鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

も く じ

2024年03月25日 | Weblog
中世の鎌倉街道が目的でなく「鎌倉街道と呼ばれた古代道(駅路、官路)を探そう!」です。
写真は、古代道の特徴を持つ藤沢市の道路遺構。
 
もくじは書いた順で表示してあります。
カテゴリーを操作すると記事の関連がスムーズです。
PCの方は日付けを参考に、左上のバックナンバーを操作して移動してください。
●初めての方へ、古代駅路の特徴----2006-05-13
●鎌倉街道七口------------2006-05-23
●鎌倉街道?これは東山道武蔵路----2006-05-27
●大仏切通し1~6-----------2006-06~
●梶原口から化粧坂へ---------2006-06-29
●朝比奈切通し 1~10---------2006-06~ 
●続・朝比奈峠東の小切通し------2006-07-24
●東山道武蔵路------------2006-07-26
●朝比奈峠から六浦へ!--------2006-07-29
●古代駅路は、直線?---------2006-08-07
●「毘」スクラッパ-さんへ------2006-09-04
●想定伝路水道道路----------2006-09-06
●古代道探しの原点----------2006-09-08
●武蔵大路が鎌倉に有る!-------2006-09-10
●鎌倉街道上の道と東山道相模路----2006-09-11
●水道道路(明治の地図)1~5------2006-09~
●頼朝の策略-------------2006-09-26
●立石1~4--------------2006-10-02
●玉縄城---------------2006-10-06
●東山道相模路の鎌倉入り-------2006-10-07
●鎌倉[謎の大堀切]----------2006-11-01
●鎌倉最大の切通し1~8--------2006-11~
●鎌倉市内の駅路-----------2006-12-
●六浦道1~9-------------2007-06~
●源氏山より寿福寺前に1~3------2008-02~
●鎌倉の砂鉄1~7-----------2008-04~
●緊急事態!-------------2008-04-10
●狭山市と所沢市の間---------2008-04~
●横浜市と鎌倉市の境・1・2------2008-05~
●空中写真--------------2008-06-29
●空中写真を「立体視」--------2008-07-15
●表紙の場所から後方を写す!-----2009-02-24
●空中写真を「立体視」の応用-----2009-02-27
●忘れ去られた鎌倉手広 1~10-----2009-08~
●忘れ去られた鎌倉山崎切通編-----2009-10-16
●忘れ去られた鎌倉今泉編1~6-----2009-12~
●あけましておめでとう!-------2010-01-11
●コメントより(鎌倉今泉編6) ----2010-02-06
●御柱1~2--------------2010-04~
●工事が始まる。-----------2010-06-06
●上の道、下の道1~6---------2010-10~
●鎌倉の古代 1~11----------2010-11~
●グーグル地図より1~3--------2011-11~
●あけまして-------------2012-01-06
●藤沢市の遊行寺、西脇の道------2012-03-27
●表紙を飾道路遺構は消えた!-----2012-06-20
●大鎌倉城1~7------------2012-09-10
●大鎌倉城隠された大切通1~6-----2012-12~
●鎌倉に城は無かった1~8-------2013-01~
●富士山中に東海道序 1~10------2013-02~
●富士山中に東海道十里木 1~10----2013-05~
●足柄峠越え1~4-----------2013-07~
●東富士演習場の 1~14--------2014-05~
●大鎌倉城隠された切通し編 6-----2014-08-21
●武家屋敷跡-------------2014-10-10
●大鎌倉城峰  上・中・下巻-----2014-10-17
●化粧坂    上・下巻-------2014-10-31
●鎌倉の古代東海道上・中・下巻----2014-11-06
●箱根の古代道上・下巻--------2014-11-10
●稲村ガ崎の古道を検証上巻・下巻---2014-11-15
●稲村崎成干潟事上・中・下巻-----2014-11-22
●長窪の切通1~6-----------2015-02~
●長窪の切通 7~11----------2015-02~
●鎌倉、藤沢周囲の城---------2015-03-26
●怒れる鎌倉市民さんより-------2015-04-23
●反論です。-------------2015-05-09
●鎌倉城の成り立ち----------2015-05-11
●日本城郭大系------------2015-06-19
●稲村ガ崎の戦い上・中・下巻-----2015-06-26
●コメントより、台峯の先端------2015-07-28
●コメントより:台山---------2015-08-08
●台峯の先端と臥龍峡---------2015-08-11
●鎌倉の文化守れるの?--------2015-09-24
●由比ヶ浜関谷線-----------2015-10-06
●七里ヶ浜は、何故七里?-------2015-11-06
●相模の古代東海道 1~15-------2015-11~~
●鎌倉に城は無い! 1~12-------2016-02-24
●コメントより(怒れる鎌倉市民)----2016-03-18
●朝日新聞に  写真が有る!-----2016-04-03
●手広切通し編の工事後--------2016-05-07
●鎌倉市内で石棺墓発掘1~9------2016-06~
●稲村崎が干潟!嘘だ! 9-------2016-06-23
●一つの考えに基づいた工作物-----2016-07-12
●鎌倉城破壊の軌跡1~4--------2016-07~
●鎌倉城破壊の軌跡コメント------2016-08-26
●鎌倉城破壊の軌跡修正--------2016-08-27
●長窪谷戸の機能-----------2016-10-27
●鎌倉城の城壁1~5----------2016-11~
●鎌倉城の砦1~3-----------2016-12~
●鎌倉城のバ-チャルの世界------2016-12-26
●纏め鎌倉城1~4-----------2017-01~
●三方を山に?初期の話1~3------2017-01~
●鎌倉城と蒙古襲来1~9--------2017-02~
●コメントより1~3----------2017-02~ 
●古館橋1~4-------------2017-06~
●縄文海進--------------2017-09-04
●鎌倉時代の波打ち際1~6-------2017-12~
●稲村崎成干潟事現在でも同じ現象---2017-12-15
●続稲村崎成干潟事 現在でも同じ---2017-12
●下大槻から関本へ 1~18-------2018-03~
●下大槻峯遺跡------------2018-04-12
●長窪砦モデルコ-ス---------2018-04-26
●鎌倉の砂鉄5の写真追加 -------2018-06-08
●鎌倉の砂鉄6の補足 ---------2018-06-11
●栃窪Z路から関本へ1~6-------2018-06〜
●旧東海道の道幅1~4---------2018-07~
●旧東海道のコメント1~7-------2018-08~
●鎌倉城の変遷------------2018-09-16
●化粧坂の攻防?太平記に無い!----2018-09-20
●素人と、玄人 前編&後編----2018-09-22
●新田軍は化粧坂に1~3--------2018-09~
●長窪の砦1~3------------2018-10-08
●新田軍は化粧坂に 戦う砦跡-----2018-11-05
●戦う砦跡 鎌倉城の平場-------2018-11-08
●鎌倉城 蒙古襲来の前後-------2018-12-11
●賀正----------------2019-01-06
●忘れ去られた鎌倉城編1~8------2019-01~
●東富士演習場の立ち入りその後----2019-02-07
●東富士演習場の立ち入りその後 2---2019-02-15
●篠窪から関本へ 1~12--------2019/10〜
●下大槻から関本へ14補足-------2019-05-05
●倉久保谷戸 1~3----------2020-06 〜
●倉久保谷戸 2------------2020-06-08
●実体視練習-------------2020-06-12
●倉久保谷戸 3------------2020-06-14
●台峰の砦 1~13-----------2020-06〜
●鎌倉城の範囲1〜10 ---------2020-07〜
●鎌倉城について考察の変遷------2020/07/13
●鎌倉城の範囲コメントより------2020/08/01
●鎌倉城の範囲コメント 2-------2020/08/03
●城のマトメ1〜4   ----------2021/03  〜
●鎌倉時代の波打ち際 7〜14------2021/07〜
●富士山中 に東海道十里木2021 ---- 2021/10/03
●鎌倉時代の波打ち際15~28  ----- 2021/10/09
●鎌倉時代の波打ち際 29------2021/12/26
●鎌倉殿の13人 が始まった様ですね、-2022/01/28
●鎌倉殿の13人 の結末は?------2022/02/01
●鎌倉の味わい方!----------2022/02/26
●頼朝落馬の地、「八的ヶ原 」-----2022/03/19
●稲村伝説!【稲村崎成干潟事】 ----2022/05/13
●『現』稲村ケ崎 新田伝説検証----2022/05/20
●稲村崎成干潟事 干潮の時刻は----2022/06/04
●稲村崎成干潟事 干潟の状態は----2022/06/06
●稲村路のマトメ 1---------2022年06月10
●稲村崎成干潟事のマトメ2------2022年06月16
●稲村崎成干潟事のマトメ3------2022/06/19
●稲村崎成干潟事のマトメ4------2022/06/24
●頼朝落馬の地------------2022/07/09
●鎌倉城の特徴------------2022/10/02
●鎌倉城の城壁------------2023/01/16
●西側防衛線 稲村ヶ崎より大仏切通  --2023/01/16
●西側防衛線 稲村ケ崎より大仏2  ---2023/01/23
●西側防衛線 大仏より小袋切通  ----2023/01/30
●世界一大きな城は何処?-------2023/05/12
●世界一大きな城は何処?2------2023/06/02
●鎌倉城北側防衛線 小袋より八幡裏--2023/08/01
●鎌倉城東側防衛線 朝比奈より名越--2023/10/07
●鎌倉城西側防衛線 長窪砦と鎌倉城--2023/10/10
●鎌倉城東側防衛線 朝比奈より六浦--2023/10/20
●世界一大きな城は何処?3------2023/11/17
●世界一大きな城は何処?4------2023/11/20
●世界一大きな城は何処?5------2023/11/24.
         ● もくじ
 
