■ 記 2011年01月31日 稲村ガ崎の戦い 7
霊山(りょうぜん)霊仙山
「梅松論」では、
> 五月十八日の未刻ばかりに(=午後二時頃)義貞の勢は稲村崎を経て前
> 浜の在家を焼き払ふ煙見えければ、鎌倉中の騒ぎ手足を置く所なく、あ
> はてふためきける有様たとへていはんかたぞなき。
> 高時の家人諏訪・長崎以下の輩命を捨て防ぎ戦ける程に、当日の浜の手
> の大将大館(=宗氏)稲瀬川において討取らる。その手引退て霊山の頂
> に陳を取る。
さて、これが問題です。
「その手引退て霊山の頂に陣を取」をどの様に解釈するか?
・・・・・・霊仙山、つまり仏法寺遺構の頂きに大館宗氏の軍勢は陣を構えた。・・・・・・
この事が可能か??
状況を考えると、大将大館を討ち取られ敗走し、最後は稲村ヶ崎駅近くの十一人塚に埋葬された軍が 、霊仙山の仏法寺に陣を構えた鎌倉軍を追い払い占拠できるのか??
砦を構えた軍を破るには、その数倍の兵力を必要と考えるからそれは、無理な話です。
「仏法寺の頂きに大館軍勢は陣を構えた」と解釈したら、敗走する大館軍が仏法寺の鎌倉軍を攻めて壊滅させた、、、など無理な話と私は考えるのです。
『有鄰』平成15年9月10日 第430号 P3
> ・・・・・・・前略・・・・・
> その後19日、20日、21日とすさまじい攻防戦があったことが、軍忠状の
> 中でも明らかにされております。5月21日に鎌倉方が霊山寺(仏法寺)の
> 大門に引きこもり、新田軍に散々矢を射たので、なかなか破ることはで
> きなかったけれど、三木俊連が自ら峯を駆けおりて、多分奇襲戦法でも
> したのか、それで大門を打ち破って、さらに霊山寺の峯を攻め登る。
> そういう中で夜中まで戦いが続いたと書かれています。
> ・・・・・・・後略・・・・・
ぼ輔は、軍忠状を妄信するのですが、鎌倉方が霊山寺の大門にて陣を張った状況が伝わります。
仏法寺(霊山寺)に大門が存在し、その場所は「稲村路を攻撃できる場所である。」
事が判ります。
三木俊連が峯を駆けおり大門を打ち破った、さらに仏法寺の峯を攻め登った。
と有ります。これから考えられる事は、
①大門は、仏法寺より低い場所に在り、弓矢で下を通る人を狙い撃ちできた。
②三木俊連は、仏法寺の峯とは別の高み(峰)から駆け下りて大門を攻撃し落とした。
③その後仏法寺に攻め登り、霊山(霊仙)の頂きに向かう。
④大門や仏法寺は、数万の新田軍を迎え撃つべく、準備された陣地であり、極楽寺
坂を通る新田軍を挟み撃ちにする為の重要拠点と考えられる。
この様に強固な守備の鎌倉軍に対し、、大将大館宗氏を討ち取られ敗走する兵に
仏法寺の幕府陣地を破り居座る力は無いと断言できますね。
◆酔石亭主「新田義貞鎌倉攻めの謎を解く その3」「その4」
にそのヒントがあります。
それは、霊仙山を、仏法寺の在る峯と霊仙ヶ崎の在る峯に分けて考えるべきである。
それは、両方ともに霊仙山。
そう主張されているのです。
そう考えると、見えて来るものがあります。
鎌倉勢が重視したのは、仏法寺とその大門が有る霊仙山2であった。
大館宗氏が稲瀬川で討ち取られ退却しながら陣を構えたのは霊仙ヶ崎の頂であり、
三木俊連が大門を攻撃したのは、この霊仙ヶ崎頂上から駆け下りた!
この霊仙ヶ崎の頂は霊仙山1と考えるのです。
仏法寺の大門が有った場所は、③にしたい所ですが、、
所詮、、古来の歴史のある道とは違う現代の道です。③にある平場は近世に造られた場所と想像しています。
では、大門のあった場所は??
霊仙山の東の海に面した斜面で、下には稲村路がある場所。
仏法寺を参詣する道即稲村路を上から攻撃できる平場と考えるのです。
実線のピンクラインは、ぼ輔が実際に歩いた場所で、大門の在った場所はピンクの点線であろうと考えています。
理由は、実線部分では、下の波打ち際までは距離があり、弓矢で狙い撃ちが出来ない事にあります。
その様な訳で、ガードレールの道に沿って参道が在り、その延長の何処かに山門が在ったと考えています。
コメント
和泉和田荘の三木一党。 (三品)
2011-02-05 13:23:19
少し面白い参考文献を見つけました。
奥富敬之、奥富雅子著、「一度は歩きたい 鎌倉史跡散歩」、
人物往来社、2010年9月のP278からの第五章に、
以下が書かれています。
1 霊山を守った北条方は、甲州・信濃の山国育ちの兵である。
2 稲村路沖を守ったのは、伊豆・駿河の兵を載せた軍船である。
(P285-286)
ということは、大仏貞直が引いた兵は、鎌倉育ちではないのです。
3 軍忠状が残る「和田系図裏書」の「和田系図」は、金剛領
和泉和田荘(堺市和田)の惣下司職の和田氏の系図である。
4 新田方で、霊山攻略に参加した、三木俊連一党は、和泉和
田荘から援軍に駆け付けた。
5 そこには、大塔宮護良親王の采配が働いていた。
(P313-316)
ということは、霊山を攻略したのは、赤坂・千早城で旗揚げし
た楠正成との関係が深い
一党が、鎌倉攻めに参加していたことを意味しています。
つまり、鎌倉を舞台にして、鎌倉育ちではない軍兵が戦っていたことになります。
なお、軍忠状の現代語訳も載っています。(P314)
Unknown (三品)
2011-02-05 13:34:32
以下がその軍忠状です。
五月二一日(元弘三)、敵霊山寺の大門に引
き籠り、大手(稲村崎)の軍勢を散々に射る
の間、打ち入り難きの処、俊連峰より折(降)
下って先懸し、まず敵の籠る大門を打破し、
数輩疵を被るといえども、身命を捨てて戦う
の間、朝敵を追落しおわんぬ。
また、俊連霊山寺の峰に責(攻)め上り、夜
闇に及びて戦うの処、また若党奥富兵衛三郎俊家
(右肩の上を射らる)、疵を被る。
三木一党 (ぼ輔)
2011-02-14 21:26:03
守る兵士の出処まで判っているのですか!
