素人とプロの違いですが、、、
プロとは、それが仕事で金を貰っている人です。
生活が出来る程金になるか否かは別です。
素人とは、それをやる事で金ばかり掛かる、、、持ち出しですね!
だから、素人は興味の湧くことをやれば良い。
金に係わる責任はありません。
私の今の古代駅路、官路の興味も金には成りません。
只、タダ面白い!
宝探し的な面白さです。
自分の考えた事に対して、巨大な遺構が証明してくれるのです。
それも、道路遺構の作られた時代は大化の改新以降から奈良時代に特定され、他の時代には造られなかった。
そんな時代考証が楽な事もあります。
平地は、住宅になり 畑になり 痕跡は消失し堀返さなくては見付けられない。
これでは、素人は手が出ない。
しかし、台地から川に降りる急な処は切り通しが残ります。
これは、素人でも調査が可能!! プロだって条件は同じ。
物の見方や考え方でプロを出し抜こう!!!
これが、このblogのコンセプトです。
プロよりも もっと自由な発想で楽しむ余地がある。
間違った事を書いても、、、
間違えを訂正すれば良いでしょう、、、
素人の気楽さですね!
地図を見て 目星を付けたら現地を見る。
自分の思った通りの遺構が有るか?
見付けたら、それで満足!
それ以上のレポートなど誰かに向かって報告する義務などありません!
そんなズサンサが素人の素人らしいとこです。
確証なんて、、不要! 自分が納得すれば良い!
そんな訳で、 このblogを見て損害を受けた人が居ても、責任をとりません。
事実を基に、、作り話をしている様な物です。
プロのコメント、素人の初歩の質問等、、、気楽に書いてください。
以上の事で、、、素人を自認しています。
素人と、玄人 後編 2018/3/23記
鎌倉時代の、鎌倉幕府に関する歴史解明の困難さ!
それは、
鎌倉滅亡の戦火に書類は焼かれ、建物は焼かれ、、、
それを裏付ける文献が限られる。
太平記、梅松論、東鑑、十六夜日記、玉葉、などの限られた文献です。
もう一つは、
鎌倉の地形に関して、
武家の鎌倉の象徴の「鎌倉城郭遺構」が絶望的に調査不足で在り、
調べれば理解できる事を、調べずに鎌倉城を語られる。
この城の広さは、日本一で、あまりの広大さに全容を調査した資料が無い。
世界でも有数な広大な城跡ですが、東西8㎞南北6㎞の城って世界に幾つ有るでしょうか? 万里の長城の他は??
南京城や北京城等が有りますが、それ以外には?
何故なら鎌倉城を作った目的は、
世界一広大なモンゴル帝国が西に向け進攻すると無敵で東欧まで掌握した。
それが、
東に方向を変え、小さな島国を大艦隊で攻め込む話が元寇(蒙古襲来)です。
総国力を挙げて迎え打つ城として鎌倉城を作り変えたと考えられる。
地方の領主が建てた城とは,規模や考えその物が国際的に違うのです。
それが、視野の狭い城郭専門の人が理解できない根本だと考えられるのです。
世界最大のモンゴル帝国に対抗して
小国の鎌倉幕府が真っ向勝負を挑んだ!
文献が無い??
文献が無ければ現地の遺構に語らせればよい。
鎌倉城の研究成果を既成本から見ると、
学術的には、結論を導き出すには資料不足であり、それでも結語を出せば、憶測で語る結果となります。
それ以前に城の縄張りの範囲は?? それすら城郭研究者の思慮の範囲外で有った訳です。
良くて、七口を結んだ範囲が鎌倉城と言うのが定番ですが、その範囲を優に超えています。
何故現状を調査しないのか?調査範囲が広大過ぎる為、巨大さゆえに、単なる山に見え全体の関連が判らない為、全容を調べた研究書は無い。
埋蔵文化財の発掘が専門の方も居るようで、、切岸の調査など専門外の様ですね、
しかし、、
鎌倉の城郭遺構は、切岸や地形の表に出た場所ですから、、素人でも調べれば解る。
自然保護の名目で、民間人が管理された山は今は無く、樹木は伸び放題で、本来の砦遺構は樹木に隠されて判らなくなっている。
明治の鎌倉の山は写真で幾らも在り、見れば山の木はまばらで、管理されている様子が見えます。
鎌倉城の研究は、遺構調査をされていません。
古典文献は理解不足(私も似てますが、)遺構は調べないで、、研究発表は中身が薄いですよね、、、
私のこのHPを書く背景は、東山道相模路と古代東海道の痕跡を探すブログでしたが、、、
鎌倉城の城壁に古代駅路が寸断された事から、鎌倉城を考察せざるを得なく成った訳です。
その様な訳で、資料不足を承知でこのHPを書いています。
「コメントより 3」 2017年02月09日
等も、このブログの罵倒コメント(素朴な疑問さん)より刺激を受けて書かれた訳で、、
由比ヶ浜に元寇対策と考えられる防御壁が在った事を自覚した次第です。
所詮、、専門家とは別な、、
ド素人の書いたものですが、、、
不備な処を「いちゃもん、罵声、クレーム」等コメント頂ければ、喜んで対応します。
修正:2018.9
元寇は、鎌倉幕府に遠く離れた地方の出来事ではなく、、
鎌倉に外国の軍隊が攻め込んで来る! そんな緊急で危機感の有る話なのです。
鎌倉に元の軍隊が押し寄せる!、、、幕府は如何に対処したのか!!