 
記事一覧は https://blog.goo.ne.jp/mementosmori/arcv 
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頼朝落馬の地、「八的ヶ原」 2

2022年07月09日 | Weblog

頼朝落馬の地の碑がJR東海道辻堂駅の近くに在るそうです。

>     2022年4月市民センター開館記念講演にて、
>辻堂在住の郷土史家・大石静雄さん(98)が地域の歴史に
>ついて語った。小学5年生の時に、地元の高齢者から「この
>場所で昔頼朝が落馬した、よく覚えておいて」と教えられた。

.
これが根拠で案内板が造られた様です。
.文献の(北条九代記)と(保暦間記)には、義経の亡霊は「八的ヶ原」にあらわれたと書かれており、、、その場所は藤沢市辻堂だという説がある。


.物的根拠は無いようです。 この周囲は砂地の土地で鎌倉古道を確定するには、発掘で路面の硬化が見つかれが良いのですが、、唯一 口伝が在りました。
.更に、古代東海道の引地川辺りからの分岐と成れば、、橋脚遺跡に向け妥当な京鎌倉往還の鎌倉道と考えられます。


赤丸が頼朝落馬地点の碑で、青いラインは京鎌倉往還の鎌倉道の想定です。
.しかし明治の地図ではその鎌倉道痕跡は無く、砂地の原野と考えられ。現代の地図では、建築が密で鎌倉道の物理的証明は無理と思います。

願わくば、当然鎌倉道の痕跡上に頼朝落馬地点が有ったハズで、鎌倉道の明治の状況が語られたら、信頼の置ける話に成ると思うのですが、、、

辻堂在住の郷土史家・大石静雄さんに当時の鎌倉街道の痕跡が在ったのか? そんな記録が在れば知りたいのですが、800年経てば砂の中!  その場所の詳細が無い口伝で、鎌倉道の痕跡をご存じの方はお知らせください。この場所が頼朝落馬の場所と言うだけで、京鎌倉往還の経路を思い巡らせる面白い情報でした。