それと、三木一党の活躍の状況など、、、
太平記や、梅松論には出てコナイ話ですね。
取りあえずは、ぼ輔の解釈の切り口ですが、
これ等の事を踏まえて別な解釈は出来ないものでしょうか?
Unknown (三品)
2011-02-15 23:16:19
>これ等の事を踏まえて別な解釈は出来ないものでしょうか?
想像はできるのですが、それでは、創作の世界になってしまいます。
もう一つ見落とせないことは、新田義貞が鎌倉を攻めたのは、
足利高氏が六波羅探題を攻め落としてから、半月以上たってい
ることです。近畿の三木一党が鎌倉攻めに参加したということ
は、西方から鎌倉までの街道を、後醍醐天皇側がおさえている
ことを意味します。
後醍醐天皇の意志 (ぼ輔)
2011-02-17 10:19:33
六波羅探題を攻め落す以前は、鎌倉側の力が強く、街道筋を
反幕府の兵員を動かせなかった状況だと、言う事ですね!
後醍醐天皇の意志と足利高氏の行動、都の変化と勅命を受けた
新田義貞の動きが連動した状態を調べる事が出来ました。
文献は必要最低限の知識に留め、現実の遺構を見る事から疑問
を感じ調べる手法を取っているので、意外と歴史に弱い!!
この様な書き込みが無いと、、、文献調べは後回しになります。
ありがとうございます。
■ 記 2011年02月07日 稲村ガ崎の戦い 8
踏み跡は不鮮明! コースの行き先表示は一切無い。間違えれば降りるに困難な崖!
夏は緑が生い茂り、周囲がサエギラレル状態が想像できます。
木にはポリテープが散見し、これを信用するのは不可。霊仙山不案内の人が帰り道の為の目印。
歩ける場所は、峰の最上部ノミで例外は仏法寺の参道に当たる場所です。行動は総て自己責任の山道です。
北里柴三郎と細菌学者コッホの碑がある霊仙山の頂上から100m先の峰の上から海側を見ると下に平地が在ります。これが仏法寺遺構です。
仏法寺遺構に降り立ち、海側の崖を覗くと、、寺の参道の在ったと考える跡があります。
急激な崖ではなく、歩いて降りられる坂です。
写真の赤い矢印へ降りて行くのです。
幕府終焉後、バリケードで通行不能の極楽寺坂を迂回する為にこの参道の一部が使われたと想像しますが、、、
それも成就院と仏法寺間の関東大震災で崩壊の為か、、この道の痕跡は確認できない。
① 白いガードレールの道に下り稲村ヶ崎へ向かう道が戦後の写真に残っています。
現在は、白いガードレール道は崩落防止ネットが造られ、ネットに阻まれ通行不可能です。
② 石碑「東洋平和発祥之地 頭山満」亡命した中国革命の孫文が、この地の義烈荘に滞在した記念碑。その脇を登れたのですが、、現在は登り口が私有地となり通行不可です。
私有地の前に「新田公遺蹟陣鐘山之碑」※注 と李烈鈞の「黒光庵」碑がある。この碑の直上に「東洋平和発祥之地」の碑が有り、更に高みを目指して登ると霊仙山だが登り口は無い。
③ 成就院の墓地奥から登れる話があります、、、「仏法寺に行きませんか?1」の登り口を指すのでしょうか?っとすれば極楽寺駅前ですね。ぼ輔の知る登り口はこれ一つだけです。
通常のハイキングコースに比べると「本当に道か?」と 言う踏み跡程度で峰筋が頼りの道です。
逆を言えば、峰筋以外は崖です。例外として、仏法寺の参道に当たる場所が歩けますが、落石防止ネットで通行不可! 引返す事を覚悟してください。
山頂周辺は鹿島建設がナショナルトラストに寄贈という未確認情報です。
その様な訳で、以前は幾つかの出入り口が有ったようですが、現在安心して歩けるのは極楽寺駅より入る道だけの様です。
※注 「新田公遺蹟陣鐘山之碑」が此処に有るのは不自然です、、、
昔の検証が半端な雑学で書かれたモノか?ハタマタ陣鐘の峰から移設されたか??と解釈しています、これが又誤解の種と成るんでしょうね! (義烈荘跡地です。)
コメント
Unknown (三品)
2011-02-12 00:11:32
道を教わったので、今度、行ってみます。
霊仙山登り口。 (ぼ輔)
2011-02-14 21:44:53
義烈荘跡地の「新田公遺蹟陣鐘山之碑」が有る場所から、霊仙山に登れたレポートが2011年に出ていますが、私有地の塀が出来上がり、通れなくなっています。
現在は、極楽寺駅前の墓地より入るつルートが一つ在るだけです。
他にご存知の方が居られならば、是非レポートを頂きたく、お願いします。