その様な「当たり前の想定」に対して、歴史書は何も答えが無い。
1276年、鎌倉幕府は博多湾に石塁を築くよう命じた
元の勅使を斬首して半年後です。
石塁を築いたのは、関西の武士で作り上げた。関東の武士の話は無い。
関東の武士は、この非常時に何をやっていたのか?歴史書も古文献にも答えは無い。
鎌倉現地を観察すれば、巨大な元寇対策と思える要塞が存在する。
外国からの脅威は鎌倉以前にもあり、
663年に白村江の敗戦後、唐の侵攻対策に大宰府を守る水城を作った。
博多湾の対中国防衛のため全国から兵を集めて常駐させたのを防人と言う。
防人に関しては「万葉集」に痕跡を認め900年頃まで存続した様である。
667年、防衛上の為、飛鳥の宮都から近江大津宮に遷都をしたそうである。
博多湾や大宰府だけの問題ではなく、大和朝廷を揺るがす問題でした。
言葉を変えると、
博多湾や大宰府だけの問題ではなく、鎌倉幕府を揺るがす問題です。
実際に中国から大群が押し寄せたのです。
1度目の蒙古襲来文である文永の役の翌年に
元の使節5人は山口県下関市に上陸。一行は捕えられ大宰府から鎌倉へ護送された。
1275年9月27日、執権北条時宗は元使一行を竜ノ口(龍口寺)にて斬首。
遺体は、龍口寺の裏の常立寺へ葬られ、元使塚が作られている。
常立寺 元使塚、 現在も白鳳、朝青龍らモンゴル力士が毎年参拝に来る。
杜世忠らの供養搭。五輪塔には、モンゴルで「英雄」を意味する青い布が巻かれている。
1280年 合浦から出撃した東路軍4万と、明州から出撃した江南軍10万が、壱岐で合流して日本に侵攻するという作戦が決定となる。
九条兼実の「玉葉」において鎌倉城という表現があるが、
『兼実が現地鎌倉の様子を知るはずもなく、玉葉をよく読んでみると都城という意味で使用している』。そんな解釈をした方が居ます。
根拠として確実ではなく「私はそう思う。」と言う曖昧な考えです。
そんな曖昧な根拠で「鎌倉には城が無い!」っと成った訳です。
精神的な安らぎを得る為に城を作ったと主張されているが、、、大間違いでしょ??
文献に頼った研究発表が通用する事態でなく、現に中国から船団が押し寄せ武士を水城まで追い詰める武力を示した!
それに対し、中国に白旗を振るか?徹底抗戦にするのか??
その選択を迫られたのが鎌倉幕府です。
日蓮が、鎌倉幕府に対し『法華経を帰依せず、邪宗を信仰すれば、国難が生じて国が滅ぶ!』と精神論を展開した。
結果は、
南宋より招いた道隆から元の情報を得て元寇対策を行った。
日蓮の「国難が生じて国が滅ぶ」と言う主張は崩れ去り、神風が吹いて元寇の軍団は海に飲まれ消滅した。
神風が吹いたとは言え、精神論では元寇には立ち迎うのは困難と言う訳です。
地方の謀反に対して、幕府が行ったことは、
参勤交代や「出女入り鉄砲」の関所を作り交通を制限したり、
川に橋脚を造らない、道を狭くする等の軍事目的が在った訳です。
結果として
家康の遺訓『家康公御遺言百箇条』の 大海道 6間(約10.8m)等は、
お家の安泰が優先され、 完全に無視された訳です。
品川宿では、3間程となり、藤沢宿では道幅3間或は5間(広小路)と【相模国風土記稿】に書かれており、宿場は3間の幅が確認できる。
結果は この宿場の道幅3間幅は幕府指定の小海道の道幅と思われる。
宿場を離れたら、馬道2間(約3.6m)と言うのも有りそうです。
少なくとも、東海道五十三次の浮世絵は、2間幅に書かれています。
東京や神奈川県内は、江戸の痕跡は総て明治の時代に拡張済と考えられる。
拡張されなくても、権太坂では、一部は民間に払い下げたそうで、
藤沢遊行寺坂の道は江戸東海道は売られて痕跡すら無い!
よって、証明は困難と思えるのですが、、、、
明治元年(1868年)から起算して満150年
江戸東海道は、明治になり道路拡張と整備が行われた。
どの様に変化をしたのか? その経過は、、
神奈川県大磯町に 化粧坂と称する場所が有る。
現在は国道一号となっております。
同様に明治の時代です。
右画面端に高麗山が写っています。
ほぼ同じ場所を想定しています。
同じ明治時期の大磯町化粧坂の写真ですが、、、
同じ道ですが、道の傍がキレイなラインに成っており、整備された状態がご理解いただけますか??
これは、国道一号から外れて、取り残された化粧坂の現代です。ほぼ上の写真の道幅と同様に思います。
更に古いと考えられる写真が有ります。
この様で、上の写真と下の写真を比べて如何でしょうか??
人の背丈とから推定し2間程の道幅と、道の傍がクッキリしてない事から江戸東海道を拡張する前の道幅と考えます。
私には下の写真(2間幅の道)に近い道幅と思えます。(誘導の文ですね!)
この様に
150年の間に道は変化した訳です。
最後に、
道幅は2間です! と言う宿場町が有ります。
これは、関宿の画像ですが、、、
静岡の白須賀宿他、、色々な場所で、狭い東海道が存在します。
その様な訳で、江戸東海道は一貫性が無い事と、
明治政府が国策として拡張した事で、根拠を出しにくい為、、
結論を出す気は無いのです。
東海道の道幅に疑問の方は、これ等を参考に調査をしてください。
これ等は、議論の余地は無く 根拠を如何に多く出して納得させるか!
っと言う事項です。
議論している間は、根拠も曖昧で資料も少なく憶測が入る余地が有る!
キリが無いのでこの辺りで一区切りです。
謝辞
コメントに力を借りて、、ココまで書きました!