鎌倉街道 を探そう! 古代東海道痕跡to鎌倉城と    

古代東海道は、鎌倉城を作る為に頼朝に封印された! 地図、写真で紹介。

富士山中 に東海道 十里木 2021

2021年10月03日 | 古東海道 足柄、箱根、富士

「富士山中 に東海道 十里木」
2021/10 のgoogle map 3D画像です。
誰でもこれを再現できるし、 更に詳細に拡大もできる!

画像下部のGoogleロゴから真上に向けて 直線的な痕跡が在ります。
その方向は、箱根の外輪山「長尾峠」方向であり、画像ではゴルフ場が写っています。

下図は途中から折れ曲がり「足柄の尾根」根元に向かいます。

判り易い様に、画面下のGoogle の場所に池を入れました。
道はやはり真上に向けて在りますが、足柄向けは痕跡が薄く、、判りにくい。
現地での確認は視認するのはトテモ困難と思いますし、私も確認していません。
上空から大きな視野でならば、、、確認できますよ!っと言う事です。
足柄向けは痕跡が薄い上に 季節、下草の野焼き、日照時間に依る影の変化、等の条件で確認のし易さが変化します。
数年前のスマホのGPS性能では、現在地の確認ができずに私は失敗しています。
GPSの性能が良く、荒野でも位置が確定できれば、可能が広がる。

何方かチャレンジして欲しいと思いますが、、、
やる方が居られたら、、是非レポートしてください!!

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東富士演習場の立ち入り その後2

2019年02月15日 | 古東海道 足柄、箱根、富士
この大化の改新後の駅路痕跡は、4㎞弱の距離があります。
しかし、目前に有っても野原が見えるだけ!
駅路痕跡の真上に立って、直線方向を見た時だけ解る!
簡単ではありません!
広大な東富士演習場の中で、特定地点の上に立つことは十分にGPSを使いコナセル事が必要条件!
スマホの電波は届かず、アラカジメ地図を仕込む(オフライン地図アプリ等)必要が有ります。
若しくは、この地形を習熟し、道路の分岐点等を区別できる事が必要です。
古代駅路上に立てても、自然条件が問題です。
時期次第で下草が伸び過ぎたり、野焼きが行われたり、雪が降りナドの自然条件次第では、遺構の確認不可状態も考えられます。
Googleマップの様に上空から好条件で良く見える事は期待できません。
鎌倉城にしても、東富士演習場にしても、大きすぎる事で目の前に在る物が認識できない事が在る訳です。

ある意味、、
物の見方考え方が無いと、目前に有っても判らないでしょうし、、
下手な日に行けば鉄砲玉が飛んでくるでしょうし、、
 基本は侵入禁止地区のダート道でサバイバルの演習現場です。
現地に立っても確認できるかは、、アナタ次第。

確認出来ない原因は、大自然の対応能力が低く自然の変化に対応できない貴方がいる訳です。
その時は、顔を洗って出直しをしましょう。
私も、一度では見つけられなかった!
これ等のgoogle地図以外の現地写真は、5月の連休に写された写真です。


上記は、十里木峠から交点に向かう道で、箱根の長尾峠の方向です。


これが、交点の場所ですが、真上から見ると、、、


これが、真上から見た交点です。

次回は、交点から次の直線を見ると、、、
その方向は足柄で足柄峠の登り口に向かう訳です。
しかし、
御殿場線の足柄駅とは違う方向で、竹之下の方向ではない。
竹之下の様な狭い谷を曲がりくねって登る考えは、古代東海道には無い。
更に、鎌倉時代の足柄峠では道幅が取れず、坂の傾斜も強すぎて、道としての品位に欠けます。
基本的には谷道では無く、峰通しの道が古代東海道のパターンですが、、、
それでは、何処を通るのか??
以前にもこのブログで書きましたが、、、交点から向かう直線がその登り口を示します。
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東富士演習場の立ち入り その後

2019年02月07日 | 古東海道 足柄、箱根、富士
東富士演習場の立ち入り から5年が過ぎました。

私の持論だけでなく、誰でもgoogle地図を扱えれば、この痕跡を確認出来る「富士山に人手を加えた古代の巨大遺構を紹介しました。」
考古学の特異な分野ですが、、一般人でも検証できる遺構です。
出来なければ、google地図の操作が習熟されて無い為で、頑張って使い慣れてください。

2014年以後ののgoogleマップは解像度に優れて優秀です。(10年前は山間部の解像度が悪く使えなかった。)

更に5年経ちネットの環境が良くなり、googleマップも国土地理院のマップも精度が上がって見やすくなっています。
その様な訳で現在のGoogleマップで古代駅路と思われる遺構は どの様に見られるか?と言う検証です。