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頼朝落馬の地、「八的ヶ原」

2022年03月19日 | Weblog

頼朝落馬の地、「八的ヶ原」 (野﨑幸夫) 様、

コメントを読ませて頂きました。断片的には知って居ましたが、頼朝落馬の地が在ったのは初めて知りました。

史跡・天然記念物「旧相模川橋脚」
https://www.city.chigasaki.kanagawa.jp/bunka_rekishi/shiteibunkazai/1006254.html

源頼朝落馬の地
https://www.yoritomo-japan.com/yoritomo-rakuba.htm

 源頼朝は、1198年(建久9年)12月27日、武蔵国稲毛(川崎市)を領していた稲毛重成が、亡き妻の冥福を祈るために行った「相模川の橋供養」に参列した。

極楽寺坂の切り開かれた時代は、
深沢(現・鎌倉市西部)にあった寺院を1259年に、北条重時が当時地獄谷と呼ばれていた極楽寺に移した。其の後に忍性(入寺は1267年)が極楽寺切通を切り開いたとされ、頼朝死後の話しです。
頼朝生前の街道として、稲村路は鎌倉市営プール後ろの崖を横切る道で馬が通るには危険が有る道と考えられる。

頼朝が通った道と考えられるのは、

古代東海道が在り、化粧坂から梶原(又は大仏切通し)、深沢、手広、大道(藤沢)、辻堂四ツ谷、平塚古代東海道痕跡より足柄峠へほゞ一直線の古代東海道(紫色のライン)と考えられ、富士の巻狩りにも使用した道です。
海岸寄りの道の詳細は不明ですが、天然記念物「旧相模川橋脚」と言う鎌倉時代と考えられる遺構がある。
古代東海道の藤沢引地川の辺りから「旧相模川橋脚」へ向かう道(赤色ライン)が分かれたと考えます。
その中間地点と考えれば、、辻堂の頼朝落馬地点の表示も矛盾がないかな?    そんな事を考えました。

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鎌倉の味わい方!

2022年02月26日 | Weblog

小学生の頃、藤沢駅前から自転車に乗って鎌倉を探索して走ったのが始まりで1950年代の話です。
当時は、江の島の華やかな賑わいとは違い、鎌倉は異質で静かで落ち着いた別世界でした。 単なる山道では無く人手が加わり、行く先々に意外性がある景観の山道でした。
鎌倉は、深緑の細い土道で、薬研堀の道や切通の道を好奇な目で楽しめました。
今思えば、その道は、崖=切岸 坂道 切通し等の造形の変化が面白さの一部で在ったし、思いがけない場所のお寺で在った訳です。今でもその山道の風情は色濃く残って居ます。


 鎌倉市街は 新田義貞の鎌倉幕攻めで、焦土と成り 残った建築は円覚寺の舎利殿のみで、鎌倉時代を偲ぶ建物は消えました。
それ程に、鎌倉時代を偲ぶ建築物は消え、明治初頭の市街は大半が畑でした。

絵図の如く、鎌倉市街は八幡様の参道、長谷、極楽寺下の坂ノ下辺りに観光客目当ての家が建つ状況が示され他は畑と成ります。
新田義貞の鎌倉幕攻め以降 その時代を示すオリジナルなモノは、市街を囲む山の切岸を含めた鎌倉城の痕跡ダケと言う結果です。

鎌倉に思いを寄せて訪れる方は、観光ガイドを片手に小町通りの飲食店やお寺巡りをして頼朝を偲ぶのでしょうが、、  私は、、街並みや商店街が楽しくて行く事も多い。 お食事のお勧めは、駅前小町通りの角の「不二家」がお勧めで、マニアックな方なら、「樹」や「エレッジ・カフェ」がお勧めです。

 

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鎌倉殿の13人 の結末は?

