鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

台峰の砦1

2020年06月15日 | 切通し
新田軍は化粧坂に4 戦う砦跡 (2018年11月05日 | 大鎌倉城 )
この記事の後継と成る記事です。
 
以前紹介した長窪砦とは、軍事目的が別な砦です。
鎌倉に侵入する敵軍を、化粧坂に入り込ませない為だけではなく、戦い殺戮する為の砦です。
結果は、砦の真上=峰の道 を守る構造と考えて居ます。
 
それを実感したくても、巨大過ぎる砦は、細かく見れば全体像が全く掴めず、、
大きく見たくても、住宅地が視界を塞ぎ、宅地が無ければ樹木が砦を隠しているのが現状です。
70年前は、樹木も宅地も少く砦の構造を観察する事が出来る。
終戦直後にUSAが撮った航空写真で、実体視できるのです。
実体視写真 俗に言うステレオ写真で国土地理院のHPにあります。
年代は、1944年から1965年の間で撮られています。詳細は下記へ!
 
下の写真は、そんな1950年前後の空中写真です。赤い平場は、ワザと攻めやすく作ったトラップです。
 
>       太平記 巻第十  鎌倉合戦事
> 去程に、義貞数箇度の闘に打勝給ぬと聞へしかば、東八箇国の
> 武士共、順付事如雲霞。関戸に一日逗留有て、軍勢の着到を着
> られけるに、六十万七千余騎とぞ注せる。こゝにて此勢を三手
> に分て、各二人の大将を差副へ、三軍の帥を令司ら、其一方に
> は大館二郎宗氏を左将軍として、江田三郎行義を右将軍とす。
> 其勢総て十万余騎、極楽寺の切通へぞ向はれける。一方には堀
> 口三郎貞満を上将軍とし、大嶋讚岐守々之を裨将軍として、
> 其勢都合十万余騎、巨福呂坂へ指向らる。其一方には、新田義
> 貞・義助、諸将の命を司て、堀口・山名・岩松・大井田・桃井
> ・里見・鳥山・額田・一井・羽川以下の一族達を前後左右に囲
> せて、其勢五十万七千余騎、粧坂よりぞ被寄ける。
 
    対する鎌倉幕府は、
> 義貞の兵三方より寄と聞へければ、鎌倉にも相摸左馬助高成・
> 城式部大輔景氏・丹波左近太夫将監時守を大将として、三手に
> 分てぞ防ける。其一方には金沢越後左近太夫将監を差副て、安
> 房・上総・下野の三万余騎にて粧坂を堅めたり。 一方には大
> 仏陸奥守貞直を大将として、甲斐・信濃・伊豆・駿河の勢を相
> 随へて、五万余騎、極楽寺の切通を堅めたり。一方には赤橋前
> 相摸守盛時を大将として、武蔵・相摸・出羽・奥州の勢六万
> 騎にて、州崎の敵に被向。此外末々の平氏八十余人、国々の兵
> 十万騎をば、弱からん方へ可向とて、鎌倉中に被残たり。
 
  上記太平記より、
新田義貞主力軍は、五十万七千余騎、粧坂よりぞ被寄ける。 
 注釈:義貞主力軍は現神戸製鋼所より柏尾川に橋を架け「粧坂」に向け進軍した。(ぼ輔記) 
鎌倉軍は三万余騎にて粧坂を堅めたり。
 注釈:鎌倉軍は、現化粧坂に通じる葛原ヶ岡や台峰に兵を配備した。(ぼ輔記) 
六万余騎にて、州崎の敵に被向。
 注釈:更に、「粧坂」に向け進軍する新田軍を 阻止する為に鎌倉軍は洲崎に向かった。 (ぼ輔記) 
 
    幕府軍は、州崎の義貞の兵に敗れたので、、、
> 「大将已に御自害ある上は士卒誰れが為に命を可惜。いでさらば御伴申さん。」とて、
> 続て腹を切ければ、同志の侍九十余人、上が上に重り伏て、腹をぞ切たりける。さて
> こそ十八日の晩程に州崎一番に破れて、義貞の官軍は山内まで入にけり。
 注釈:粧坂を目指す義貞の官軍は、洲崎の戦いに勝利し、
   「義貞の官軍は山内まで入にけり。」
    粧坂に向かう新田軍は、台峰の下に軍を配置した = 「山内まで入にけり」と言う文です。(ぼ輔記) 
 
>『梅松論』16   新田義貞の鎌倉攻め 
> 陸奥守貞通(=北条氏)は中の道の大将として葛原において相戦ひ、
 注釈:梅松論では「葛原において相戦ひ、」とあり、化粧坂で戦った文は無い。 (ぼ輔記)
 注釈:義貞の官軍は「粧坂」を目指した! しかし粧坂には攻め込めず、稲村の攻撃に変えた。 (ぼ輔記)
 注釈:陸奥守貞通は「中の道」を守る意味は、粧坂、葛原ヶ岡、台峰,堰橋迄の台峰道を守ると考える。(ぼ輔記)
 
結論は 「粧坂」の戦いは無く、戦った場所は山之内、台峰、葛原と記述されている。
太平記の《其勢五十万七千余騎、粧坂よりぞ被寄ける。》を化粧坂にて戦ったと誤解した訳と推測できる
粧坂で戦いが有ったと書かれた成書が大半ですが、何を根拠にしたのか?
明治時代に、鎌倉町青年団が建てた根拠不明な石碑文に由来するものと考えられるが、、、
自分では考えず、碑文参考の研究書が大半と考えて居ます。(碑が立派だから信用した?)
 
