不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

相模の古代東海道 6

2015年12月28日 | 古代東海道

相模国府は、倭名類聚抄では大住郡にあったとされる。
1982年 国道129号線(四之宮前鳥神社の周囲)の発掘調査で多量の墨書土器、陶器が出土。1990年に国厨と書かれた土器が出土、ここ四之宮周辺遺跡が、相模国府跡と言われる根拠です。
現地説明会の解説では、
「西方面は豊田本郷の南をかすめて、広川あたりから南下して大磯の国府本郷を経て国府津、足柄峠へ向かう。」
この前提に国衙が「国府津」に在る考えならば、平塚で「国厨と書かれた土器」の出土で、「国府津」ルートは否定される。


 問題は、
  構の内遺跡より東へ向かう山王A遺跡の直線だが、方向が六浦でなく、
  横浜向きに緯度が上がる。何故に六浦港に向かないのか?


路面の9mの道は、初期の駅路と考えられ、目的地の東京湾に向け直線的に作られ、足柄峠から東京湾を渡って千葉に行きます。
よって、
平塚の道路遺構より東へ16Km先の駅家に鎌倉が当り真東の鎌倉より六浦の港に向うと考えます。
問題は、素直に六浦の港の向きでない道の問題です。
その考えは、この緑色の陥凹を影で表した地図にヒントが有ります。
右の川は相模川、左の川は花水川でその間に挟まれて有る平塚の平地のハズが 高低差の影が波を打っているのを理解できるでしょうか?
等高線で表現するには微妙な高さと、町を造る事で消失した自然地形でも、未だ地図から砂山の波の様にウネった情報が得られます。
現地を肉眼で見ても、周囲の建物で視界がサエギラレてこの様には観察できない。
この波の様な砂山が道路の方向を歪める訳です。
当時の土木技術では、この砂山の影響は、避けて通る障害で有ったと考える訳です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

相模の古代東海道 5追加資料

2015年12月23日 | 古代東海道
> 平塚市東中原E遺跡第4地点:2004年4月25日(日) 
> 「古代道路遺跡の現地説明会が開かれた。
>  博物館の説明では
> 「この道は古代東海道の駅路と思われる。」
> 「東方面へは相模国府の中枢部分を経て、そのまま相模川を渡河
>  するか、あるいは少し遡って渡河して、海老名から武蔵の国へ。」
> 「西方面は豊田本郷の南をかすめて、広川あたりから南下して
>  大磯の国府本郷を経て国府津、足柄峠へ向かう。」
博物館の説明で、矛盾している事は。
一、この古代道路遺跡の年代を想定していない。問題は此処から生じる。
二、東方面へは「海老名から武蔵の国へ。」これは、771年に武蔵国を東山道より東海道に編入する話が前提の考えですが問題が有る。
もしそれが正解ならば、茅ヶ崎でも同じ道幅の道路遺構があり、方向は海老名に向うのですが、痕跡は発掘されて無い。
更に、目的地に直線的に向かう古代道の特性が消える原因は、当初の駅路とは年代が違うでしょ?と言う事で考慮が浅過ぎる。
三、西方面は大磯の国府本郷って、この理屈は、平塚の相模国衙の存在は無視し、年代の設定も無視し 思考法に問題が有り過ぎです。

文献で述べられた最初は、646年の大化の改新勅の「駅馬、伝馬」の設置です。
駅路を造る事で重要視した事は、駅路の直線性です。
地方の都合は無視し、目的地に向かい最短距離に作った訳です。
先ずは駅路を造り、国府は次の段階で作られ、更に後の年代で国分寺が作られた訳です。
特に道幅9mの中路規格の道は、初期の東海道規格と考えられ、目的地に向けて直線的に作られる特徴が有る。

その直進性を基準に道を考えよう! それが、今回のテーマです。

上記理由で9m幅の駅路が90度向きを変える事は、初期の古代東海道の特徴を無視し、合理性も無い。
進路を変えるとしたら、771年に武蔵の国が東海道に編入された時と考えられるが、、、
出土遺構は、道幅から初期の東海道遺構で目的地に向かい直線的に作られた道です。771年以降の趣旨の違う話と混同し、 思考が混乱したのでしょうね。
歴史の話ですから、時系列と出来事を整理し、出土した現実を見据えて考えて頂きたいと思います。そうでないと歴史学が廃る。

