◆> 平塚市東中原E遺跡第4地点:2004年4月25日(日)
> 「古代道路遺跡の現地説明会が開かれた。
> 博物館の説明では
> 「この道は古代東海道の駅路と思われる。」
> 「東方面へは相模国府の中枢部分を経て、そのまま相模川を渡河
> するか、あるいは少し遡って渡河して、海老名から武蔵の国へ。」
> 「西方面は豊田本郷の南をかすめて、広川あたりから南下して
> 大磯の国府本郷を経て国府津、足柄峠へ向かう。」
博物館の説明で、矛盾している事は。
一、この古代道路遺跡の年代を想定していない。問題は此処から生じる。
二、東方面へは「海老名から武蔵の国へ。」これは、771年に武蔵国を東山道より東海道に編入する話が前提の考えですが問題が有る。
もしそれが正解ならば、茅ヶ崎でも同じ道幅の道路遺構があり、方向は海老名に向うのですが、痕跡は発掘されて無い。
更に、目的地に直線的に向かう古代道の特性が消える原因は、当初の駅路とは年代が違うでしょ?と言う事で考慮が浅過ぎる。
三、西方面は大磯の国府本郷って、この理屈は、平塚の相模国衙の存在は無視し、年代の設定も無視し 思考法に問題が有り過ぎです。
文献で述べられた最初は、646年の大化の改新勅の「駅馬、伝馬」の設置です。
駅路を造る事で重要視した事は、駅路の直線性です。
地方の都合は無視し、目的地に向かい最短距離に作った訳です。
先ずは駅路を造り、国府は次の段階で作られ、更に後の年代で国分寺が作られた訳です。
特に道幅9mの中路規格の道は、初期の東海道規格と考えられ、目的地に向けて直線的に作られる特徴が有る。
その直進性を基準に道を考えよう! それが、今回のテーマです。
上記理由で9m幅の駅路が90度向きを変える事は、初期の古代東海道の特徴を無視し、合理性も無い。
進路を変えるとしたら、771年に武蔵の国が東海道に編入された時と考えられるが、、、
出土遺構は、道幅から初期の東海道遺構で目的地に向かい直線的に作られた道です。771年以降の趣旨の違う話と混同し、 思考が混乱したのでしょうね。
歴史の話ですから、時系列と出来事を整理し、出土した現実を見据えて考えて頂きたいと思います。そうでないと歴史学が廃る。
以下は、、
Webに散見する文献で年代と場所が曖昧です。
曖昧な理由は、根拠薄弱で憶測を含む為と考えます。
◆鎌倉時代を歩く...平塚 前鳥神社 - TOK2.com
23.pro.tok2.com/~freehand2/rekishi/sakitori.html
律令制に従って各地に国府が置かれたのは飛鳥時代の後期から奈良時代の初頭(680~790年頃)。国府が1100年前後に四之宮・前鳥神社周辺(大住郡)から大磯(余綾郡)の六所神社周辺に移転したのは概ね間違いないのだが、①最初から大住郡だった。 ②当初は国分寺のあった海老名で、その後大住郡に移った。 ③当初は千代廃寺のあった小田原で、その後大住郡に移った。 の諸説があり、確定していない。頼朝時代の国府は、もちろん大磯の国府本郷一帯である。
◆相模国府 【グレゴリウス講座】
www.gregorius.jp/presentation/page_30.html
古代の律令国家は、地方を統治するために国・郡に分け、国府・郡衙を置きました。相模国は、大化の改新(645年)の後、相模川流域の相武 (さがむ) 国造の領域と、酒匂川流域の師長(しなが)国造の領域を併合して成立しました。
相模国の国府所在地は、いまだに特定されていません。国府の候補地は四箇所あります。『和名類聚抄』(10世紀前半編纂)および『拾芥抄』では、大住(おおすみ)郡とあります。現在の平塚市で関連の遺跡が発掘されました。『伊呂波字類抄』(12世紀後半成立)では、国府を余綾(よろぎ)郡とします。現在の大磯町と推定されます。この二箇所のほかに、国分寺があった海老名市付近に初期の国府があったとする説、現在の小田原市にある千代廃寺を初期の国分寺とみなしその付近に初期の国府があったとする説もあります。
◆PDF(8.2MB) - 鈴鹿市
www.edu.city.suzuka.mie.jp/museum/kokufu.pdf
相模国 神奈川県平塚市稲荷前 A・構之内遺跡他
相模国府の所在地は,10 世紀成立の『和名類
聚抄』に大住郡とあり,鎌倉時代増補の十巻本
『以呂波字類抄』に余綾郡とあることから平安末期
における移転が考えられ,さらに相模国分寺が所
在する高座郡に初期国府を想定して,高座(海老
名市)-大住(平塚市)-余綾(大磯町)の国府
三遷説がありました。
平塚市四之宮地区に想定される国府推定地は相
模川右岸の砂丘ないしは砂州上に位置します。稲
荷前A遺跡をはじめとする推定域内の発掘調査に
よって官衙関連の遺物や遺構が豊富に見出され,
最近では当初から大住郡に国府が設けられ,律令
期の国府は一貫して当地にあったとする説が注目
されるようになりました。
国庁が見つかっていない相模国府跡において,
最も注目されるのは「国厨」の墨書土器が 6 点出
土した稲荷前A遺跡です。土器の時期は 8 世紀第
3四半期のものです。その他,「大住」や「旧豉
くき
一」
と書かれた墨書土器が出土しています。豉とは,
大豆から造られた調味料とされるもので,『延喜式』
などから武蔵・相模の特産物であったことが知ら
れています。
◆相模 - 神奈川県 伊勢原市 祭囃子
eda.myhome.cx/taiko-2008/private/sagami.html
初期国府所在地と三遷説
相模国府所在地論は「三遷説」が一般的に理解され、以下の三説が最近まで有望視されてきた。
一・・・海老名(高座郡)→伊勢原比々多(大住郡)→大磯国府本郷(余綾郡)
二・・・海老名(高座郡)→平塚四之宮(大住郡)→大磯国府本郷(余綾郡)
三・・・小田原高田(足下郡)→平塚四之宮(大住郡)→大磯国府本郷(余綾郡)
この三遷説の一番の問題点は初期国府所在地を海老名(高座郡)や小田原高田(足下郡)にあるとしている点で、前者は海老名に国分寺が存在するという理由であり、その補論として一般的に国府と国分寺は近距離に存在する例が多いことがあげられる。しかしながら、両説とも国府を裏付ける遺跡の詳細な分析に基づいた見解でないところに問題が所在する。
■相模国府 【グレゴリウス講座】
www.gregorius.jp/presentation/page_30.html
平塚市『相模国府を探る』
相模国府の所在地はどこにあったのでしょうか。文献では十二世紀中頃までは大住(おおすみ)郡に、以後は余綾(よろぎ)郡に移転したことが明らかにされています。しかし、考古学的には未だに国庁(国衙の中心施設)は発見されていませんので、多くの見解が発表されてきました。近年までの主流の考え方が、海老名市にある国分寺の関係から海老名市→平塚市→大磯町と三遷した説です。一方、小田原の千代廃寺との関係から小田原市→平塚市→大磯町の説もあります。大住国府が平塚以外に所在したとする説も幾つかありましたが、昭和五十九年の四之宮下郷遺跡群の調査成果によりほぼ確定されるようになりました。同様に、初期国府に関しても新たな資料が平塚で発見されました。「国厨」の墨書土器は少なくとも大住国府が奈良時代後半まで遡ることができるものですので、新たに平塚市→大磯町の見解が再浮上してきました。
◆相模国府祭 - 国府物語
〈komatsu0513.heteml.jp/sagami.html〉
文献には、倭名類聚抄によると相模国府は、大住郡にあったとされる。
平塚には、道路遺構が出土した。
昭和54年(1979)から昭和57年(1982)にかけて、国道129号線の拡幅工事に伴う発掘調査が行われ、平塚市の相模四之宮前鳥神社の周辺から、多量の墨書土器、彩釉陶器、装身具などが出土。さらに平成2年(1990)には国厨(くにのくりや)と書かれた土器が見つかり、ここ四之宮周辺遺跡が、大住郡にあったとされる相模国府の遺跡であることが、ほぼ確定的になった。
◆相模国神社祭礼
<http://eda.myhome.cx/taiko-2008/private/top.html>
相模国府
相模国府に関しては、9世紀から10世紀前半の様子を伝える二十巻本『和名類聚抄(930年頃成立)』に「府大住(ふおおすみ)」の記載があり、この時期に大住郡に国府があったと解釈されているが、どこまで遡るかは分かっていない。平安末期を示す二巻本・三巻本『色葉字類抄(いろはじるいしょう)』にも大住郡とあるが、鎌倉初期を伝える十巻本『伊呂波字類抄(1163~65年頃成立)』には「余綾府立」が記載されており、この時期には余綾郡に国府があった。また、石清水文書の保元3年(1158年)の官宣旨(かんせんじ)に「相模国 旧国府別宮」とある国府は大住郡、『吾妻鏡』が治承4年(1180年)に源頼朝が富士川合戦の論功行賞を行ったとする国府は余綾郡で、大住郡から余綾郡への国府移遷は1158年以前と考えられている。この余綾郡の国府は、現在において国府祭が行われている大磯町国府本郷近辺である。
国府所在地や国分寺関係に関する文献、発掘調査による考古学の成果により、考古学者・歴史地理学者・地名学者や郷土学者の諸分野の研究から、相模国府の所在地については多くの見解が出されているが、いずれの説を取り上げても決定的な証拠が上がっていないのが現状である。
初期国府所在地と三遷説
◆ 相模 - 神奈川県 伊勢原市 祭囃子
eda.myhome.cx/taiko-2008/private/sagami.html
相模国府所在地論は「三遷説」が一般的に理解され、以下の三説が最近まで有望視されてきた。
一・・・海老名(高座郡)→伊勢原比々多(大住郡)→大磯国府本郷(余綾郡)
二・・・海老名(高座郡)→平塚四之宮(大住郡)→大磯国府本郷(余綾郡)
三・・・小田原高田(足下郡)→平塚四之宮(大住郡)→大磯国府本郷(余綾郡)
この三遷説の一番の問題点は初期国府所在地を海老名(高座郡)や小田原高田(足下郡)にあるとしている点で、前者は海老名に国分寺が存在するという理由であり、その補論として一般的に国府と国分寺は近距離に存在する例が多いことがあげられる。しかしながら、両説とも国府を裏付ける遺跡の詳細な分析に基づいた見解でないところに問題が所在する。
◆ 相模 - 神奈川県 伊勢原市 祭囃子
eda.myhome.cx/taiko-2008/private/sagami.html
奈良朝末の光仁天皇の宝亀2年(771年)10月になると、それまで東山道に属していた武蔵国の所属が東海道に変わり、東海道の経路が相模―上総―下総というものから、相模―武蔵―下総と変更された。それは、東山道は官使の往来が多い上に武蔵国府へ行くには上野国府から長い道を南下しなければならず、さらに下野国府へ行くには同じ道を再び取って返す必要があり、無駄な時間を費やさねばならなかった。ところが東海道のほうは相模国の夷参駅から下総国へ行くのに、そのあいだ武蔵国内の4駅を経由するのみで、さらに武蔵国府へはその4駅の1駅からすぐに達せられるからであった。