2022年02月01日 | Weblog

文献が少ない為に為に起きた「誤り」と言うのが有ります。
研究テーマに沿った文献を調べ、不明な部分は想像で埋めて一冊の本に仕上げたのが鎌倉の歴史研究書です。

理工科系統では、研究テーマに沿った文献を調べ実験で検証し、不明な部分は新たな研究対象と成ります。
要は、鎌倉の歴史研究書は想像記述が多く、根拠の無い記述が多いと言うのがこのブログに書かれた事です。

現地の地形や切岸の構造等を知って居れば、古文献から引用した「誤解」はトテモ少なかったと考えます。
残念ながら、鎌倉の地形を把握するには広大過ぎて判りにくく、研究書は無い。
臆測で書かれた「誤り」は、鎌倉の地形を知らずに書かれたモノです。

「鎌倉殿の13人」も古文献の根拠より、誤解を積み重ねた現代鎌倉研究書の引用が多いと思います。鎌倉終焉で 鎌倉城の記述や、稲村ヶ崎の故事が在ると思います。
どの様に話が展開するのか、、
疑問がお有りでしたら、、お知らせください。

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鎌倉殿の13人 が始まった様ですね、

2022年01月28日 | Weblog

年明け最初の記事です。
このブログも多数の方がご覧になられ、嬉しい限りです。
現代の100年に渡る鎌倉研究の本は、憶測に満ちた研究が多数を占めます。
鎌倉終焉にて、幕府の文書は灰塵と成った訳です。

●軍忠状
●十六夜日記
●梅松論
●太平記
●吾妻鏡
●関東御教書

これ等の古文献等が鎌倉を語る文献の主流と考えますが、、如何でしょうか?
古文献に頼る為に、不明な部分を憶測するのが現代の研究書です。

当方は、文献よりも鎌倉の現状の遺物、「切岸」「谷戸」鎌倉城の範囲を考察!
その方向を優先し、文献は後回しと成っています。

文献に詳しい方、
反論の有る方、
ご遠慮なく「コメント」を下さい!
由比ヶ浜の 元寇防塁等は、 これ等の反論から見直された話です。

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巨大鎌倉城

2020年03月07日 | Weblog
「鎌倉街道 を探そう!」            2010-01-11記
を御覧いただき、ありがとうございます。
鎌倉周辺には、奈良時代に作られたであろう巨大駅路の痕跡が有るはず!!

人は、古代の道跡を見ても、その現状を見て、??っと成る訳ですが、、
目前に見えるのは鎌倉街道と呼ばれる道であったり、家が縦列に立ち並んでいたり、畑であったり、自然に晒されて侵食された切り通し状の場所に細い道があったり、、、、、
その目前の景観から、千年前の古代の道を想像する事は難しい。
目前の景観の情報を基に、その隠された裏の見えない情報を重ね合わせなければ、古代道を想像する事はない。
古道跡の裏の情報が必須です。現状の周囲の地形から風雨に浸食された分を加味し、近代、江戸、戦国、鎌倉、平安時代に人工的に加えられたであろう地形を修正して、古代道の痕跡は浮かび上がる。

古代東海道は鎌倉城という大掛かりな地形改造が鎌倉時代に行なわれた!
巨大駅路は鎌倉市内に敵の侵入を楽にする不利な構造物でした!
防衛上、故意に巨大駅路を消滅する工作がなされたと考えられる。
その様なわけで駅路を考える時、鎌倉城を考えざるおえない。
しかし、、、
これだけ武家の鎌倉と行政が唱える反面、鎌倉城という全体像の資料は無いのです。
もし、その様な鎌倉城の資料を作ったら、、、鎌倉では、埋蔵文化財の上に建物を作る事になる。
宅地造成なんて、もっての他!  な訳でして 土地開発は出来ない。
鎌倉市全体が鎌倉城!!地方の山城を数十合わせた様な巨大な痕跡を私は想定している。
きっと、、一般的に言われているのは、切通の七口が城壁程度に考えられていると思います。
しかし、、ぼ輔の考える鎌倉城は、、、
七口の切通しは、鎌倉の都市を守る城壁!
本丸、二の丸、三の丸に相当するものは有るのでしょうか?
それは、江戸時代の城と言う考えで在り、鎌倉には通用しない。
そんな城壁としての切岸や、守る為の施設や攻撃の為の施設が有る筈です。
それは、その様なモノののでしょうか? その紹介が今やっている事です。

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賀正

2019年01月06日 | Weblog
あけまして
   おめでとうございます!

そんな訳で、
  多数の方が ご覧に成っている訳で、
    お礼を申し上げます。

反常識的な 見解の書き込みが大半ですが、、、
 その割にご意見や質問が少ないのが不思議です。

 誹謗 中傷 非難等、何でも書き込んでください。
面白くなければ、、、無視や削除も有ると思いますが、、、
出来る限り対応したいと思います。

  その様な訳で、 本年もよろしく!
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素人と、玄人 前編 と 後編

2018年09月22日 | Weblog

素人と、玄人 前編

2018年03月15日 | Weblog

素人とプロの違いですが、、、
プロとは、それが仕事で金を貰っている人です。
生活が出来る程金になるか否かは別です。
素人とは、それをやる事で金ばかり掛かる、、、持ち出しですね!
だから、素人は興味の湧くことをやれば良い。
金に係わる責任はありません。
私の今の古代駅路、官路の興味も金には成りません。
只、タダ面白い!
宝探し的な面白さです。
自分の考えた事に対して、巨大な遺構が証明してくれるのです。
それも、道路遺構の作られた時代は大化の改新以降から奈良時代に特定され、他の時代には造られなかった。
そんな時代考証が楽な事もあります。
平地は、住宅になり 畑になり 痕跡は消失し堀返さなくては見付けられない。
これでは、素人は手が出ない。
しかし、台地から川に降りる急な処は切り通しが残ります。
これは、素人でも調査が可能!! プロだって条件は同じ。
物の見方や考え方でプロを出し抜こう!!!
これが、このblogのコンセプトです。
プロよりも もっと自由な発想で楽しむ余地がある。
間違った事を書いても、、、
間違えを訂正すれば良いでしょう、、、
素人の気楽さですね!

地図を見て 目星を付けたら現地を見る。
自分の思った通りの遺構が有るか?
見付けたら、それで満足!
それ以上のレポートなど誰かに向かって報告する義務などありません!
そんなズサンサが素人の素人らしいとこです。
確証なんて、、不要! 自分が納得すれば良い!
そんな訳で、 このblogを見て損害を受けた人が居ても、責任をとりません。
事実を基に、、作り話をしている様な物です。
プロのコメント、素人の初歩の質問等、、、気楽に書いてください。
    以上の事で、、、素人を自認しています。

 

素人と、玄人 後編     2018/3/23記

鎌倉時代の、鎌倉幕府に関する歴史解明の困難さ!
それは、
鎌倉滅亡の戦火に書類は焼かれ、建物は焼かれ、、、
それを裏付ける文献が限られる。
太平記、梅松論、東鑑、十六夜日記、玉葉、などの限られた文献です。
もう一つは、
鎌倉の地形に関して、
武家の鎌倉の象徴の「鎌倉城郭遺構」が絶望的に調査不足で在り、
調べれば理解できる事を、調べずに鎌倉城を語られる。
この城の広さは、日本一で、あまりの広大さに全容を調査した資料が無い。

世界でも有数な広大な城跡ですが、東西8㎞南北6㎞の城って世界に幾つ有るでしょうか? 万里の長城の他は??
南京城や北京城等が有りますが、それ以外には?
何故なら鎌倉城を作った目的は、
世界一広大なモンゴル帝国が西に向け進攻すると無敵で東欧まで掌握した。
それが、
東に方向を変え、小さな島国を大艦隊で攻め込む話が元寇(蒙古襲来)です。
総国力を挙げて迎え打つ城として鎌倉城を作り変えたと考えられる。
地方の領主が建てた城とは,規模や考えその物が国際的に違うのです。
それが、視野の狭い城郭専門の人が理解できない根本だと考えられるのです。
世界最大のモンゴル帝国に対抗して
 小国の鎌倉幕府が真っ向勝負を挑んだ!

文献が無い??
文献が無ければ現地の遺構に語らせればよい。
鎌倉城の研究成果を既成本から見ると、
学術的には、結論を導き出すには資料不足であり、それでも結語を出せば、憶測で語る結果となります。
それ以前に城の縄張りの範囲は?? それすら城郭研究者の思慮の範囲外で有った訳です。
良くて、七口を結んだ範囲が鎌倉城と言うのが定番ですが、その範囲を優に超えています。
何故現状を調査しないのか?調査範囲が広大過ぎる為、巨大さゆえに、単なる山に見え全体の関連が判らない為、全容を調べた研究書は無い。
埋蔵文化財の発掘が専門の方も居るようで、、切岸の調査など専門外の様ですね、
しかし、、
鎌倉の城郭遺構は、切岸や地形の表に出た場所ですから、、素人でも調べれば解る。
自然保護の名目で、民間人が管理された山は今は無く、樹木は伸び放題で、本来の砦遺構は樹木に隠されて判らなくなっている。
明治の鎌倉の山は写真で幾らも在り、見れば山の木はまばらで、管理されている様子が見えます。

鎌倉城の研究は、遺構調査をされていません。
古典文献は理解不足(私も似てますが、)遺構は調べないで、、研究発表は中身が薄いですよね、、、


私のこのHPを書く背景は、東山道相模路と古代東海道の痕跡を探すブログでしたが、、、
鎌倉城の城壁に古代駅路が寸断された事から、鎌倉城を考察せざるを得なく成った訳です。
その様な訳で、資料不足を承知でこのHPを書いています。


「コメントより 3」 2017年02月09日
等も、このブログの罵倒コメント(素朴な疑問さん)より刺激を受けて書かれた訳で、、
由比ヶ浜に元寇対策と考えられる防御壁が在った事を自覚した次第です。
所詮、、専門家とは別な、、
ド素人の書いたものですが、、、
不備な処を「いちゃもん、罵声、クレーム」等コメント頂ければ、喜んで対応します。
修正:2018.9

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藤沢市の遊行寺、西脇の道

2012年03月27日 | Weblog
藤沢市の遊行寺脇は、
東脇に江戸の東海道が北上しており、
西脇にはこの石塔のある2m幅の薬研堀状の道がある。
現在は、道幅を自動車が通れる幅に広げられて居るが、昔は2m幅であった。
鎌倉街道に見られる作りで有ったが、違和感のあるのが、方向的に鎌倉には向かわない道であることです。
その道の脇に石塔が有り、造られた時期は古く室町時代です。
この年代が問題です。

一、鎌倉滅亡直後の室町時代にこの道は有った。
二、鎌倉へ向かう道ではない。
三、よって、鎌倉時代に作られた道とは考え難い。
四、上記の条件から憶測すれば、鎌倉以前の道ではないのか?
五、鎌倉以前とすれば、六浦より東京湾の海路としての東海道とは別の陸路として、
  この道が存在したと考えるのです、、、
六、だとすれば、この道は、上総の国は市原まで作られたと考えられる。
七、後世、江戸東海道を作る時の、下敷きに成った道と想像するのです。

更に北上すると、江戸東海道に沿って、この道の延長と思われる残痕が在る。

図は神奈川県迅速図2万分之1(明治13~17年)
赤く太いラインは江戸東海道。
ボヤケタ赤い破線は石塔の在る道。
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あけまして

2012年01月06日 | Weblog
あけまして
   おめでとうございます。

      今年もよろしくお願いします。

写真の場所は、、
藤沢市の遊行寺脇です。
遊行寺の東脇には江戸の東海道があり、、
遊行寺の西脇にはこの石塔のある3m幅の道があり、石塔の造られた時期は
古い物で室町時代です。
詳細は、、しばらくお休みで3月頃に書き始めます。
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Google地図より3

2011年12月15日 | Weblog
[Google地図より2]の白い平屋建てに相当する深さは異常です。
霊仙山仏法寺遺構は膝程度の深さで、脇道の掘割は山の傾斜から土砂の堆積などが考えられ2m程です。
通常の鎌倉市内では膝から腰迄の深さですね、、、
その様な訳で、この場所の異常な深さは他の場所より土砂を運んだものと考えるのです。
この遺構の時代は知りませんが、、、鎌倉時代の周囲の山を切り崩して砦(鎌倉城)にする時に余った土砂と考えるのです。
現代で言えば、坂ノ下から稲村の埋め立てに霊仙ヶ崎を切り崩した様な発想でしょうね、、
その様な訳で、鎌倉の谷戸は、総て人の手が入っており、自然地形は稲村ヶ崎の岩クエ位と考えます。
ナダラカな谷戸の自然斜面は総て人が通れない様な急斜面に切り取られ、その分谷戸の平場が増えます。
大半は、鎌倉時代に工作されたモノと考えています。
そんな訳で、名も無い谷戸でも民家の裏庭は観察に価する場所が多々あります。
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Google地図より2

2011年11月14日 | Weblog
数年前に撮影した写真です。
深さが問題です。人でも立っていれば明瞭ですが、フェンスや周囲の建物と比較してください。
出土面と地表面の落差は2~3m程いや、、4mは有るのかな? これが問題です。
自然に堆積物で埋まるには、深すぎると
考えるのですが、、、
人為的に土を運び込むとしたら、
土を運び込んだ目的は? 
何処に在った土なのか?
誰が指導したのか?
何時やったのか?
その様な問題になります。

一般に、中世の遺構を発掘するときに,ドノ程度の深さまで掘るのでしょうか?
それを調べる必要がありますね、、
図書館に行く暇が無いな~!
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Google地図より1

2011年11月12日 | Weblog
Google地図で「鎌倉市御成町14」を検索すると、
上図の衛星写真が見られる。
画面中央のブルーシートに囲まれた空き地ですが、
これから建築する為の遺跡調査をされた場所です、
数年前の画像で、現場は既に建物が出来上がっています。

場所の詳細はGoogle地図をズームして確認してください。
この画像が、何を語るか?
取りあえずは、住宅の下には中世か?それ以前の遺構が埋蔵されている。
鎌倉郡衙と、鎌倉市内の武蔵大路の間に有る場所ですが、、、
この場所から道路遺構は出なかった。もう少し線路寄りなのでしょうね、、、
残念です。
この映像も時期が来れば消えます。
別の私が撮った地上写真があります。次回はそれを載せましょう!
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御柱 2

2010年05月13日 | Weblog
御柱祭りには、諏訪神社の上社(2神社)と下社(2神社)の計4社分の柱を運ぶのですが、各社に4本の柱が必要で、4本×4社=16本の柱を運ぶ。
写真は上社の御柱(10t超)で、引きずった痕跡が道路にクッキリと残ります。
毎回死者がを出す祭りで、前回は川越えで一人、今回は神社に着いて柱を立てる時に二人亡くなった。

古代、重量物を運ぶ時は、修羅(そりの様な物)を使い下に転がり易いように丸太を使う
! そんな方法を使うのかと思いきや、、、
人力で強引に運ぶのですね!
(写真では路面が濡れていますが、雨が降った訳でなく、街角の90度曲がる難所で少しでも路面との抵抗を減らす為に水が撒かれているのです。)
川渡りは、、川の土手をこれ又強引に引き上げる!
イヤハヤ、、、
恐れ入りました!!
しかし、
唯一の道具の綱は、綱引きのロープを10本程マトメタほどの人の胴体ほどある綱です。
簡単には作れない物です。
綱置き場という、、、小屋を作って保管してある。
10tの大木を運搬するには、単なる素人では出来ない技術が絡む祭りです。
とび職と思われる人が大木の動きを予測して、指示を出し続けていました。
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