   以下は、、
   Webに散見する文献で年代と場所が曖昧です。
  曖昧な理由は、根拠薄弱で憶測を含む為と考えます。

◆鎌倉時代を歩く...平塚 前鳥神社 - TOK2.com
23.pro.tok2.com/~freehand2/rekishi/sakitori.html
律令制に従って各地に国府が置かれたのは飛鳥時代の後期から奈良時代の初頭(680~790年頃)。国府が1100年前後に四之宮・前鳥神社周辺(大住郡)から大磯(余綾郡)の六所神社周辺に移転したのは概ね間違いないのだが、①最初から大住郡だった。 ②当初は国分寺のあった海老名で、その後大住郡に移った。 ③当初は千代廃寺のあった小田原で、その後大住郡に移った。 の諸説があり、確定していない。頼朝時代の国府は、もちろん大磯の国府本郷一帯である。

◆相模国府 【グレゴリウス講座】
www.gregorius.jp/presentation/page_30.html
古代の律令国家は、地方を統治するために国・郡に分け、国府・郡衙を置きました。相模国は、大化の改新(645年)の後、相模川流域の相武 (さがむ) 国造の領域と、酒匂川流域の師長(しなが)国造の領域を併合して成立しました。
相模国の国府所在地は、いまだに特定されていません。国府の候補地は四箇所あります。『和名類聚抄』(10世紀前半編纂)および『拾芥抄』では、大住(おおすみ)郡とあります。現在の平塚市で関連の遺跡が発掘されました。『伊呂波字類抄』(12世紀後半成立)では、国府を余綾(よろぎ)郡とします。現在の大磯町と推定されます。この二箇所のほかに、国分寺があった海老名市付近に初期の国府があったとする説、現在の小田原市にある千代廃寺を初期の国分寺とみなしその付近に初期の国府があったとする説もあります。

◆PDF(8.2MB) - 鈴鹿市
www.edu.city.suzuka.mie.jp/museum/kokufu.pdf
相模国 神奈川県平塚市稲荷前 A・構之内遺跡他
 相模国府の所在地は,10 世紀成立の『和名類
聚抄』に大住郡とあり,鎌倉時代増補の十巻本
『以呂波字類抄』に余綾郡とあることから平安末期
における移転が考えられ,さらに相模国分寺が所
在する高座郡に初期国府を想定して,高座(海老
名市)-大住(平塚市)-余綾(大磯町)の国府
三遷説がありました。
 平塚市四之宮地区に想定される国府推定地は相
模川右岸の砂丘ないしは砂州上に位置します。稲
荷前A遺跡をはじめとする推定域内の発掘調査に
よって官衙関連の遺物や遺構が豊富に見出され,
最近では当初から大住郡に国府が設けられ,律令
期の国府は一貫して当地にあったとする説が注目
されるようになりました。
 国庁が見つかっていない相模国府跡において,
最も注目されるのは「国厨」の墨書土器が 6 点出
土した稲荷前A遺跡です。土器の時期は 8 世紀第
3四半期のものです。その他,「大住」や「旧豉
くき
一」
と書かれた墨書土器が出土しています。豉とは,
大豆から造られた調味料とされるもので,『延喜式』
などから武蔵・相模の特産物であったことが知ら
れています。

◆相模 - 神奈川県 伊勢原市 祭囃子
eda.myhome.cx/taiko-2008/private/sagami.html
初期国府所在地と三遷説
  相模国府所在地論は「三遷説」が一般的に理解され、以下の三説が最近まで有望視されてきた。
一・・・海老名(高座郡)→伊勢原比々多(大住郡)→大磯国府本郷(余綾郡)
二・・・海老名(高座郡)→平塚四之宮(大住郡)→大磯国府本郷(余綾郡)
三・・・小田原高田(足下郡)→平塚四之宮(大住郡)→大磯国府本郷(余綾郡)
  この三遷説の一番の問題点は初期国府所在地を海老名(高座郡)や小田原高田(足下郡)にあるとしている点で、前者は海老名に国分寺が存在するという理由であり、その補論として一般的に国府と国分寺は近距離に存在する例が多いことがあげられる。しかしながら、両説とも国府を裏付ける遺跡の詳細な分析に基づいた見解でないところに問題が所在する。

■相模国府 【グレゴリウス講座】
www.gregorius.jp/presentation/page_30.html
平塚市『相模国府を探る』
相模国府の所在地はどこにあったのでしょうか。文献では十二世紀中頃までは大住(おおすみ)郡に、以後は余綾(よろぎ)郡に移転したことが明らかにされています。しかし、考古学的には未だに国庁(国衙の中心施設)は発見されていませんので、多くの見解が発表されてきました。近年までの主流の考え方が、海老名市にある国分寺の関係から海老名市→平塚市→大磯町と三遷した説です。一方、小田原の千代廃寺との関係から小田原市→平塚市→大磯町の説もあります。大住国府が平塚以外に所在したとする説も幾つかありましたが、昭和五十九年の四之宮下郷遺跡群の調査成果によりほぼ確定されるようになりました。同様に、初期国府に関しても新たな資料が平塚で発見されました。「国厨」の墨書土器は少なくとも大住国府が奈良時代後半まで遡ることができるものですので、新たに平塚市→大磯町の見解が再浮上してきました。

◆相模国府祭 - 国府物語
〈komatsu0513.heteml.jp/sagami.html〉
文献には、倭名類聚抄によると相模国府は、大住郡にあったとされる。
平塚には、道路遺構が出土した。
昭和54年(1979)から昭和57年(1982)にかけて、国道129号線の拡幅工事に伴う発掘調査が行われ、平塚市の相模四之宮前鳥神社の周辺から、多量の墨書土器、彩釉陶器、装身具などが出土。さらに平成2年(1990)には国厨(くにのくりや)と書かれた土器が見つかり、ここ四之宮周辺遺跡が、大住郡にあったとされる相模国府の遺跡であることが、ほぼ確定的になった。

◆相模国神社祭礼
<http://eda.myhome.cx/taiko-2008/private/top.html>
相模国府
  相模国府に関しては、9世紀から10世紀前半の様子を伝える二十巻本『和名類聚抄(930年頃成立)』に「府大住(ふおおすみ)」の記載があり、この時期に大住郡に国府があったと解釈されているが、どこまで遡るかは分かっていない。平安末期を示す二巻本・三巻本『色葉字類抄(いろはじるいしょう)』にも大住郡とあるが、鎌倉初期を伝える十巻本『伊呂波字類抄(1163~65年頃成立)』には「余綾府立」が記載されており、この時期には余綾郡に国府があった。また、石清水文書の保元3年(1158年)の官宣旨(かんせんじ)に「相模国 旧国府別宮」とある国府は大住郡、『吾妻鏡』が治承4年(1180年)に源頼朝が富士川合戦の論功行賞を行ったとする国府は余綾郡で、大住郡から余綾郡への国府移遷は1158年以前と考えられている。この余綾郡の国府は、現在において国府祭が行われている大磯町国府本郷近辺である。
  国府所在地や国分寺関係に関する文献、発掘調査による考古学の成果により、考古学者・歴史地理学者・地名学者や郷土学者の諸分野の研究から、相模国府の所在地については多くの見解が出されているが、いずれの説を取り上げても決定的な証拠が上がっていないのが現状である。
初期国府所在地と三遷説

◆ 相模 - 神奈川県 伊勢原市 祭囃子
eda.myhome.cx/taiko-2008/private/sagami.html
相模国府所在地論は「三遷説」が一般的に理解され、以下の三説が最近まで有望視されてきた。
一・・・海老名(高座郡)→伊勢原比々多(大住郡)→大磯国府本郷(余綾郡)
二・・・海老名(高座郡)→平塚四之宮(大住郡)→大磯国府本郷(余綾郡)
三・・・小田原高田(足下郡)→平塚四之宮(大住郡)→大磯国府本郷(余綾郡)
  この三遷説の一番の問題点は初期国府所在地を海老名(高座郡)や小田原高田(足下郡)にあるとしている点で、前者は海老名に国分寺が存在するという理由であり、その補論として一般的に国府と国分寺は近距離に存在する例が多いことがあげられる。しかしながら、両説とも国府を裏付ける遺跡の詳細な分析に基づいた見解でないところに問題が所在する。

◆ 相模 - 神奈川県 伊勢原市 祭囃子
eda.myhome.cx/taiko-2008/private/sagami.html
  奈良朝末の光仁天皇の宝亀2年(771年)10月になると、それまで東山道に属していた武蔵国の所属が東海道に変わり、東海道の経路が相模―上総―下総というものから、相模―武蔵―下総と変更された。それは、東山道は官使の往来が多い上に武蔵国府へ行くには上野国府から長い道を南下しなければならず、さらに下野国府へ行くには同じ道を再び取って返す必要があり、無駄な時間を費やさねばならなかった。ところが東海道のほうは相模国の夷参駅から下総国へ行くのに、そのあいだ武蔵国内の4駅を経由するのみで、さらに武蔵国府へはその4駅の1駅からすぐに達せられるからであった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

相模の古代東海道 5

2015年12月19日 | 古代東海道

################
古代東海道を探すには 国分寺跡、国衙跡、駅屋跡、神社所在地より駅路を推察するのが一般的です。
この手段の根本的間違えは、詳細に調べても道路遺構は推測の話です。
更に相模国衙は数度変遷した上に年代考証も曖昧です。
    要は、 全くの情報不足です。
権威を持つ研究発表は、多くの推測を含み『であろう』と書いた話は
『っと言われている』から『です』になる。
決定的な証拠も無く色々な説が生まれ、道路遺構を発見した実績は平塚だけで、収拾が付かない現状です。
この様な研究方法には、資料不足から起きる推測や憶測の中から出られない限界が在る訳です。
################

唯一公認されている古代東海道道路が平塚の東中原から四ノ宮迄の発掘遺構です。
青いラインから古代道路が離れたソノ理由は?
大磯丘陵が邪魔な為に秦野盆地経由で道を造った事が考えられる。

青いラインより北側に寄っている居るのが理由ですが、
もし 海側に道を造れば、青いラインより海に近い場所から道路遺構が出土される筈ですが、それは無い。
結論として 古代東海道は大磯丘陵を避けて、山側の秦野盆地を通った。
そう考える「ぼ輔」ですが、現地説明会はこれを否定している。
「西方面は豊田本郷の南をかすめて、広川あたりから南下して大磯の国府本郷を経て国府津、足柄峠へ向かう。」と言う見解です。
キット 小田原厚木道路に沿って二宮に抜けるパターンを考えているのでしょうが、、、証拠は無いし、道路の直線性は無視されている
さて、、後半いかに展開するか お楽しみに!

 目的地に向かって直線に作るベキ道ですが、この道路遺構は、
一、構之内第3地点で曲がっている。
二、西に向けては秦野盆地に向いている。
三、東に向けては鎌倉向きではなく、微妙に北上がり(横浜向き)です。


これ等の直線では無く、目的地を向いてない理由は、、、何か?
東山道武蔵路の様な単純な直線では無いですね!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

相模の古代東海道 4

2015年12月15日 | 古代東海道
『文献が少なく、発掘遺構も少なく 何処を通っているか謎!』
発掘された道路遺構は、1%にも成らない。そんな現状で全体像の予測は、情報不足で不可能です。
それでも、全体像をマトメる必要が有るのが研究書で、虚実不明な記述となる。
結果は、虚実不明なマトメは衆知の根拠不明な常識となります。
そんな常識は無視し、、、古代東海道の根拠である古文献、遺構、現存する掘り切り遺構、地名等でラインを造ってみましょう。0

 そんな状況で、
唯一公認されている古代東海道道路遺構が、平塚の東中原の発掘遺構で赤いマークを付けました。
青いラインから道路遺構が離れた理由は何か?
その遺構の不自然な経路を検証しましょう。

中央の赤い印が東中原道路遺構です。
足柄峠と平塚の平野に在る大磯丘陵が障害に成ります。
それを回避するには、
海の際を通るか、山側の秦野盆地より金目川の脇を抜ける通路が考えられますが、
東中原道路遺構の場所から山側の秦野盆地へ回避して駅路を作った様子が伺えます。

相模国府は、倭名類聚抄では大住郡にあったとされる。
1982年 国道129号線(四之宮前鳥神社の周囲)の発掘調査で多量の墨書土器、陶器が出土。1990年に国厨と書かれた土器が出土、ここ四之宮周辺遺跡が、相模国府跡と言われる根拠です。

しかし、、、この道路遺構は、、、直線では無い!
 真っ直ぐなハズの駅路が曲がっている理由は?  何でしょうか??
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

相模の古代東海道 3

2015年12月08日 | 古代東海道

地図の
左は足柄峠の目印となる矢倉岳で 右は六浦の港に成り、最短距離の直線を引きました、此処に道を造るのが朝廷の意向となります。
私が探すのは、大化の改新(西暦646年)で作られた初期の路面幅9mある古代駅路です。
現代の研究書やWebで検索すると、この年代の考慮無しに古代駅路の研究発表をしています。
古代駅路(東海道、東山道)は、前期と後期が有るとされており、前期は中路規格の道幅9mの道路であり、後期は6m以下に縮小されたり、別路に付け替えされたとなっています。
他の資料と比較は、駅路の年代を考慮された記述か?注意して読んでください。
(道幅6mや3m程度でも駅路の痕跡であるとしたり、直線性が破られていても駅路の痕跡と、無茶な理屈を付ける書物が散見します。このHPで扱うのは、初期の古代東海道です。)


古代東海道の通過経路の想定を青ラインで直線を引き、実際の駅路遺構や痕跡の違いは? と言う事です。
その程度が不明なママ、、古代駅路は「直線である」と強調されても単なる憶測であり、自然を甘く見た研究です。
山、川、その他の障害物の存在があるので、、直線道路造成が無理となる訳です。
道幅9mの直線道だけでも困難な上に、自然環境の障害に勝てる程の土木技術は無い時代です。
上の図に自然地形の障害に成る山と川等の空中写真を加えます。

如何でしょうか?
この平塚の平野と足柄平野の間に在る山は、大磯丘陵と呼ばれます。
丘陵に直線道路を造れば、、どの場所を通るのか?
現代の技術で山の少ない場所に直線を通した例が小田原厚木道路です。トンネルと陸橋なしには実現できない。
(ご興味のある方はどの様に困難な丘陵なのか高速道路を走って起伏を実感してください。困難な場所を迂回して造られて居ますが、限界があるとトンネルで切り抜けます。)
大磯丘陵の真ん中に道を作るのは困難ならば、、、
どこに道を造りましょうか?

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

相模の古代東海道 2の補足

2015年12月06日 | 古代東海道
足柄峠の古代東海道のを通った確証は?
文献は、色々有りますが、、
富士の十里木峠より残る直線の痕跡は足柄峠の西からの登り口相沢川の「渡り上り」へ向かう。
(竹之下の足柄駅とは、方向がずれる。)
「太平記 竹之下合戦(建武二年) 戦跡 渡り上り 為冬卿が退陣の際、川を渡り所領に向った場所」とあり、周辺には白旗神社がある。
其処より足柄峠に向かう峰には、竹之下より道幅が広く、傾斜が緩やかで、直線的な道路痕跡が見られる。
古代東海道に相当する道幅の痕跡が有る事で足柄峠が基準です。

六浦の港の根拠は、鎌倉に郡衙が在った事と、朝比奈の切通が7mあり、七口の中で破格な道幅がある。
挙句は、朝比奈三郎が一夜で切り開いた道路幅は4mで、この事により、鎌倉時代以前に古代東海道が存在した事が伺える。(鎌倉から東へ抜ける道は朝比奈切通の4m幅の道は例外に広い事と、それ以上に切通幅は7m有り、鎌倉時代以前に広い道が存在した事を裏頭けている。)
逗子を経由した古代東海道の痕跡は無いので日本武尊の話は否定できる。
朝比奈を古代東海道が通れば、六浦が港として最適な場所です。
鎌倉から西へ抜けるには、、、相応の痕跡が在りますが、確証が掴めずに「隠された切通し」状態で在ります。
小坪や披露山に古東海道と称す道が在りますが、根拠は日本武尊が通った道と言う、、論外な根拠の道です。

以上が二点を設定した理由です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

相模の古代東海道 2

2015年12月01日 | 古代東海道

相模の国の古代東海道の概略を考えました。
左の赤丸は足柄峠の象徴となる矢倉岳(注1)です。
右は東京湾に乗り出す港の六浦港(注2)です。
   一般的には大和武尊の通った道ですが、
   初期駅路と大和武尊の道は関連は無い。(注3)
   蛮族退治の東征と朝廷に帰属した地方に道を造るのは同一に出来ない。
   同じ海上を渡るにしても、六浦から市原市へ渡る方が合理的です。

矢倉岳と六浦港の間を古代東海道が通ると考える訳です。
この2点の何処を通るか?
と云う問題がテーマです。

(注1)矢倉岳は、独特な形と高さが有るので、
   街道を歩く人の目印になり、道路を造る
   時の基準に成る。
(注2)古代東海道は東京湾を船で渡り、千葉か
   ら茨木に向かう道筋です。
(注3) 『■記 2006年06月01日古代東海道駅路跡』に詳細を記載。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする