鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

東山道相模路 11

2012年12月21日 | 東山道~鎌倉
続、東山道相模路の巻 終り
「鎌倉軍は武蔵路を守る為天神山に陣を張った。」
「新田軍は化粧坂を攻める為に、州崎(天神山)を攻めた。」
これは、何を暗示しているのでしょう?

取りあえず、古代駅路の痕跡と考えられる場所を、図で示しました。
一、武蔵大路1のライン(赤)です
二、武蔵大路2のライン(暗赤)です。
三、東海道のライン(青)です。
これらのラインは、✖印の処で道の痕跡は消えるのです。

天神山を守る理由は、武蔵大路2の防衛の為と考えるのです。
それは、鎌倉時代に言われた武蔵大路はこの「武蔵大路2」である根拠です。

全体を見てみましょう。

■武蔵大路1は、初期の武蔵大路、、、と言うよりは東山道武蔵路(東山道相模路)と言い換えた道の痕跡であり、海蔵寺裏の大堀切(武蔵大路切通)へ抜けたと考えられます。
■武蔵大路2は、平安時代より鎌倉時代初期まで、使われた考えられる道で、奥州古道と名前を変え、町田の野津田を通り、座間の星谷寺から海老名國分寺より水道伝路と呼ばれる藤沢を通る道です。
初期は、藤沢の立石から鎌倉の天神山に向けた道が、後年白旗神社より石上の渡し竜口寺より七里ガ浜、稲村へ向けたと考えられる。
■そして、古代東海道も✖印の処でその痕跡は曖昧になる。

さて、、✖印の処で道は消えた???
そうでなくて、道を隠した形跡が在るでしょう??という事です。
どの様に隠したか?
それは 鎌倉幕府が、道を隠すパターンが有るのです。
一番明確なのは、海蔵寺裏の大堀切です。
この大堀切と呼ばれる切通しを閉鎖した土橋構造を参考に✖印の周辺を探せば、見つかる訳です。
この続きは「隠された大切通し 「謎の大堀切」の話へ飛びます。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大鎌倉城 隠された大切通し編 1

2012年12月18日 | 切通し
「隠された大切通し」を語る前に古代東海道と古代東山道武蔵路(相模路)の存在について、語る必要があるのです。
そんな訳で、隠した大道を暴露する為の前振りがこの鎌倉城です。

 城である根拠は、外部より攻め込む敵を阻止する切岸の配置から必然的に導かれる結論で、証拠は現地をご覧ください。
文献の資料は無いので、現地を確認をしないと理解できません。
 空中写真を立体視できれば、終戦直後の鎌倉が確認できます。

文献から導けば、
新田軍は、州崎の鎌倉軍を一昼夜で打破った。しかし化粧坂の鎌倉軍は州崎(六万余騎)の半分の兵力(三万余騎)で化粧坂を守れた。これは、鎌倉城としての構造が堅固で在った証拠と言えますが、、
 その事実を無視して「鎌倉に城は無かった!」と唱える方がいます。
「無い」と唱えると、現世利益が湧く方なのでしょう。合理的な議論を精神論で横車を押す様子が見えます。
鎌倉の切通しを結んだ距離は14kmで、鎌倉城の実際の戦う砦の遺構は、鎌倉の切通しの外に在る峰であり、凡その囲んだ距離は24Kmの概略のラインですが、実際は、入り組んだ峰と谷戸に延々と切岸があります。その峰の上と峰の下にある切岸を調べたら、概略ラインの3倍の距離(74km)以上の距離を調べる必要があります。
実地に足で調べるとは、この様な事です。
実地に個人的には調べず組織的にも調査せず、机上の理論で「鎌倉に城は無かった!」との結論なら情けない研究ですね、、、
鎌倉で遊んで60年以上ですが、その1割も私は見て無い。でも素晴らしい城遺構と認識出来るのです。
七口の峰を回って「これは城では無い!」と言ったら、鎌倉の理解は観光客レベルの表面的興味と言う訳です。
「コメント欄」が有りますから、反論があれば書き込みをお願いします。匿名歓迎!
その城構造が色濃く残っているのが、台峰とその谷の倉久保谷戸ですが、近年開発計画が動き始めた様で、、、、、
問題は、この倉久保の谷戸が武蔵大路の痕跡であろうと、考えられるのです。

「鎌倉城は無い」の根拠に、当時の人の考え方や常識から結論を導く論法を使っている方がいます。
仏法の考え方や、当時の武士の常識的な考えを古文献から導き出した様子ですが、、
その文献は沢山在る文献の平均的な考えでは無く、引用は貴族や宗教の偏った文献です。
研究資料に偏りがあり、更に 鎌倉の切岸も一切書かれて無い、、、
    研究者でなく、視野の狭過ぎる 御方の机の上で書かれた本!
具体的に書けば「偏ったアイディアで重大な要素知らずに、結論を出した間違えです。」
源氏は無頼の徒(無法者)ですが、、理由は
壇ノ浦の戦いで三種の神器を持つ安徳天皇に弓を引いた無頼の源氏です。

下剋上という言葉は、
室町中期、戦国時代より権威を否定し、力で権力を奪う社会風潮。 それが源氏のやった事です。
更に、幕府を開き貴族を政治の下に置き、反感を受け新田義貞に討たれた歴史を知らない??
鎌倉城説を適用したら、、距離は24Kmの概略のライン内を開発できず、開発業者は非常に迷惑だと思いますが、、、城遺構をマネーゲームで土地開発するのは勿体無い、とはゲームに参加できない庶民のヒガミでしょうか?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする