1281年5月。元軍は東路軍4万人と江南軍10万人の二手に分かれ日本に向かう。
江南軍は出発出来ず、東路軍4万人で攻撃が始まりました。
5月21日、文永の役と同様に、最初に対馬が襲われ、
5月29日、東路軍は壱岐に襲い掛かります。
6月6日。東路軍は博多湾に入り攻撃をしました。
武士団は博多湾の岸に元寇防塁を築き防戦する。九州、西国や関東の御家人も動員され、兵力は前回の6倍であった。
東路軍は石築地の突破はできず、博多湾北の志賀島、能古島に後退し、その後壱岐まで後退した。
その時点で 元軍主力の江南軍10万人は出港をしていなかった。
6月末~7月にかけ、東路軍は壱岐より肥前の鷹島に移動した。
7月29日、江南軍の10万の兵は肥前平戸で東路軍と合流しました。
7月30日夜に台風が襲い、五日間荒れ続いたので元軍の軍船は多くが沈没した。
台風を免れた軍船は鷹島に集合し、協議した結果、范文虎らの上級軍人は航海可能な船で帰国し、数千人の兵士は置き去りにされ、鎌倉幕府軍に鎮圧された。
東路軍が日本に向け出航してから約3ヶ月で、弘安の役は終結した。
武士団は博多湾の岸に20kmの石築地を築いた事で元寇の攻撃を防ぐ事が出来た。
これらの石築地や水城の防御壁の高さは、鎌倉城を考える時の比較材料として参考になる。
写真は、大宰府を守る水城で、石築地とは防御の考えが違いが形に現れる。
全長1.2Km 、幅77m、高さ9mの堰堤。
元寇の有った鎌倉時代に、どの様な戦い方をしたのか?
絵に描かれた様に、土手の上から弓矢で射る。
騎馬を使う。
ご覧の通り、、、の戦法です。
〉「八幡ノ蒙古記」
〉「日本の軍の如く、相互に名のりあひ、高名せすんは、一命かきり
〉勝負とおもふ処に」武士同士が名乗り合う一騎打ちの状況を蒙古と
〉戦う時にもやっていた訳です。
〉功名心と先駆けで、褒章目当ての戦い方が、この時の戦い方です。
〉一騎だけで元軍に飛び込んだ結果、集団で囲まれ返り討ちにされた
〉武将が多かった様です。
第七回使節が来日したのは、文永の役(1274年)後の1275年でしたが、元軍が負けて逃げ帰ったなら、一年後に(日本は元に服属する様に!)と言う使節は送らないでしょう。
これが、元軍は負けて博多を引き揚げたわけではない根拠です。
その後、第八回使節が送られたが斬首され、家来を元に送り返したのでビライ・ハンは怒り「弘安の役」となる。
元寇防塁を造ったのは、文永の役(1274年)から、弘安の役(1281年)の間であり、
鎌倉城が作られたのも、同じ時期とかんがえるのです。
元寇防塁(石築地)の高さは2m前後。総延長は、約20kmと言われる大工事を作り上げる力を関西の武士団は持って居た訳です。
鎌倉幕府の権力の末端で、これだけの大工事をやるだけの資産と人力と計画性があり、中枢の鎌倉で、これより貧弱なハズは無い! っと私は憶測するのですが、、、、
関東武士団は、攻めてくる元軍に対処する石築地を造るのに手を貸さず何をやっていたのか?? の疑問の回答で憶測ですが、
鎌倉に元寇に対抗する城を造っており「博多に手を貸す余裕が無かった!」と考えれば 説得力が有るでしょ?
日本中の武士を鎌倉に集めて元寇に対抗する城です。
それが、大き過ぎる城の正体と考えるのです。
写真は、(ウィキペヂアより引用)
写真は「福岡市の文化財」の掲載より引用。
蒙古襲来で、鎌倉幕府はどの様に防衛を考えたのか?
それが問題です。
一回目の文永の役は、武力で簡単に追い返せると甘く見たのですが、
鎌倉幕府の立場では、追い返せずに攻め込まれ、挙句は海岸線より10㎞内陸の水城まで撤退する事になった。
元軍の立場では、日本軍の反撃が思う以上に強く、長引けば日本の援軍が増えて困難になるのでこの程度痛めつければ良いであろう!程度で引き揚げた。
戦いの勝敗の行方を知りたい方が大半ですが、、、
白黒を付けられる程、単純な話では無いと思います。
鎌倉幕府には、国の存亡に係る程強敵に思えた。
これが、石築地(いしついじ)と呼ばれる20km
に及ぶ大工事のを造った基にある恐怖です。
> とうとう元寇説に至ったか (怒れる鎌倉市民)
> なぜあれほどの大工事を幕府は突貫工事で作らせたのだ?
> だいたい、そんなに元寇が怖いなら、内陸に拠点を移すべきだろう。
(怒れる鎌倉市民)さんは、二重の間違えをしています。
内陸の拠点は、すでに白村江の戦いに敗れた日本軍が唐と新羅軍の侵略を恐れ、660年代に大宰府を守る城を10km内陸に造って在り、これで十分防げると考えた。
文永の役で元軍に追いやられて鎌倉幕府軍が撤退した水城が大宰府を守る「城」です。
戦う城では無く、大宰府の市街を外国の侵略から守る城で鎌倉以前に同様な考えの城が在った訳です。
憶測としては、、
そんな城では守り切れない元軍の攻撃を感じ、元軍を迎え撃つ為の仕掛けを考えた。
この元寇防塁と呼ばれる 膨大な工事の石築地を関西の兵力で造ったのが現実です。
何故 国の存亡が掛かる戦いに関東は力を貸さなかったのか???
元軍が鎌倉に攻めてきた時の築城で 余裕が無かったと憶測するのです。
結果は鎌倉城の切岸として、20kmを優に越える防御施設が作られた。
>(怒れる鎌倉市民) そんなに元寇が怖いなら、内陸に拠点を移すべきだろう。
ご指摘の通り、、鎌倉に拠点があり、防衛の補強をしたと考えるのです。
鎌倉に城は無いとする考え方は、戦う為の中世以降の城を基準に考えたのでしょう。
その見方で鎌倉城を考えるのは非常に視野が狭く、歴史や実在遺構を無視したのでしょう。
戦う城は『総構え』の小田原城でも江戸城でも、最終的には市街を捨て天守に武士が立て籠もる構造をしている。
総構えは市街を守る城では無い。
鎌倉以降の日本では、市街を守る為の城を私は知らない。
鎌倉城の巨大な理由は、蒙古襲来にある!
コメントより『とうとう元寇説に至ったか (怒れる鎌倉市民)』
> その説は古いのだよ。すでに論破され過去のものだ。
>博多湾の元寇防塁をご存じだろう。
> なぜあれほどの大工事を(疑問)幕府は突貫工事で作らせたのだ?
歴史の流れ(経過)を追えば、赤マークの答えは出るのですが、
(怒れる)さんは 何故(?)を付けたのか、、、
その様な歴史の理解や、自分で調べたり考える事が苦手ですか??
蒙古襲来のダイジェスト前半
第一回使節1266年「大蒙古國皇帝奉書」を作成し、使節団を日本へ派遣
1271年 鎌倉幕府は鎮西に所領を持つ東国御家人を向かわせ、蒙古襲来に備えた。
第六回使節1272年使節団を日本へ派遣したが服属しない為、武力侵攻を決断する。
1272年 鎌倉幕府は元軍襲来が予想される筑前・肥前・博多津の沿岸を警固させた。
1273年 幕命で、戦時に備えて豊前・筑前・肥前・壱岐・対馬の御家人領の把握のため、御家人領に対して名字や身のほど・領主の人名を列記するなどした証文を持参して大宰府に到るように、これらの地域に動員令を発した
■文永の役 1274年10月3日『蒙古襲来』
戦艦300隻を含む726〜900艘の軍船が総員27,000〜40,000人を載せて、朝鮮半島を出発。
対馬侵攻 10月5日
壱岐侵攻 10月14日
肥前沿岸襲来 10月16-17日
博多湾上陸 10月20日
赤坂の戦い
鳥飼潟の戦い
百道原・姪浜の戦い
日本側の史料『金剛仏子叡尊感身学正記』は「十月五日、二十日、博多に着き、即退散に畢わる」
1266年の第一回使節から六の使節があり、その間十分な期間が在ったのですが、元寇防塁等、造らなかったのです。
文献より、10月20日に博多で戦い翌朝には船団の影は消えていた。
幕府軍は、大宰府の水城まで撤退させられていた。
翌日の攻撃に怯えていたら、博多湾から船団は消えていた! ッと書かれている。
『安国論私抄』には、
元軍の損害は捕虜27人、首級39個その他の損害を数知れず。
日本人の損害については戦死者195人、下郎は数を知れず
この文で、幕府軍が勝利をしたと考えられるでしょうか?
文献を調べれば、日本軍が苦戦している文章が多いのです。
結果は元軍を甘く見た為に、シタタカ攻め込まれ損害を受けた!
その証拠に直後から石築地を造りはじめ、弘安の役には博多湾に20kmの元寇防塁となった。
これは膨大な距離と大工事で、元軍に対する恐怖の証と言う訳です。
「元寇」「対馬侵攻」「壱岐侵攻」「肥前沿岸襲来」をキーワードに惨状を調べれば、何が恐怖であるか理解できるでしょう。
拡大できる方は、試してください。大きな写真です。
2016年4月3日の朝刊に夏目漱石の差し出した絵葉書が掲載されている!
明治後期か大正の鎌倉との事。
今まで見た関東大震災前の写真の中で一番鮮明な写真です。
霊仙寺の跡と、その道と思える微妙な陰影が、、、、