鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

篠窪から関本へ12

2020年04月28日 | 古代東海道

↓ 更に登ると、南側(写真左手下に道に沿った平場が現れる!)藪の中で写りが悪い。


↓ 更に登ると、右手の平場は道路と同じ高さになる。 車道に平場を加えると、古代駅路の道幅??


↓ 本来の広い道幅を3m幅に作り替えた? 等と思えるロケーションです。


↓ 明治時代のこの地方で一番整備されていただろう、、と想像できる郡道の痕跡です。


↓ 来た道を振り返るとご覧の通り、幅広の道と思われる道跡が!
すると、、この堀切道は、栃窪のZ字型の道路と同じように、鎌倉以後800年の雨水でエグラレタ道路なのか?
鎌倉道の定番の道幅とも思えるし、、、 根拠が無い 憶測の話ですが、幅広の痕跡は有る。
この道幅は、古代東海道を考えられます。
此れより下の道は雨水でエグラレたのか? 鎌倉時代や江戸時代に作り替えられたのか?考慮する情報は無い。
しかし 状況証拠としては下大槻から足柄峠の途中にある合理的な考えに値する東海道痕跡と考えます。

そして、更にこの峰には面白い場所が、、、
古代道は何回も作り変えられる事が有りますが、、、この道の他に疑える地形が在ります。
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篠窪から関本へ11

2020年04月20日 | 古代東海道
車道の赤い車の後ろから切通に入ってみましょう。
右側の端に赤い車が在ります。
軽四一台が通れる道を右に折れて入ると、即S字状の道となり左見曲がる。


左に曲がったのが下の写真です。
土砂の掘れた状態が、栃窪のZ字道路と同じに雨水がこの道を作ったのでは??
そんな感じの赤土(富士噴火の灰がこの赤土と言われている)です。

上の写真の30m登った地点。

そんな切通の古色蒼然とした雰囲気ですが、、、
鎌倉時代以降の道ならば、この程度の道幅と思えます。
しかし、、探しているのは、道幅9mの道です。
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篠窪から関本へ10

2020年04月12日 | 古代東海道
さて、今回は「D」点です。
このピンクの場所「D」点の場所は、、
今昔マップをみると、


地図の「D」地点の道路の作図は、明治の迅速図を踏襲している様子で現状に合わない。

現状は空中写真が示しています。

赤いラインが正しい。
現代のネット上では、現地を見なくても この辺りまで下調べが出来てしまう。10年前では考えられない事です。

自動車道路からこの赤ラインに入り込みましょう!
この赤い車の後ろが入り口です。
栃窪から、峠のトンネルの上の峰を古代東海道は通り、この場所の篠窪へ降りたと想定します。
しかし、現状はどの様なのでしょうか?
当然この入り口の道幅では江戸や明治の郡道レベルではよくても、古東海道の道幅には足りません。

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篠窪から関本へ9

2020年04月11日 | 古代東海道
大磯丘陵と言う道路造りの障害を どの様に回避したのか?
古代官路や、鎌倉街道の常套手段は、谷筋を使わず、峰通しに道を作る事が知られている。
では、関本より秦野迄はどの道を通るのか?
その解答は、鎌倉側より足柄峠に向けて、
1、平塚の東中原の道路遺構。
2、下大槻の道路遺構。
3、秦野の「大道」と言う呼称の有る場所。
4、栃窪のZ字道路「A」。
5、富士見塚下の道路遺構「B」。
6、今回の緑色丸印「C」とした場所に成ります。

この緑色丸印「C」は、栃窪のZ字道路「A」と相対する、構造です。
篠窪の滑らかな峰通しに登り降りする為に、急激な坂を登らなくてはならない。
AとCは、急傾斜に造られた古代道路の特徴を持ったZ字型の道路と考えられる。

もっとも、このZ字型の道路が古代道路その物と言う訳ではなく、
古代道路の造りを継承した後世の道と考えられるのです。
栃窪の例も在りますが、雨に掘られた現代の細い道が其処には在り、古い道が数メートル上に痕跡として在ります。
現在の状態は、藪がヒドクてこの遺構を調査するのが困難な状態ですが、、、
この地点はこれ以上の深入りはしません。
次回の地点は、AとBの中間地点「D」です。
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