上図 画面上は足柄峠の峰であり、左下は十里木峠です。
今回の画像は、十里木と、折れ曲がった交点の間の画像です。


画面中央を下から上にラインが有ります(赤矢印の間)が、屈折点より西に向いた画面で 御殿場より十里木峠に登って行く図です。


上図は、同じ道を逆に下って行く十里木より御殿場向き(箱根山の長尾峠を向く)の図です。


上図は、同じ図の拡大です。

次回は交点の状態です。
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足柄峠越え 5

2018年03月15日 | 古東海道 足柄、箱根、富士

「古代東海道 蒲原から足柄ルート19」の写真はこの様な道路傍から入ります。
ちょうど車が駐車できる空き地があります。
この駐車場の奥を進むと断崖に成り、来た方向を振り返ると「ルート19」の写真の光景が見れます。

其処で、ハテナ?となります。
道の先は断崖ですから、、、、、、、道としては成立しない!
そんな、道路破壊工作は、幾通りも見ている為、、そんな疑問は薄くて「この場所も破壊されているのか、、、、」っという私の感想です。

更に峠に向かうと、これから足柄城の脇と言う場所に下のような場所が在ります。
寺庭城跡
寺庭城は直路ヶ尾ルートでも触れたように足柄城五連郭の前衛的な城郭虎口遺構と考えられています。もともと寺庭とは峠からの舗装道路が大きく左にカーブするところの内側の平場をいうようです。この場所がなぜ寺庭と呼ばれるのかは今では知る人もなく、研究者の説では聖天堂の旧地とするものもあるようです。右の写真は寺庭の平場の西側の大堀切とよばれる窪地です。

状態から見ると、古代東海道の規模の在る空間です。

足柄明神の鳥居際にある空間も、同様な特徴を持ちます。

足柄明神跡
右の写真は現在の足柄峠東側、足柄城跡東曲輪(明神山)の南側にある足柄明神の石祠です。足柄明神は矢倉岳の矢倉明神から狩野岩村の矢倉明神へと遷座していたようです。古代官道が越えた足柄坂(神の御坂)の神は足柄明神であったとし、足柄の古道は足柄明神のそばを通っていたと考えられます。現在ある石祠は明治期の新しいものですが、この場所が神社の旧地と伝えられているのす。

足柄城の明神曲輪(くるわ)空堀跡

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箱根の古代道 上

2014年11月13日 | 古東海道 足柄、箱根、富士
■ 記 2006年12月18日
箱根の古代道

これは、箱根全山をカシミールと言うソフトで作った図ですが、、、
この中に、802年に作られた足柄代替の古道が作られた痕があるはずです。
その道は何処を通ったか?この地図から予想して欲しいと思うのです。
その道の作られた経緯は、

800年 富士山が大噴火。
802年 富士山噴火で使用不可になった足柄路の代りに箱根路を開く。
その後数年して後、足柄路が再開となる。
これが、文献に書かれた事です。
(日本紀略 - 廃相模国足柄路,開筥荷途,以富士焼碎石塞路也)


現在知られている古道として、
箱根峠から都に向けて(峠から西の三島に向け)推定平安鎌倉古道と言うのが在ります。
とても、直線的に作られた道です。
箱根峠から東の鎌倉に向けては、湯坂道が在り中世に使われた様子が文献より伺えます。
しかし湯坂道は、推定平安鎌倉古道に有る道の造りの品格が無い。
同じ背景で造られた道に思えないのです。
では、箱根峠より東に向けた道が湯坂道以外に有るのでしょうか?
それを探す手掛かりとして、この図を提示しました。
如何ですか?

■ 記 2009年03月03日
続 箱根の古代道

箱根の古代道を書いたのは2006/12で、それから一年以上経ってしまいました。
このバーチャルな画面から、、何か想像できましたか?
とりあえず、
赤でマークした箱根西坂の「推定平安鎌倉古道」と、その接点の箱根峠、そして水色でマークした平安鎌倉時代に使われた湯坂道です。
この他に箱根峠より東に街道を作るとすれば、貴方なら何処に作ります?

■ 記 2009年03月05日
続 箱根の古道1

さて、、、
湯坂道の脇にピンクのマークの線を書き加えました。
これは、江戸東海道です。
湯坂道は、尾根筋に作った道で、江戸東海道は谷底の川筋に作った道です。そのポリシーの差は雲泥の違いがあります。この道の他に街道は作れないか?

古代道の定番は、
 ①尾根を通る。
 ②直線的な道である。
っと言う訳ですが、、、
湯坂道は、尾根を通り直線的ですね、、、
でも、、箱根峠から芦ノ湖に降り、湯坂の尾根に入る間は、結構曲がっている!
貴方は、この画像から①②の条件の道を考えられますか?

■ 記 2009年03月08日
続 箱根の古代道2

もう一枚箱根の地図を載せます。
地形だけのデータですが、、、、古代に道を作った人は、何の先入観も無く
この様な箱根の地形を把握して、何処に道を作るか?考えた訳です。
貴方なら、何処に道を作るか?
文献を参考に考えるのではなく、貴方ならどの様に道を作るか?
 ①尾根を通る。
 ②直線的な道である。
流水で作られた岩壁、がけ崩れ等、災害の多い谷筋より尾根道を通るのは、山登りをする人の定番です。
目的地に向けなるべく早く! = 目的地に直線的に移動する!
そんな条件での箱根の道作りです。
画像は、カシミールにより、50mメッシュ標高データを使用。

■ 記 2009年03月12日
続 箱根の古代道3

赤い線は、平安古道と言われる湯坂道です。
事の始まりは、
太閤秀吉が、小田原攻めをした時に、大軍を通すのが困難な蔦の細道の脇に道を作った。
鎌倉時代に作られたとか、秀吉が作ったとか語られているのですが、、
史実は不明だが、前の時代の道を太閤秀吉がリメイクしたであろうと考えられ。
秀吉の取り巻きに、道に詳しい者が居たと想像できる。
その秀吉は、箱根湯本の早雲寺に陣を張った。
箱根湯本は、湯坂道を降りた場所。
しかし、小田原城を攻めるに困難を感じたので、策を立てた!
 その策とは、
小田原城より立派な城を建て威圧しようと言う心理作戦です。
威圧するだけの外見を持たなければ意味は無い。
俗に言われる一夜城! 石垣山城です。
関東で初めてと言われる、石垣で囲まれた城です。
それには、資材の石が要る!  資材を運ぶ「道」が必須です。
蔦の細道の再現!
秀吉の取り巻きの「道に詳しい者」の出番となる!!
そして、古街道の下見をした結果、、、
単なる山道ではなく資材を運ぶに耐える道であった。
 その上で、、
小田原城を上から見下ろせ、小田原の状況が丸見えの場所を選んだ!!
そんなストーリーをぼ輔は想像したのです。

■ 記 2009年03月13日
続 箱根の古代道4

赤い線は、平安古道と言われる湯坂道で、桃色の線は関白道と言われ、一夜城に続く道です。
注目するのは、箱根峠より非常に直線的に一夜城迄続いている事と、
古代道のパターンの尾根筋を通る道で有るのは、一目瞭然です。

関白一夜城
地元では関白道と呼ばれている道ですが、
城を作る事を優先するか?ハタマタ、道を作ることを優先するか?
どちらも一大工事です。
築城の資材を運ぶ道は、獣道や人が歩ける程度では無理です。その様な運搬ルートを探すのは困難な箱根の地形なのです。
富士山と同じ形をした巨大な元箱根山が自重で陥没し、陥没した内側は崖となり残った。
外輪山の内側は、急激な崖で歩行困難です。
湯本に降りる道も、水流に削られた川筋を避け、平安鎌倉時代は尾根の湯坂道を使った。
よりナダラカで歩きやすい道を目指し、江戸時代は道造りに困難な川筋ルートを作った。
しかし、人馬は通れても大量の石材を短期に運搬するのは、役不足な道に思えます。
問題は、
それ以前の古代道の話ですが、、、
秀吉の取り巻きも、、
箱根で築城するのは、資材を運ぶ道が無ければ考えない策!!
 っと ぼ輔は考えたのです。
箱根は他に城が有りますが実用本位の山城で、、、
外見を意識した石垣の城「外から資材を運んで作った」のは石垣山城(一夜城)だけです。
図示したピンクのマークの道は、外輪山の尾根道です。
関白道と地元で呼びますが、蔦の細道の脇道宇津の谷峠は鎌倉時代に作られたと思われる道が「秀吉が作った」話になる。
廃道となり忘れ去られた道を整備したら、ソリャ整備して使える様にした人の名前が付く。秀吉が造った道ですから、、「古代道では無い!」その様な理論は成り立たない事に注目して欲しい。

 ここ迄が、話の前振りです。
古代道探しは、推理ゲームですね!
学術的に証明しよう!なんて言うい気持ちはサラサラ無い!
推理した場所に、思った通りの痕跡が有れば、ぼ輔の興味は完結する。
関白道は、これからが山場です。


■ 記 2009年03月22日 
続 箱根の古代道5

この道は802年の富士噴火により、足柄路より箱根路に官路を変えた痕跡ダ!
っと証明なんて、、、
富士の噴火で急遽作った道に道幅の広さを期待できません。その為に古代道と特定するのは無理と考えています。
また、、、
関白道と呼ばれても、古代道のリメイクを否定する根拠にはならない。
前回の「続 箱根の古道4」に書いた通りです。
状況としては、幾らでも話せる!
古代道の特徴の直線的な事。
初期の道作りの山の峰を通す。
直線的な事で言えば、鞍掛山から一夜城までは、10k以上もある直線的な尾根です。
平安から鎌倉時代に使われた湯坂道とは、比べようが無い位の直線的な尾根道を作れます。
そして、関白秀吉により資材を運搬するに使われた実績もある。
箱根西坂の推定平安鎌倉古道と対比させても、直線性に遜色が無い。
道幅と、切り通した道の規模に東坂は、貧弱さを感じるのですが、、、
それも、噴火以降、平安鎌倉時代まで補修を繰り返し使い続けた西坂と、富士噴火以来湯坂道に座を追われて廃れた東坂の違いか? 等考えています。
それも、今は箱根ターンパイクにより、、、ズタズタに切り裂かれ、ある所は古道の上に道がつくられ、、
でも、わずかに残った痕跡と考えられる道を見つける事は可能です。
その手段は、、、
空中写真があります。
図は、
GoogleEarthより引用。
ピンクのマークは、古道を林道にリメイクしたと考えられる道で、その延長の青マークのラインは、古道跡と思われる峰通しの痕跡。
この場所を、国土地理院の空中写真で立体視すると、、、納得モノですが!
googleやyahooでも地図検索で、衛星写真が使えます。
安易がお好みならば、そちらで調べてみて下さい。

■ 記 2009年03月27日
続 箱根の古代道6 

この記事は事前の資料をまとめる事もありますが、、
リアルタイムで ぼ輔の進行中の考え、探索資料などが書かれています。
この為、過去の記事で修正したい処も多々ありますが、、
現在の興味が優先して、修正まで至りません!

今回の画像は、googleで使われている衛星写真ですから、近年の画像です。
その映像ですら、この様に直線的なラインが見出せます。
「続 箱根の古代道5」一夜城脇からのピンクのラインは林道ですが、
その先に在る水色のマークをしたラインが今回のピンクに囲まれた映像です。
黒く一直線なラインが確認できるとおもいますが、、、
このラインには、林道が無い。このラインの下に桜山林道がウネッタ状態でありますから、
林道とは区別できます。
この程度なら、誰でも居ながらにして、古道跡を探索出来るのです。
「貴方も探して見ませんか?」
と言う訳です。
このラインの実態は、どの様になっているのか?
目にしたいと思いませんか?
山の探索は植物が萌える前、、、今の時期が一番です!
それ以降は、葉が行くての視界をサエギリ目隠し状態になります。
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箱根の古代道 下

2014年11月11日 | 古東海道 足柄、箱根、富士
■ 記 2009年03月30日 箱根の古代道 7

googleの航空写真をご覧になりましたか?
やられて無い方の為に、、、

google画面の左最上部を注目
「ウェブ 画像 地図 ニュース 動画 Gmai その他 ▼」
から、地図を選択!

検索欄に「ターンパイク」と記入

「航空写真」を選択

この様な手順ですが、、、

今回の画像は、「箱根の古代道6」を拡大しただけです。
画面 右上より左下にかけて、黒いラインが見えます。
半端でなく、、キッチリ見えるでしょ?
単なる獣道や、人の踏み跡でこの様なラインは出来ません。
それは、丹沢などの沢道を考えると、列を作って沢登りをした時代がありますが、
今では、道を探すのも困難です。
歩きやすいルートを探して登ると、岩が滑らかに磨り減っていたり、足掛かりが適当な間隔で有ったりで、この場所は歩き込まれた道と確認できる。
その位、、、大規模に人工的に作られた道でないと、自然界では痕跡など残らない。
っと「ぼ輔」は考えているのです。
古代道は、緊急に作った道でも その程度の規模は有ったと言う事です。
googleの航空写真とはいえ、これは衛星写真でしょうね!
数年前のgoogle映像は、こんなに鮮明ではなかった!
とても良い状態で使えてウレシイ!
でも、立体視出来ると、、、こんなものではないのです!!
単なる場所の特定だけでなく、道の構造まで見えてくる。

■ 記 2009年04月08日 箱根の古代道 8

立体視した時の画像を載せましたが、
画質が悪いのを承知で小さくしました。
何故か? 
ワザワザ画像を取り込んで大きさを調節して見るマニアックな方は少数派では?と言う考えです。
立体視は如何ですか?
桜山林道は未だ出来てない時代ですが、
ターンパイクは写っているので、これを基準に古道を確定してください。
山の峰を通すと一言で言い切っても、程度は、、、
この場合峰より一段下がっている場所です。
箱根西坂の尾根とは違い、、この東坂は、箱根外輪山の巨大尾根です。
外輪山の内側は、とても急激に落ち込む崖になっています。

実は、、
記事を書くのも良いけれど、、、興味は他の場所に移っている!
箱根をもっと深く掘り下げる興味は有るのですが、、、
鎌倉だって、一段深く掘り下げて紹介しようという興味もある。
でも、それ以上の興味の沸く場所、、、
静岡の薩垂峠や日本坂は???そちらの興味に写っているのです!
居ながらにして旅行気分が味わえるのが空中写真ですから!
それも、、バルーンに乗って空の上から探す気持ちです!
立体的な景色は、情景まで映し出す!現地を直接歩いても、この感覚は味わえないのです。
現地を歩いても、大半は藪漕ぎ(登山用語で、藪を書き分けて歩く)が低い山の特徴、、
景色や、感動を味わえるのは、宝探しと同じ!
でも、これらの情報が有ると無いとでは大違いです。
コレと思ったが最後、、、、藪の中でも確かめずに居れなくなる!

写真は国土地理院の空中写真(ckt-77-2_c14_12)(ckt-77-2_c14_13)を合わせたモノです。


■ 記 2009年04月16日 箱根の古代道 9

関白道の現地入りです。
こちらの映像は、極めて古いと考えられる道です。
特徴は、掘割で直線的です。
なぜ?古いと解るのかは上記の理由ですが、この手の道のセオリーとして、必ず脇道が近くに並走してあります。
脇道が出来る理由がありますが、、、それは主道が歩き難くなった為というのが通常でしょう。
特に山間の坂道は、雨の為に消耗が激しい。
鎌倉の朝比奈では、基の地質が岩盤なので、消耗が少なく残ったと考えられ、稀な例でしょう。
しかし、、この場所の脇道がある理由は、それだけでは無さそうです。
次回の写真をお楽しみに!

■ 記 2009年04月18日 箱根の古代道 10

さて、この写真は単なる石ですが?
1m程の大きさでこの周囲に似合わない火山性の岩とは異質な石です。
っとなれば、人為的に運ばれた石、、、
大きさは、石垣城の石垣に使われた石と同じ!
関白のやり残した石と考えられます。
石の周囲の状況は、

■ 記 2009年04月24日 箱根の古代道 11

右の掘割状の道は、関白道以前より有ったと考えられる道。
左には、S字状の踏みしめられて作られたと考えられる道があり、その真ん中に石が放置されています。
画面ではとても道と認識しにくいのですが、、この辺りが平面映像の限界です。
では、この関白道が石を運ぶのに使われ、掘割道は使われなかったのか?
 一夜城の莫大な量の石を80日の短期に運ぶ訳です。
それを実現するには、この細いオリジナルの古代道だけでは足りないと考えるのです。 その様な理由で脇道が作られたと考えます。
「蔦の細道」が細すぎて、秀吉は「宇津の谷峠」を切り開いた! この「宇津の谷峠」も秀吉が作った説と鎌倉時代に作った説があります。鎌倉時代に作られ未整備の「宇津の谷峠」を秀吉が整備して使える様にしたと考えるのが自然と思います。
鎌倉の朝比奈峠も同様に、古代東海道の痕跡が有るのに「朝比奈三郎義秀が太刀で一日一夜にして切り開いた道」という伝説が生まれた。
あの切り通しが一夜で作れる規模の道とは誰も思わないのですが、、、
 単に古代の文献が無いので、俗説に従う!!
なんとも、非科学的な立場の方が多い。
文献と遺構の両方が補いあう事で真実が見えてくる。
文献は無いに等しい! 遺構は、、発掘しなければ出てこない??? それが古代道の特徴と考える節があります。
文献は無くても、遺構は探せるのでは? っと言うコンセプトのブログです。
■コメントから、■
●石から (三品)
2009-04-26 09:08:11
石を手がかりにして、色々なことが推論できるんですね..
●石の状況 (ぼ輔)
2009-04-27 16:35:53
1590年4月6日には、箱根湯に本陣を敷き、7日に15万とも22万ともいわれる兵で小田原城を取まいた。 同年6月26日に城が完成するこの間80日程です。
城垣は、野面積みと呼ばれる工法で、自然石を加工しないで積み上げる方法です。
川原等の石を加工せずに使うため、角の丸い石が使われています。
それにしても、、、
ぼ輔の妄想癖も、ハナハダシイのかも!
古道探しの一番面白い処もこの推測の場面です。


■ 記 2009年05月06日  箱根の古代道 12

箱根の古代道の巻 終り
この写真は石の有った場所から数百m西の場所です。
脇道とオリジナル古代道とが合流した場所です。
東に向かって撮影しています。
右側の脇道は平坦で広い特徴があり、左の古道は、掘割状で狭い道です。
重量物を運ぶ為には、狭いより広い方が楽なハズ。
側溝も水ハケが良ければ不要、、あえて堀切状の道の形にコダワル必要もない訳で、、、
そんな訳で、実用的な脇道と考えます。
オリジナル古代道は、あくまで、道を迷わせない構造と、直線的な状態をしています。
考えさせられる事は、この道幅にあります。2m前後の道幅は、富士噴火により急遽作られ、その後一年ほどで廃棄された道として妥当な道幅と考えます。
官道、、駅路としての道の品格を感じる処は、道の設計思想にあります。
箱根山全体を観察して、一番直線的に峰を通せるルートである事ですが、古代道らしい設計思想をこの道に感じるのです。
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東富士演習場の立ち入り 14

2014年07月22日 | 古東海道 足柄、箱根、富士
大化の改新(西暦646年)から、延暦廿一年(802)迄約150年間に、十里木の経路も変遷が有ったでしょうし「火山灰や溶岩流が足柄路を塞ぐ」は文献以外にも起きていたと考えると、この道路痕跡が唯一の物とは思えない。
 道路遺構の様な直線的痕跡は、この東富士演習場の中にはマダ有ります。
 大半は火山灰に埋もれ、素人に手出し不可の不明瞭な遺構で書き様が無いのです。
とりあえず、、、誰でもgoogle地図で確認が出来る「富士山に人手を加えた古代の巨大遺構を紹介しました。」
考古学の特異な分野ですが、、一般人でも検証できる遺構です。

足柄路を延喜式駅路の根拠で、蒲原→沼津(長倉駅)→横走で語られます。
しかし、延喜式駅路以前の駅路は文献も無く語られる事も無い。
古代官路のコンセプトから、十里木経由の方が直線的で元来の古代東海道と考えられる。
足柄路が焼砕石で塞がった状況を、従来の延喜式駅路では噴火口や溶岩流から遠い為に説明できず、矛盾があるが、十里木峠の道路遺構は、焼砕石で塞がった状況を説明できる官路です。

以上がダイジェストです。

この場の再度の探索は、、予定していません。
行かれる方が居られたら、、、
留意点は、
1、東富士演習場は地元の地権者が立ち入る権利があります。
2、夏はすすき野状態と思われ、観察は困難と思います。
3、秋に野焼きを行います。
4、野焼きの後は、地表から10cmほど焼き残りの茎が飛び出した状態の原野となり、山靴で無いと、焼き残りの茎が踝を突く状態になります。
5、基地内は、ダートで道によっては荒れがヒドイ場所もあり2駆では立ち往生も考えられます。慎重に見極めて下さい。

現地に行かなくても古代道探しは、、、google(地図)や国土地理院(地図・空中写真閲覧サービス)で楽しめます! ご検索ください。
航空写真は、年度、太陽の方向、植生の状態、画質の解像度等で、在るべき痕跡が消えたり浮かび上がったりとても微妙な状態で出来るだけ、数を見る事をお勧めですが、今のgoogleマップは解像度に優れて優秀です。(10年前は解像度が劣り使えなかった。)

写真は
愛鷹山、越前岳の一連の山塊ですが、、、
その下の十里木峠から足柄に行く東富士演習場内の原野です。
この原野の中から道路遺構を探そうとしても、位置情報や場所を確信できないと、写真の様な原野が広がっているばかりです。
写真は、5月の連休で、ススキは無い状態です。写真の解像度が高いので、クリックすると大写しになります。
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東富士演習場の立ち入り 13

2014年07月12日 | 古東海道 足柄、箱根、富士
出典:『日本後紀』朝日新聞本  http://www.j-texts.com/chuko/koukiall.html
●卷九逸文(『日本紀略』)
延暦十九年(八〇〇)六月癸酉【六】》○癸酉。
駿河國言。
自去三月十四日、迄四月十八日、富士山巓自燒。
昼則烟氣暗瞑、夜則火光照天。
其聲若雷、灰下如雨
山下川水、皆紅色也。
●卷十逸文(『日本紀略』)
延暦二十一年(八〇二)正月乙丑【八】》○乙丑。
加征夷軍監已下軍士已上勳、各有等級也。是日。勅。駿河・相摸國言。
駿河國富士山、P6058昼夜恒燎、砂礫如霰者。
求之卜筮、占曰。干疫。宜令兩國加鎮謝、及讀經、以壤災殃。
●卷十逸文(『日本紀略』)
延暦二十一年(八〇二)五月甲戌【十九】》○甲戌。
廃相摸國足柄路、開筥荷途、以富士焼碎石塞道也。

以上の文面の青字の部分を注目すると、
空中に「如雨」「如霰」舞う灰や砂礫の記述があり、 それとは別に足柄路を塞いだのは焼碎石と書かれています。
降り注ぐ火山灰が道を塞いだのではなく、焼碎石(焼けて砕けた石=溶岩流)が道を塞いだと文献に述べられている。
『焼碎石を火山灰』と置き換えたら、誤解というより故意に歪曲した文章と成ります。

古代駅路には「全体を貫く基本的な方針」=ポリシーがあります。
○目的地に最短距離で、
○道幅は中路(9m)で、
○路面は、三和土(たたき)技法で舗装する。
○側溝を作る。
一箇所発掘されたら「目的地に最短距離で」道路遺構の延長を想像できる理屈です、現地を確認する程度の興味は湧くと思いますが、、、
文献に無い道路遺構ですが、、、
「廃相模国足柄路」のエピソードから十里木峠経由足柄路なら起こり得る話しとなり、この官路の存在を証明する文でもあります。

延喜式の編纂は927年(延長5年)に完成した。
延暦廿一年(802)足柄路を焼砕石が塞いだ、、、その100年後の官路が延喜式駅路であり、大化の東海道の不都合を修正した道と考える。
何が不都合か?それは、延暦の前に東海道を塞いだ溶岩流が781年に在る!  それだけでなく、毎年十里木峠は、冬の間雪で白く成っているのが通常で、最短の道より、自然災害の少ない道路を目指し経路を延喜式駅路に変更したと「ぼ輔」の憶測するのです。

問題は、
 802年足柄路を焼砕石が塞いだ文献を、100年後の延喜式で作られた駅路で起きたと解説した為に、言葉を歪曲し 無理な解釈で矛盾を生じたと考えるのです。時系列の混乱した研究者が深く考えずに論文を発表したのでしょう。
結果は、
初期の古代東海は 道溶岩流が道を埋めて通れなくなる場所であった!
 それが、文献には無い十里木峠を抜ける足柄路と呼ばれた古代東海道の存在と、
足柄路と呼ばれた古代東海道を痕跡を示して証明をしました。
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東富士演習場の立ち入り 12

2014年07月05日 | 古東海道 足柄、箱根、富士
2014-07-05 09:14:19

青いラインは道幅9mの道が在り、火山灰に埋もれた過去を持つと考えられる。推測すれば、埋もれた道の上に3m幅の道(橙色ライン)を作り、、その後に再度火山灰に3m幅の道も埋もれ放置された。
文献には無い東富士裾野に古代東海道の特色をもった道路遺構が在る。
延暦以前の経路を書かれた文献は無い。
依って、
この道路遺構が古代駅路で有る可能性について、
その規模、直線性、蒲郡から足柄峠に向けた最短地形などから肯定できる。
逆に否定する根拠は見当たらないのです。
この道路遺構は時期不明の火山活動で通行不能になり、原因は溶岩流や、火砕流道路遺構、その他に十里木周囲に火山灰が積もったかも、、、時代が下がり、その道路痕跡の上に3m幅の道路が作られた。
3m幅の道路も、その後の火山灰(宝永大噴火?)で埋没。

火山灰が柔らかく降り注ぎ、その後雨を含んだ火山灰は自重で陥没し、点線状になり現在に至る???
  っと勝手な憶測をしました。
「東富士演習場の立ち入り」の収穫は以上の結果です。

次回は、この道路遺構を元に 従来説『火山灰で足柄路が通行不可』の文献を見直しです。

記2018/6{俗に言われる「ソイルマーク」で、地下の土壌の状態が植生に影響します。よって、
季節により見え方は当然変わるのです。
何時もこの様な状態を見れるわけではない。
この記事は7月に書かれましたが、現地取材は5月頃と思います。}
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東富士演習場の立ち入り 11

2014年06月30日 | 古東海道 足柄、箱根、富士

常識的には、足柄路=延喜式駅路で、蒲原①→沼津(長倉駅)②→横走③より足柄のルートが語られます。
小山真人氏の説から、延喜式駅路では延暦噴火の火山灰で足柄路は影響を受けない!
そんな理屈が成り立つ。
文献には、十里木峠を古代東海道が越えた記述は無い。
このブログのコンセプトは痕跡を掘り返さずに探し出し、文献に欠けた部分を語らせよう!
と言う事です。


上の図(2001.3.10山梨日日新聞 日本洞窟学会)より、
781年天応元年 十里木峠より北の場所に溶岩の流出在り。
800年延暦19年 山頂近くの南側より、多量の溶岩流出在り。
801年富士山東山腹に噴火在り、文献に(10日にして小山が出現)とある.
その結果、図は十里木峠(足柄路)が溶岩流の影響を受けた事を示す図となります。
特に、800年延暦19年の溶岩流出は、蒲原と十里木峠の脇に溶岩が流れている。
よって、結論は
十里木峠越えの足柄路は、延暦以前に存在した古代東海道であり、現代的な火山の研究にも矛盾しないで「延暦噴火で足柄路不通」の原因を説明できる訳です。
 その噴火の影響は、1年で回復できた程度の影響です。
前回の写真の様な火山灰に埋め尽くされて平らな状態は、延暦噴火で十里木周囲に多く灰が降ったのか? 更に後年の噴火の為か、、、そこまでの言及は憶測となり、現状はご覧のとおりです。

次は、、3mの道幅とソイルマーク9mの具体的な解説です。
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東富士演習場の立ち入り 10

2014年06月25日 | 古東海道 足柄、箱根、富士
この場所は「演習場の立ち入り8&9」に映っている平地です。 
この緑のソイルマークの幅は???
地下の土壌の違いで、上に生える植物が変化を起こす現象ですが、
上の図右下にスケールがあり、5mの幅が表示してあります。結果は、このソイルマークは9m程の幅と考えられます。
この様な人里離れた荒れ野でも、古代駅路の中路規格を維持して作られている!!
古代駅路と標榜しても文句の無い幅です。
その道幅は、平塚の道路遺構から鎌倉市内を通り、朝比奈切通しを作り、六浦に抜ける。
決して、鎌倉から披露山を抜け逗子に行く細い道では無い!
江戸東海道などは、町中は広いのですが外れると細い道になり、箱根石畳は1~2間(180Cm)程の道幅です。

話は変わり、
延暦噴火(800年 - 802年)の際に足柄路が通れず、箱根峠(箱根路)を開いた。
> 富士山延暦噴火の謎と『宮下文書』 小山真人
> 2.延暦噴火の火山学的調査結果
> 街道を廃する厚い火山灰であれば,その堆積物が現在も残っていることが期待される.
> 宝永噴火の場合は,富士山東麓で2m以上もの厚さの火山灰層を今も見ることがでる.
> 不思議なことに,延暦噴火については,その堆積物として確実に同定できる厚い
 > 火山灰層が,東麓のどこにも見当たらないのである.

常識的には、足柄路=延喜式駅路で、蒲原→沼津(長倉駅)→横走より足柄のルートが語られます。(大化の東海道 蒲原から足柄ルート 1)参照
小山真人氏の説から、延喜式駅路では延暦噴火の火山灰で足柄路は影響を受けない!
そんな理論が成り立つ。
何処かに嘘や憶測が含まれているのでしょうか?
文献にの解釈に時系列の混乱が有るのでは?
大化の改新以降、延喜式施行まで300年間あり その期間の駅路に関しての文献は無いも同様です。
文献が無いなら、学者は話の結論を出さないのが科学的、、 学者の話と真実は別です。
300年の文献の空白は、痕跡に語ってもらう! それがこのブログの趣旨です。
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東富士演習場の立ち入り 9

2014年06月20日 | 古東海道 足柄、箱根、富士
道幅の比較に人を立てたが、意味の無い構図になった!
穴のある幅は、概ね3mですが、、、
問題なのは、
運動場状態の平坦地に、直線的に穴が開いている訳でその幅約3mです。
更に
幅3mの両脇に沿って植生が違い、緑のラインが出来上がっている!
ソイルマークなんていう話が在りますが、、、
地表の土壌の違いから植物の生育や、植生に影響が出る現象です。
埋没遺構の形が植生に影響する訳です。
この緑のラインの下にこの形の埋没遺構が考えられる。
そして、、、
道路遺構の幅は どの様な大きさか?
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東富士演習場の立ち入り 8

2014年06月14日 | 古東海道 足柄、箱根、富士
前回の写真の位置を変えるととても直線的です!
これが、道路遺構の真上に立たないと、痕跡を確認できない!!  理由です。
「東富士演習場の立ち入り6」の場所から関連して直線です。
google(地図)画像→googleで「富士サファリパーク」を検索し、地図を選択 航空写真を選択 その北2㎞の場所を再度ご覧ください。
この写真と比較して、何か感じませんか?
「古代の道が在りました!」だけでは済まさない!!
穴の幅は3m程ですが、、点線の様に穴があいています。では、、3m幅の道??
3m幅の道は、平安時代相当の道かも知れませんが、、、
では、古代東海道で無いのでしょうか???
火山灰で、土地は荒れて人も住めない場所で、、、
 古代東海道の道幅はどの様に変化するのでしょうか??
道幅は掘り返す事ができなければ、遺構確認ができない!  素人には無理な話。
   なんてね、、
道幅を確認する方法が在ります。
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東富士演習場の立ち入り 7

2014年06月13日 | 古東海道 足柄、箱根、富士
立ち位置は前回と同じ場所で、向きを西の十里木峠であったのを、
今回は反対の東を写すと、、、
この様な写真です。
次回は、もっと判り易い写真を載せましょう。
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東富士演習場の立ち入り 6

2014年06月07日 | 古東海道 足柄、箱根、富士
「東富士演習場の立ち入り5」の写真にマークを入れました。
如何ですか? 直線ラインを確認できますか??
判りにくいでしょ?
直線でも、道らしくないですね!側溝も無いし、道幅も狭すぎるし、、、

探す以前から、、火山灰で埋もれた道はドノ様に変化するか? そんな想像をするのです。
キット雪を被った状態になるであろう!
火山灰が2~30㎝なら、道の輪郭は判る。
デモね、1m程から怪しくなって、道路際に竹を立てないと、道から外れる事になる。
挙句は、陥凹部には雪が溜まりやすくて、穴が消える!
道路の側溝を想定した穴や切通しは、灰で平面となり消える。
そんな想像をするのです。
千年前に起きた事を 想像力でシュミレーションをしないと、前回の様に
見ても認識しない状態になる。
事前に想定していれば、想像外でもこんな状態で在ったのか!っと言うことです。
でも、、此処までの埋没状態とは思いませんでした。
通常、平地の道路遺構は、この様な埋没状態なのかもしれません。挙句に畑でも作られたら判らない!
宝永山は1707年に爆発し、江戸に大量の火山灰が降り、その噴火口の直下の御殿場ですから、、、802年(延暦21年)『廃相模国足柄路開筥荷途、以富士焼砕石塞道也』をはるかに越えた降灰量と、遺構から推察できる。

私の場合は、
平地の道路遺構は埋没し、掘り出さないと確認できないが、高い所から降りる急な崖は薬研掘り状に切通すので、切通しを探すので立体的な道しか知らなかったのかも、、、

上の写真が、、穴の正体!
本当に鎖線の様に穴が開いているのです。
道の概念には無いですね!
砂地の状況でもないし、火山灰に埋もれた時独特の状況なんでしょうね。
更にその東方向は、、、

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