氏山公園は緑の壁にサエギラレて見晴らしは無い!  山に登る意味の無い場所に成った。
大きくなった樹木は根を張り鎌倉の砂岩に食い込み破壊が始まり、2019年の台風で樹木は倒れ岩に食い込んだ根が岩ゴト崩れ崩壊した。
古来より鎌倉の様な里山の樹木は、住民の燃料として使われ、適度に伐採され、
人の生活と自然が調和していたのですが、、、
歴史を無視した「歪んだ自然の過保護政策」の結果です。
政治が悪いのか?住民の自然保護団体が悪いのか??
部外者には判りません!
住民にも政治にもポリシー(歴史遺産を守る為の長期戦略)があるとも思えない。

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忘れ去られた鎌倉 手広切通し編 8

2009年10月02日 | 忘れ去られた鎌倉
本当にノドカナ、、、田舎の風景です。
田舎にだって、こんな踏み跡みたいな道は、、ザラニあるもんではない。
その後ろには、歴史に裏付けされた古道があります。(画面中央の踏み跡道も街道ですが、、)
鎌倉の奥の深さですね。
あの、、桐生六郎が武蔵大路より、梶原氏の案内で腰越に向かいこの道を通ったであろう、、800年前から在ったと考えられる道です。
地形から言って、大船から腰越に抜けるにはこの場所以外に良い抜け道はないのです。
大仏から鎌倉に行けば、洒落たカフェがあるし、腰越に行けば、海を見ながらフライドチキンや、イタ飯がある!金を掛けなくても、上質な楽しみ方ができます。


2012/9/20 追記
注:『吾妻鏡』巻2 養和1年9月16日の各条
養和元年(1181)九月十六日:桐生の六郎俊綱が首を持参す。先ず武蔵大路より、使者を梶原平三が許に立て、案内を申す。而るに鎌倉中に入れられず。直に深澤を経て、腰越に向かうべきの旨これを仰せらる。
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