    「化粧坂碑文」
 假粧坂
化粧坂又ハ形勢坂ニ作ル此名称ハ往時平家ノ大将ヲ討取リ其首ヲ化粧シテ実験ニ備ヘシニ拠リ起ルト言ヒ又一説ニハ古此坂ノ麓ニ遊里アリシニ拠リ此名ヲ負フト相伝フルモ東鑑ニハ其名見エズ此坂ハ所謂鎌倉七口ノ一ニシテ鎌倉攻防ノ要路ニ当リ元弘三年五月新田義貞軍ノ鎌倉討入リ以来屡々戦場トナレル所ナリ
              昭和十五年三月建  鎌倉町青年団 
    上記の碑文が誤解の基に成った訳です。(ぼ輔)
 
次のテーマは台峰砦の構造です。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

倉久保谷戸3

2020年06月14日 | 切通し
コメントより、
〉恐らく   (坂)さん
〉逆三角の地形は日当公園付近一帯と思われます。
〉下記リンク先の「山崎・台峯緑地」の全体設計図で、
〉「源流の森と里山の保全ゾーン」と書かれた所の下あたりです。
〈https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/koen/documents/dai-kihonsekkei03sekkei_04zentai.pdf 〉

コロナ騒動の中を倉久保谷戸に行きました。
基本は2019暮の台風により、谷戸は通り抜け不可となり、新しく車が入る道迄整備されており、
この谷戸も宅地に成るのか? っと思ったらこの情報でホッとしました。
(坂)さん ありがとうございます。
祝! 山崎・台峯緑地

倉久保に在った土塁の場所は、今どの様に成っているでしょうか?特定しましょう!
下は1960年代の写真です。

下は、1990年代の写真を重ねていきます。

土塁の最下端が残って居るのが判るでしょうか?

驚いた事に、
土塁の最下端が残って居たようです。
残念ながら、私有地の後ろ崖の様ですね!
その上は、日当公園に成っている場所です。  (坂)さんの話と同じです。
これ以上は、素人の手出し無用の場所です。
この下を掘れば、武蔵大路の硬化面が出るのでは?なんて期待するのですが、、
国土地理院 下記の地図を使用。
〈https://maps.gsi.go.jp/?hc=h#17/35.327017/139.539746/&base=ort&ls=ort%7Cslopemap%2C0.5%7Cort_old10%2C0.82%7Cort_USA10&blend=000&disp=1110&lcd=ort_USA10&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f0&d=m&reliefdata=00G2DB4B4G5GABABABGAGB6DBADG14G83CC72G1EG5BCF5FG28G4FA831G32G268500G3CG5D8F7EG46G24737DG50G033180G5AG100975G64G5C466EGG57015C〉

古道の硬化面としては、
化粧坂上の頼朝像周囲に硬化面が良い状態で有り、化粧坂の下段にも硬化面が見られましたが、現在は、非常に荒れています。
そして、2020年に朝比奈に行くと、嵐で朝比奈峠は通行止め!
でしたが、、
太刀洗の少し上で、朝比奈峠道にも硬化面が有ったのです。
問題は、何時、誰がこの舗装を作ったのでしょうか?
道路舗装等、近代の工法でコンクリートでもアスファルトでも50年と持ちません。
其れこそ、世界遺産や、文化遺産の価値が有る遺構じゃないかと思うのですが、、、
明治からの話なら100年使用に耐えた道路舗装です。
鎌倉時代からなら、、800年!現役で使い続けられたという意味で文化資産の価値が有る。
石畳じゃなくて、人工的な硬化面です!
ギネスに載るかも!!

話はそれましたが、、倉久保から台峰は、もう一つ砦としての視点を誰も語りません!
化粧坂に続く台峰は新田義貞が主力部隊で攻めても落とせなかった場所!
本当にに強固な砦で有ったのか??? 疑問に思いませんか?
その疑問は、現地を調べれば解る事。
山崎・台峯緑地 と成れば何時でも検証できるのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

実体視練習

2020年06月12日 | 大鎌倉城
実体視練習
速い話がステレオ写真です。
その扱い方のHPが 国土地理院HP にあります。前回は国土地理院 「地図を立体視する 」でしたが、
これは、空中写真の立体視です。(同様な見方なんですがね、、、)
宅地や、自然放置の森林により鎌倉城の実態が隠されてしまった。
70年間の自然放置が鎌倉城をどれだけ判りにくくしているか??

戦後間もない時にUSAにより、空中写真が撮影され70年前の実態映像が見られるのです。
是非 実体視を習得し異次元の鎌倉を体験してください。
倉久保谷戸2の空中写真は、1946年(昭和21年)の写真です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

倉久保谷戸2

2020年06月08日 | 切通し
国土地理院蔵の1946年USA空中写真を使用したステレオ写真です。
赤丸の間を7㎝以下にして閲覧してください。
詳細は国土地理院 「地図を立体視する 」をご覧ください。
https://teikokushoin.co.jp/journals/geography/pdf/200604/geography200604-01-04.pdf

この場所は1960年代の宅地造成で地形が変わりました。
更に 2020年に倉久保谷戸は、台峰を含み大手宅地造成の手が入り始めた。
消失するのは、時間の問題でしょうね、、、
「住民は鎌倉に城は無い!」と講習会で吹き込まれ、この様な場所は価値の無い場所と考えられているのでしょうね、、、
広町緑地の様には成って欲しいが、無理でしょう。

この、逆三角の堤防様な構造物は、土塁に相当するモノと考えて居ます。
軍事的には、巨大道路は守備に不利となる為、道路を塞ぐ土塁です。
突破したい敵を迎え撃つために、侵入を拒絶するのでななく「勢いで攻め込めるかな?」っと敵に思わせる場所!
その場所で有利に侵入者を殺す! そんな構造の戦う場所造りがしてある。
結果は、目前の守備兵を排除して攻め込んだ先は、断崖絶壁で鎌倉に入り込めない。

この特徴は、他の場所と共通点があります。
一、海蔵寺裏の大堀切!
二、北鎌倉女子グラウンド!
三、今回の梶原遺構!
 これ等は同じパターンで巨大道路を土砂で塞いだと考えられる外見です。
これ等の塞いだ場所は、土橋となり通行していた様です。

倉久保谷戸は武蔵の府中、野津田、座間の星谷寺、藤沢日大を通る武蔵大路を想定する経路です。
今の谷戸に入ると、出口が無い!その代わりに、、、
土砂で塞いだ痕跡が、この逆三角の土塁と考える訳です。
この土塁は、梶原団地の造成された何処の場所なのか?
現在の場所を 特定しようと考えると、、、
意外なモノが!! 

洲崎、倉久保谷戸、武蔵路の関係。
> 梅松論 第16
> 武蔵路は相摸守守時(=赤橋氏)、すさき千代塚において合戦を致しける
この当時の洲崎の範囲は、柏尾川、古代東海道と青いライン、台峰の内側とすれば、矛盾は無い。
新田軍主力部隊が化粧坂を攻める事と、洲崎で戦った事は、全く同じ事を意味する訳です。
更に、相摸守守時が幕府に指示された「武蔵路の守備」を命じられた事と 倉久保谷戸へ新田軍を入らせない為に、相摸守守時(=赤橋氏)が洲崎に向かい戦った事は、同じ事である。
相摸守を打ち負かした新田軍の次の行動は「山内に入った」と書かれている。
幕府軍が負けて、武蔵路(倉久保谷戸)を明け渡し、新田軍は台峰(化粧坂より続く鎌倉城の大手道)を北と南で挟み撃ちを出来る状態に成った。
台峰の南は、倉久保谷戸(武蔵路)であり、北は山内で鎌倉城大手道の堰橋より、北鎌倉の瓜ヶ谷に入る場所です。
 台峰(化粧坂より続く鎌倉城の大手道)を攻撃する下準備ができたと文献から読み取れます。
挟み撃ちにしても、化粧坂に続く台峰を落とす事が出来なかった!
その理由は、戦う砦として完璧であったのがその理由です。
その構造を今なら確認できます。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

倉久保谷戸1

2020年06月06日 | 切通し
この地図は、
   東山道相模路 11 (2012/12/21)  東山道~鎌倉
に使用した地図の使いまわしです。
注目点は、倉久保谷戸の奥で×印の有る場所、、、行き止まりに成っている訳です。
これが鎌倉時代に使われた武蔵大路の痕跡と想定する場所です。
武蔵大路と言っても、鎌倉幕府以前の東山道相模路が海蔵寺裏の大堀切として有りましたが、その後継の座間の星谷寺を通る武蔵大路は、倉久保谷戸を通ると考えられるが、×印で行き止まりとなる訳です。
問題は×印の先にある 赤丸の場所です。

下の写真は、国土地理院の立体地図に1960年代の写真を張り付けたモノです。
赤丸の中に映し出された逆三角の堤防状構造物が問題の場所です。
幾何学的な形と、同じ角度の斜面で人工的な構造物と考えます。
この存在理由は何でしょうか?
これが、事の始まりです。

鎌倉面は断崖絶壁で、 外に向かってナダラカです。
1960年代に梶原団地は造成が始まりその途中の写真で、本来平面な空中写真が、この様に立体的に表現できるように成ったのが、今の国土地理院地図です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする