鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

砂鉄 1

2008年04月03日 | 鎌倉の古代
意を決して、、、
正宗工芸美術製作所に出向いて、聞いてきました。
話によると、
正宗の屋敷は、綱廣谷戸と呼ばれた事も有り、10万坪程有ったとの話。
この広さは、500m×500m四方です。
具体的には、
源氏山から南と東に向け峰が二つある。
二つの峰の内、西側の峰は佐助隧道(トンネル)の上を通り、鎌倉郡が出土した御成小学校まで続きますが、
正宗工芸美術製作所より400m程西で、佐助トンネルの手前東100m程に正宗の井があります。
正宗工芸美術製作所より北300mに刃稲荷がある。
刃稲荷のある場所は、、源氏山から東に延びた峰の寿福寺脇なのです!
この辺りが全部綱廣谷戸と呼ばれた正宗後継者の屋敷の敷地内!
(戦国時代に正宗の後継者は綱廣に変わり、今に引き継ぐ)
佐助隋道の手前に在る正宗井戸も敷地内となれば、、、
源氏山の南の裾野は綱廣谷戸の一番奥ではないですか!
源氏山の南を砂鉄堀に使っても不思議は無い。と推測するのです。
さて、話の本筋の刀を造る「砂鉄は何処から入手したのか?」っと質問をすると、
鎌倉周辺の、稲村、逗子、横浜市金沢区の釜利谷等から砂鉄の出た話になり、
これは、現在誰でも知る砂鉄の出る場所ですが、具体的な刀を鍛える為の砂鉄を採取した場所は不明の様です。
結果、源氏山の南斜面から砂鉄を採取した想定は、灰色のまま!っとなりました。

写真は、正宗の井ですが、石垣の上の四角くサッシで組んだ場所で、井戸は蓋をしてあり「正宗の井」の表示は何も無い。
コメント (3)
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